【清水利彦コラム】フットボールの歴史を彩る一枚の写真 第10回 マリオン・モトレー「史上最高のフルバック」 2023.4.14

清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

皆さんは「クリーブランド・ブラウンズはどんなチームか?短い言葉で説明せよ。」と質問されたら、どのように答えますか?
貴方が20代、30代、40代ならば、「どうしようもないくらい弱いチームだよ。救いようがないね。」と答えるかもしれません。それは正しい回答です。

2003年から昨2022年までの20年間で、ブラウンズは106勝215敗1分 勝率.330。勝ち越したシーズンが2回だけ。プレイオフ出場が1回しかありません。特に2015年の1勝15敗、2016年の0勝16敗は、「NFL史上最悪の2年間」として、今後なかなか破られない記録ではないかと思います。1966年度から開始されたスーパーボウルには、まだ一度も出場経験がありません。
(1996年~98年の空白の3年間については、別の機会にご紹介したいと思います)

ところが、70代、80代、90代の長老フットボールファン達に同じ質問をしたら、たぶんこういう答えが返ってくるでしょう。

「ブラウンズと言えば、そりゃ間違いなくプロフットボール界最強のチームさ。近年はちょっと低迷しているけどね。」

クリーブランド・ブラウンズは、NFLに対抗して1946年に設立されたAAFCという新興リーグのチャーターメンバーです。設立初年度から4年連続して優勝し、その強さを認められて、1950年にはNFLへの加盟が承認されました。この時は、AAFCから同時に49ers、ビルズ、コルツもNFLへ加盟しています。

ブラウンズはNFL新加盟の年から6年連続してNFL選手権に駒を進め、うち3回チャンピオンになっています。球団創設からの20年間で189勝58敗9分 勝率.765 優勝8回と、強豪の名をほしいままにしました。しかし1964年のNFL選手権優勝を最後に、チャンピオンとは縁のないチームになってしまいました。

今回は、プロフットボール界最強であった時代のブラウンズで、最高のフルバックとして活躍したマリオン・モトレーをご紹介します。

1950年、NFL選手権優勝を果たしたブラウンズのFB#76マリオン・モトレー(出典:The Football Book, Sports Illustrated)

185cm、105kgとゴリラのような体格で、背番号76を付けているため、「ファンブルを拾い上げてリターンするDL」のように見えますが、彼はFBとLBとして攻守両面で活躍した選手でした。当時はポジション毎の番号を限定するルールがなかったため、QBが#60を付けていることなども当たり前でした。

当時のFBは、キャリアとなる場合はほとんどが中央突破プレーで、主にHBのランプレーでブロッキングバックを務めたり、パスプレーでパスプロテクションをおこなったりするのが役割でした。FBがボールキャリアになるのは1試合で10~12回程度。それなのにモトレーはNFL初年度の1950年にリーディング・ラッシャーになっています。

マリオン・モトレーはブラウンズに8年間在籍し、ラン826回で4712ydを獲得し、1回平均5.7yd前進しました。実はこれが大変な記録なのです。当時から70年以上が経過していますが、いまだにRBとしての1キャリー当たり平均最長獲得距離NFL記録として残っています。近年、QBが走り回る時代になり、マイケル・ヴィックとランドール・カニンガムがモトレーを上回る平均距離数字を挙げていますが、RBで平均5.7ydを超えた選手は出ていません。例えば、あのウォルター・ペイトンでさえ、1回当たり平均4.4ydしか記録していないのです。(バリー・サンダースが平均5.0yd。近年ではタイタンズのデリック・ヘンリーの1回4.8ydあたりが極めて高い数値)

ゴリラのような体格で、中央突破ばかりを繰り返しながらの平均5.7ydは、驚異としか言いようがありません。

マリオン・モトレーの走る姿については、下記のYou Tube画像をご覧ください。(4分)

(120) #74: Marion Motley | The Top 100: NFL’s Greatest Players (2010) | NFL Films – YouTube

マリオン・モトレーは1920年ジョージア州生まれ。3歳の時に家族と共にオハイオ州カントンに移ります。高校と大学(ネバダ大)ではそれぞれFB兼LBとして活躍しますが、まだ黒人アスリートが注目される時代ではありませんでした。大学3年の時に徴兵となり海軍に入ります。彼が送られた場所は、イリノイ州のグレートレークス海軍訓練所でした。この訓練所にはフットボール部があり、その時のヘッドコーチは、なんと後にクリーブランド・ブラウンズの初代コーチとなるポール・ブラウンでした。

1954年ブラウンズ・コーチ、ポール・ブラウン(出典:The Football Book, Sports Illustrated)

1945年、グレートレークス海軍訓練所チームは、モトレーが入部したおかげで非常に強くなり、ノートルダム大を39-7で破る快挙を打ち立てています。

超優秀なコーチと巡り合う幸運を得たマリオン・モトレーは、1946年ブラウンズが創設された時に、ポール・ブラウンから「トライアウトを受けてみないか」と誘われ、年俸4500ドルで契約します。

ポール・ブラウンが考案した「ディレイド・ハンドオフ(ワンテンポ遅れてRBが中央を突くプレー)」は、のちに「ドロー・プレー」と名付けられ、モトレーの得意プレーとなりました。

モトレーは初年度から大活躍しますが、当時チームには黒人選手が2人だけしかおらず、彼らにとって決して平穏な毎日ではありませんでした。試合中には人種差別に満ちた罵声やヤジを投げかけられ、遠征試合のたびにホテルやレストランでひどい扱いを受けました。マイアミへの遠征の際には、脅迫状が届いたため、急遽、チーム全員でホテルを変更したこともありました。

マリオン・モトレーはオールプロ選出2回、プロボウル出場1回。リーディング・ラッシャー2回を記録して35歳で引退しました。彼は引退後、フットボールコーチになることを望みましたが、残念ながら、まだ「黒人が白人を指導できる」世の中ではなく、どのチームからも就任を断られています。

1999年マリオン・モトレーは79歳でこの世を去りました。1968年には、黒人としては2人目となるプロフットボール殿堂入りを果たしています。

サイドラインのマリオン・モトレー

2019年にNFLは創設100年を記念して、「オールタイムNFL選抜チーム」を発表しました。表彰された選手の中には12名のRBが含まれていますが、マリオン・モトレーも選出されています。その12名のRBの氏名は下記の通りです。(年代の古い順に記載)

ダッチ・クラーク、スティーブ・ヴァン・ビューレン、マリオン・モトレー、レニー・ムーア、ジム・ブラウン、ゲイル・セイヤーズ、O・J・シンプソン、アール・キャンベル、ウォルター・ペイトン、エリック・ディッカーソン、バリー・サンダース、エミット・スミス


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