清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
この物語の舞台となる1968年は、プロフットボールの組織体制が大きく変化してゆく、過渡期となった時代でした。
1920年にAPFAとして発足したプロ組織は、1922年にNFLと改名され、次第に人気が高まり隆盛をとげます。すると別のプロフットボール組織を作ろうとする集団が現れ、新興リーグを立ち上げては、すぐに倒産・消滅するという事態が何度も繰り返されました。
しかし1960年に発足した新興リーグAFL(American Football League)は資金力が豊富で、NFLにとって今までで一番の強敵でした。1960年のNFLドラフトで12名の選手が1位指名されましたが、そのうちの8名がNFLを蹴ってAFLと契約を結ぶという由々しき事態が起こったのです。
当時のAFLは次のようなチーム構成でした。
- ニューヨーク・タイタンズ(のちジェッツに改名)
- ボストン(のちニューイングランド)・ペイトリオッツ
- バッファロー・ビルズ
- ヒューストン・オイラーズ(のちテネシー・タイタンズ)
- ロサンゼルス・チャージャース
- デンバー・ブロンコス
- オークランド(のちラスベガス)・レイダース
- ダラス・テキサンズ(のちカンザスシティ・チーフス)
この8チームはすべて現在NFLメンバーとして活動中ですが、もともとはNFLを倒すことを目的として結成された新興チームだったのです。(このあと更にマイアミ・ドルフィンズとシンシナチ・ベンガルズもAFLの新チームとして加わります)
AFLの人気拡大に危機感を持ったNFLは、「AFLをぶっ潰す」のではなく、「両者が共に繫栄する」という方針を選びました。今思えば、賢明な選択をしたのだと感じます。2つの組織が対立し、有力選手の奪い合いを続けていたら、現在のプロフットボールの隆盛は、違った姿になっていたかもしれません。
1966年のシーズンから、(正確には1967年1月)NFLとAFLのチャンピオン同士が対戦し、真の王者を決める「スーパーボウル」が始まりました。第1回と第2回はビンス・ロンバルディ率いるNFLパッカーズが勝ちましたが、第3回(ジェッツ)第4回(チーフス)とAFL勢が勝利し、両者の実力が拮抗していることも証明された形となりました。そして1970年のシーズンが始まる前、NFLがAFLを吸収する形で統一されることとなったのです。AFLは消滅し、NFLは旧NFL所属チーム中心のNFCと、旧AFL所属チーム中心のAFCに分けられ(多少の例外あり)、両方の勝者がスーパーボウルで争うという現在の姿が構築されました。
1966~1969の4年間は、二つの組織が火花を散らしてぶつかり合っていた稀有な時期と言えます。
ハイジ事件は、その最中、1968年11月に発生しました。
当時AFLは、NFLとの違いを強調するため、オフェンス志向の強いフットボールをおこなっていました。ロングパスの投げ合い、派手な点の取り合い等、一般ファン受けするような試合内容を目指したのです。そのためにはパス能力のあるQBを獲得することが不可欠でした。
ニューヨーク・タイタンズ(4年目の1963年にジェッツと改名)は創部当初の5年間で29勝39敗2分と一度も勝ち越せていないチームでしたが、1965年、アラバマ大のスーパースター、QBジョー・ネイマスを獲得し、入団3年目の1967年に8勝5敗1分と初めて勝ち越しに成功します。「ブロードウェイ・ジョー」と仇名されたネイマスは、ニューヨークのフットボールファン達から熱狂的に愛されます。大量のNYジャイアンツ・ファンが、NYジェッツ・ファンへと「宗旨替え」をおこなった年でもあります。
※当時、白いスパイクシューズでプレーする選手などほとんどいない時代でした。ネイマスの姿は本当に格好よかったです。
そして1968年、当時は年間試合数が15でしたが、ジェッツは最初の9試合を7勝2敗と順調に乗り切ります。そして11月17日に同じく7勝2敗のオークランド・レイダースと、天王山の試合を敵地オークランドでおこなうことになりました。レイダースは当時AFL最強のチームと言われ、前年1967年には13勝1敗でAFL優勝し、第2回スーパーボウルに出場しましたがパッカーズに敗れています。
レイダースを率いるQBは円熟27歳のダリル・ラモニカ。(ネイマスは25歳)ラモニカの仇名は、”Mad Bomber”(狂気の爆撃手)ですから、そのプレーぶりが容易に想像できます。
この試合が遠く西海岸でおこなわれたため、ジェッツ・ファン達は初優勝への期待を胸いっぱいにして、NBCのTV放送にかじりつきました。試合は期待通りの大熱戦・大接戦となりました。両軍合わせてパス試投71回、パス獲得距離692yd、TDパス5回という壮絶なパスの投げ合いでした。
第3Q終了時点でOAK22-19NYJとレイダースが3点リードしますが、4Qに入ってネイマスからWRドン・メイナードへの50ydTDパスが炸裂。ラモニカもTDパスを投げ返しますが、残り1:05でジェッツのKジム・ターナーが短いFGを成功させ、NYJ32-29OAKと、ジェッツがこの試合4回目のリードを奪います。TV放送にはここでCMが入りました。
あと1分05秒、ジェッツが3点差を守り切るかどうか、ジェッツ・ファンは祈るような気持ちでCMが終わるのを待ちました。ところが彼らの眼に飛び込んできたのは信じられない光景でした。
画面はフットボール場ではなく、スイス・アルプスの山並みが映し出され、子供向けTVドラマ「ハイジ」(原題Heidi、日本での番組名「アルプスの少女ハイジ」)が開始されたのです。
幼い頃に両親と死別した少女ハイジが、祖父母や周囲の人に育まれ、アルプスの美しい自然の中で成長してゆくドラマは、米国全土の少年少女たちに感動を与え、非常に高い視聴率を上げていました。しかし、そんなことはジェッツ・ファンにはどうでもよいことで、「とにかく、最後の1分を見せてくれ」と思った事でしょうが、彼らの願いは結局叶いませんでした。
この試合の大きな問題点は、「パスの投げ合いとなり、試合時間がやたら長くなったこと」でした。
実は、「試合時間が伸びた場合は、次の番組を遅らせることが出来る」という取り決めもあり、既にここに至るまで数回に渡りハイジの開始を遅らせていたのですが、「もうこれ以上、開始時間を遅らせて子供達を待たせるわけにはいかない」とNBC番組調整責任者のディック・クラインが判断し、副社長とも相談の上、フットボール放送を打ち切ったのでした。
人気番組「ハイジ」は全国で夕方6時から開始すると決まっており、ニューヨークのある東海岸地区はフットボール中継をやむなく打ち切りましたが、国内に時差があるため、東海岸以外の地域ではフットボール中継を終えてから平常通りハイジを放送することができたのです。肝心なニューヨークのファンだけが割を食い、大事な試合の結末を見られない結果となってしまいました。
怒りを爆発させたファン達は、NBC放送局に電話して、「最後まで試合を見せろ」と猛抗議を図りましたが、わずか数分の間に約1万回の電話が放送局に集中したため、局の電話回線がパンクして、一切の電話がかからない(放送局からも電話をかけられない)状態になりました。
何度ダイヤルしても電話がつながらないため、ファン達の怒りは更に増幅され、今度は電話会社、そしてニューヨーク警察に抗議の電話が殺到することになりました。
NBCはファンの暴動を少しでも抑えようと、試合結果を字幕でTV画面に掲載しましたが、これが全く逆効果でした。
「本日のフットボール試合結果:オークランド・レイダース43-32NYジェッツ」
これを見たジェッツ・ファンは我が目を疑いました。終了1分前に3点差で勝っていた試合が、11点差の敗北となっていたのです。実際はQBラモニカが残り40秒で再逆転のロングTDパスを投げ、あわてたジェッツは次の攻撃でファンブルし、レイダースにリターンTDされていました。
その後もNBCに対する怒りの抗議が続いたため、NBC社長ジュリアン・グッドマンの謝罪放送を流すという異例の事態となりました。
この試合は「ザ・ハイジ・ゲーム」と名付けられ後世に伝えられることになり、メディア関係者にとって、「どんなことがあろうとも、フットボール中継は最後まで放送する」という戒めになっています。
その晩、多くのジェッツ・ファンが「最悪の夜」を過ごしましたが、その後、とても良いことが起こっています。結局、AFL選手権にはレイダースとジェッツが勝ち上がり、12月29日ニューヨークのシェアスタジアムで再戦しました。またもやネイマスとラモニカの壮絶な投げ合いになりましたが、今度は27-23でジェッツが勝っています。
翌1969年1月12日、第3回スーパーボウルに登場したジェッツは、名QBジョニー・ユナイタス率いるボルチモア・コルツと対戦します。世間のほとんど全員がコルツ有利と見た試合でしたが、ネイマスは記者会見で、「スーパーボウルは我々ジェッツが勝利する。私が保証する。」と約束し、その言葉通り16-7でジェッツが勝利しました。「プロフットボール史上、最大の番狂わせ」といまだに言われています。
チーム創設9年目でプロフットボール界の頂点に立ったNYジェッツでしたが、それ以来52年間、優勝どころかスーパーボウル出場さえ、一度も実現していません。
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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