※前号からの続きです。
第3話 ユニコーンズ部歌「マーチ・オン・慶應」と、ノートルダム大学ファイトソングの関係
ノートルダム大学の「Victory March」は全米で最も有名なカレッジ・ファイトソングの一つです。メロディを聴いていただければ、誰でも「ああ、聴いたことがある」と思うでしょう。
University of Notre Dame Fight Song- “Notre Dame Victory March” – YouTube
(音楽1分30秒 映像は歌詞カードのみで動画なし)
実は、この「Notre Dame Victory March」とユニコーンズ部歌「March on KEIO」には深い関係があることをご存じでしょうか?
以下は、慶應義塾體育會アメリカンフットボール部75年史の、第10ページに記載された部歌です。部歌の作者である平岡養一先生の自筆による楽譜となります。
楽譜の最後の行に、「間奏 ノートルダム大学応援歌 ヴィクトリィマーチより」と明記されています。実際にユニコーンズ部歌を音源化したものを聴いていただきましょう。これは、ミュージシャンの和泉宏隆氏(故人、塾高フットボール出身、昭和56年慶應義塾大学卒)が編曲・演奏してくださったもので、今回S52卒米本篤弘さんからデータをご提供いただきました。
部歌「March on KEIO」作詞作曲 平岡養一 編曲・演奏 和泉宏隆
(http://www.keio-unicorns.com/magazine_photo/2023/unicornssong.wma)
※スマホでお読みの場合は音源が聴き取れない場合がございます。
歌詞が2番まであるので(1番・英語、2番・日本語)メロディが2回繰り返され、その間奏として確かにノートルダム大学の有名な旋律が入っています。和泉宏隆さんは楽譜の原作に極めて忠実に演奏してくださっています。
ここで部歌の作者、平岡養一氏の略歴をご紹介しましょう。
<平岡養一>当時、日本最高峰の音楽家、木琴奏者。
1907年兵庫県尼崎市にて幼少期を過ごす。
父の仕事の関係で東京に移り、幼稚舎に編入。生粋の慶應ボーイ。慶應義塾大学経済学部卒。
幼いころから音楽に非凡な才能を見せる。手が小さいためピアニストはあきらめ、木琴奏者となる。
1930年、23歳の時、父親に促され、渡米してアメリカで木琴奏者として身を立てる決心をする。
片道分の船代のみ持って、貨客船・秩父丸にて渡米し、ニューヨークに移る。仕事を求めて歩き回るが最初は全く相手にされず、食べ物にも事欠く赤貧の数か月を過ごす。
翌年、NBCラジオ局(当時、テレビはまだ存在しない)のオーディションに合格。毎朝15分間の「木琴演奏ラジオ番組」を与えられる。この番組は放送回数4000回に達する大人気を博し、「アメリカ全土の少年・少女達はヨーイチ・ヒラオカの奏でる音楽で目を覚ます」とまで言われるようになる。
名前が知られるようになった平岡養一は、1936年ニューヨークのタウンホールで独演会を開き、ニューヨーク・タイムズ紙から絶賛され、一気に音楽家としての地位を築き上げる。
この頃、地元コロンビア大学vs海軍兵学校(ネイビー)のフットボール試合を観戦し、かつて神宮球場で観た野球の早慶戦と同じ興奮・熱情を感じ、アメリカンフットボールの大ファンとなる。この時以来、10年間に150回以上スタジアムに足を運び、プロを含む地元各チームの追っかけをして回るほどの熱狂的なフットボール・クレイジーと自認する。
1942年、太平洋戦争の勃発により日本に帰国。ビクター社と契約し幾多のレコードを出して、日本でも最高峰の音楽家としての地位を築く。終戦後は日本と米国を頻繁に往復し、演奏ツアーをおこなう。
平岡養一の人生には幾度もピンチがあったが、その度に慶應の友人達から支えられ助けられて、危機を乗り越えてゆく。平岡養一は慶應義塾への感謝の気持ちを「慶應讃歌」「ヴィクトリィマーチ」「オール慶應の歌」など、数々の美しい慶應の歌を作ることで恩返しとしてゆく。
1950年、慶應義塾大学体育会アメリカンフットボール部の幹部部員である飯田繁治(主将)、菅原甫、永田正夫、原田稔の4名の訪問を受け、「創部15周年にあたり、我々の部歌を作っていただけませんか」との依頼を受ける。翌1951年、部歌「March on KEIO」完成。この歌は「体育会アメリカンフットボール部への寄贈」とされ、作曲料等を受け取っていない。
その年の年末に平岡養一は「NHK紅白歌合戦」の前身である「NHK音楽合戦」という番組に招待され、木琴を演奏している。つまり平岡養一は日本でも人気・知名度が頂点にあった時期に、極めて多忙なスケジュールを割いて、部歌を作成してくれたことになる。
1962年11月、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の独演者として、カーネギーホールにて独奏をおこなう。これは日本人初の快挙であった。1963年米国の永住権を取得し、家族でカリフォルニア州に移住。日米をまたにかけた音楽活動を精力的におこなう。
1980年9月、日本経済新聞の「私の履歴書」にて平岡養一の生涯が紹介される。ちなみに1971~1980年の10年間で、音楽界から「私の履歴書」に登場したのは、古賀政男(作曲家)、朝比奈隆(大阪フィルハーモニー交響楽団指揮者)、藤山一郎(歌手)、そして平岡養一の4名のみ。
1981年胃がんのため、73歳にてその生涯を閉じる。
今回、入手した新しい情報として、「平岡養一は、なぜオーディションに合格して、NBCラジオ局において、朝番組の契約を獲得できたのか」があります。まだ日本でもほとんど実績がなく、米国では全く無名の木琴奏者であった平岡養一、しかも木琴という楽器は極めてマイナーです。普通ならば無名の新人(しかも東洋人)にこんな大役が舞い込むとは思えません。
その答えは木琴・マリンバのプロ奏者である通崎睦美氏の著書「木琴デイズ 平岡養一・天衣無縫の音楽人生」に書いてありました。通崎睦美様には感謝しています。
昔、音楽を聴こうとするならば、生演奏を聴くしかありませんでした。しかしレコードというものが発明されて「録音した音楽を聴く」という選択が増えました。更に「ラジオ放送を聴く」という文化が始まります。ラジオを購入すれば無料でいくらでもニュースや音楽が聴けるので、人々は争ってラジオを買い求めました。(テレビはまだ発明されていない)
ただし、ラジオで音楽を聴くには一つ大きな障害がありました。まだマイクロホンやスピーカー等の機器のレベルが低かったため、管弦楽器類の奏でる重い音は電波を通してラジオで聴くと、非常に聴きにくい不明瞭な音になってしまうのです。ところが木琴の軽く明快な音色は、当時でも人々の耳に心地よく聞こえました。そこでラジオ局は、木琴を使用した音楽番組を模索していたのです。
この番組は平岡養一のほかにピアノ伴奏の先生も起用されていましたが、あくまでもメインの奏者は平岡養一でした。
また、平岡養一が日本人であったため、米国人の弾けないレパートリーを多く持っていました。当時ニューヨークに多く居た日本人リスナーを取り込むことも出来るというメリットも想定されていた、と考えられ、平岡養一に白羽の矢が立ったのです。
さて、「部歌と、ノートルダム大学応援歌の関係」の話に戻りましょう。
ここで皆様に是非ともお願いしたいことがあります。
今回のコラムを読んで、「なんだ、我々の部歌は、ノートルダム大学ファイトソングのパチリ(盗用)なのか?」などという誤った認識をしないでいただきたい、ということです。
米国のフットボール・ファンならば、ノートルダム大学ファイトソングのメロディは誰でも知っています。一方、部歌作成の時点で、平岡養一氏は既に米国で一流の音楽家としての名声を確立しており、そんな人が誰でも知っているメロディの盗用などするわけがありません。
体育会アメリカンフットボール部の部歌を作るのであれば、次の4つの条件に当てはまる人が作ることが理想と考えます。
- 作曲の能力に優れている
- (英語の歌詞を用いるならば)英語が堪能であり、英語の作詞能力がある
- 慶應義塾や慶應体育会の文化や気質、校風を知り尽くしている
- 本場米国で試合場に何度も足を運び、カレッジフットボールの何たるかを知り尽くしている
私は平岡養一先生が、現役部員からユニコーンズ部歌作成の依頼を受け、「この仕事を引き受けられるのは、世界中で私一人だ」をお感じになっただろうと受け止めています。平岡先生は上記の4つの条件に見事合致しており、まだ海外渡航など珍しかった時代に、他にこのような方がおられるとは到底思えません。
「部歌に、ノートルダム大学ファイトソングの間奏を入れたいきさつ」を、平岡養一本人が次のように語っています。
「全米諸大学の応援歌を聞き比べてみて、私が最も気に入ったのがノートルダム大のファイトソングであった。ノートルダム大は当時、人気・実力ともに全米ナンバーワンのチームだった。そのメロディが実に心地よく耳に入ってくるので、私はあえてそのメロディを慶應アメリカンフットボール部歌の間奏に使用することにし、その旨、楽譜に明記した。
作曲・作詞は全くオリジナルなものであるが、間奏部分だけには、アメリカ人なら誰でも知っているノートルダム大の旋律を入れることにより、米国のフットボール熱烈ファンが聴いても『おおっ』と言ってもらえるような部歌にしたかったのだ。」
平岡宅に完成した部歌を受け取りに行った4名の部員の一人、原田稔先輩(昭和27年卒、故人)はかつて次のように話されていました。
「部歌をいただいてから、我々は毎日、練習終了後に部歌をうたう練習もおこなった。立教とのリーグ戦の際に、当時立教大学はオークスという米国人が監督をしていたのだが、我々が試合開始前にサイドラインで部歌を歌っていたところ、オークス監督がやってきて『君たちは素晴らしいファイトソングを持っているね!』と褒めてくださったのを鮮明に覚えている。」
これこそが平岡養一先生の狙いであったと考えるのです。
原田稔先輩は次の思い出も語っておられました。
「完成した部歌を受け取りに行った時、我々は『平岡養一先生は大変忙しい方だから、用件が済んだらすぐに失礼しよう』と考えていた。ところが平岡先生が我々を帰宅させてくれないのだ。奥様が茶菓子を運んでくださり、先生ご夫妻と我々はフットボールについてたくさん語り合った。先生は、自分自身が実際に米国のスタジアムで観た名勝負の話など、あふれんばかりの思い出話を次から次へとしてくださった。日本では普段アメリカンフットボールの話題を語り合える方が周囲におられなかったのだと思う。平岡養一先生は本当にフットボールが大好きなのだと痛感した。」
今は幸い全米カレッジの情報が豊富にあり、簡単に入手出来ます。ノートルダム大学のマーチングバンドの演技をご覧になりたい方は下記You Tube画像をご参照ください。これだけの演技をするために、学生達はどれほど練習を積んだのだろうと想像するだけで涙が出てきます。
2016 Notre Dame Band Pregame – YouTube (対スタンフォード大戦のPre Game演奏、11分)
また、様々な有力大学のファイトソングを聞き比べたいという方には、次のようなサイトもあります。動画はありませんが、TOP25校のファイトソングと、フットボール・スタジアムが登場します。もちろんノートルダム大学も入っています。「強いフットボールチームを持つ大学は、皆、有名なファイトソングを持つ」と言っても過言ではないでしょう。
(2) Top 25 College Football Fight Songs – All Sports Central – YouTube 30分
実は、平岡養一先生は次のような驚くべき発言もなさっています。
「March on Keioには、英語歌詞の一番の他に、日本語の二番もあるのだが、残念ながら、二番の歌詞は定着しなかったようだ。いずれにせよ間奏があるので、ノートルダム応援歌である間奏を挟んで、口ずさんで歌うのが正しい歌い方である。」
つまり「……march on to Victory」で終わるのではなく、その後に「ラーラララ、ララララ…」と間奏部分を口ずさんで部歌を終えるように歌うべきだ、と述べておられます。
これは私が決められることではありませんが、一度、指導陣と三田会役員が音楽家の意見等を交えながら検討してみてはいかがかと、希望する次第です。
さて、もし現在、日本最高峰の音楽家と呼ばれる方に、部歌を作っていただいたら一体幾らかかるのでしょう?我々はこの部歌を、ユニコーンズが所有する無形の貴重な財産と考え、大切に歌い続けてゆくべきだ、というのが今回の私の結論です。(終)
<お知らせ>12年前にUnicorns Netに連載した「平岡養一物語」全文を、このたび私のブログhttps://footballquotes.fc2.net/ に掲載しました。長編物語のカテゴリーから「平岡養一物語」を選んでください。A4サイズで20ページという長文ですが、平岡養一先生について詳しく知りたい方はぜひ読んでください
「校歌はすべての大学が持っているが、部歌を持っている体育会クラブは、ほんの一握りしかないだろう。しかもそれが、当時日本最高の音楽家によって作られ、米国のファイトソングなどを研究し尽くした上で、どんなアメリカ人が聴いても何ら恥じることのない出来映えになっている。
後輩諸君には、当時我々アメリカンフットボール部員たちが、相当な思いをもって、この部歌誕生に関わったことを知ってもらいたいし、誇りをもってこの部歌を歌い続けてほしい。(中略)
この部歌とともに、慶應義塾体育会アメリカンフットボール部がますます良い部、強い部として繁栄していくことを祈念しています。」
原田稔(故人、昭和27年アメリカンフットボール部卒、ポジションはエンド)
第4回甲子園ボウルにてTDパスレシーブを記録
慶應義塾体育会アメリカンフットボール部75年史「部歌誕生秘話」より転載
「幸運と成功は、努力して獲得しなければならない。」
平岡養一 日本経済新聞「私の履歴書」より
「私の最も愛する母校慶應義塾の、しかも最も愛するこのアメリカンフットボールという競技の選手達の為に、私は部歌を作りました。過ぎし日にニューヨークで私の血を沸かした、アメリカの数々の大学応援歌の勇ましくも楽しい調べを想いながら書き上げました。この歌が、我が国の人々の間に、この壮快なスポーツ、アメリカンフットボールの持つ魅力が普及していくのに多少でも役に立つことを心から祈っている次第です。」
平岡養一 部歌「March on KEIO」作者
1951年4月25日 日比谷公会堂で開催された
慶應義塾大学アメリカンフットボール部創立15周年記念
新部歌発表会におけるプログラムに掲載された作者挨拶文より転載
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
https://footballquotes.fc2.net/
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