清水利彦(S52卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
NFLのレギュラーシーズン終了時点で全32チーム中14チームがプレイオフに進出したのですが、そのプレイオフ優先順位は下記のようなものでした。
AFC
1 ボルチモア・レイブンズ
2 バッファロー・ビルズ
3 カンザスシティ・チーフス
4 ヒューストン・テキサンズ
5 クリーブランド・ブラウンズ
6 マイアミ・ドルフィンズ
7 ピッツバーグ・スティーラーズ
NFC
1 サンフランシスコ49ers
2 ダラス・カウボーイズ
3 デトロイト・ライオンズ
4 タンパベイ・バッカニアーズ
5 フィラデルフィア・イーグルス
6 ロサンゼルス・ラムズ
7 グリーンベイ・パッカーズ
結局この中から、AFC3位のチーフスが「2年連続4回目のSB(スーパーボウル)優勝」を果たすのですが、もし他の13チームがそれぞれ優勝したと仮定すると、「前のSB優勝から、どのくらいご無沙汰しているのか」は次のようになるはずでした。今期は「長い雌伏期間を乗り越えて、スーパーボウルに挑戦する」チームがたくさん居たのです。(ご無沙汰が長い順に並べてみました)
- ライオンズ SB初優勝、ただしNFL王座としては67年ぶり5回目の優勝
- ブラウンズ SB初優勝、ただしNFL王座としては60年ぶり9回目の優勝
- ビルズ 球団創設53年目でSB初優勝、ただしAFL時代に優勝2回あり
- ドルフィンズ 50年ぶり3回目のSB優勝 (SB出場は37年ぶり)
- 49ers 29年ぶり6回目のSB優勝
- カウボーイズ 28年ぶり6回目のSB優勝
- テキサンズ 球団創設22年目でSB初優勝
- スティーラーズ 16年ぶり7回目のSB優勝
- パッカーズ 14年ぶり5回目のSB優勝、他にNFL選手権9回優勝
- レイブンズ 11年ぶり3回目のSB優勝
- イーグルス 6年ぶり2回目のSB優勝、他にNFL選手権3回優勝
- バッカニアーズ 3年ぶり3回目のSB優勝
- ラムズ 2年ぶり3回目のSB優勝、他にNFL選手権2回優勝
- チーフス 2年連続4回目のSB優勝、他にAFL時代に優勝1回
特に1位ライオンズから4位ドルフィンズまでが勝つならば、本当に長年待ち望んだ優勝だなと思っていました。長年優勝から遠ざかっているチームが優勝したり、負け続けたチームが初優勝したりすると、やたら感動を覚える私ですので、今年度は「ご無沙汰順位1位のライオンズから、7位のテキサンズ初優勝までなら、どのチームが優勝しても構わない」と思っていましたが、結局、一番ご無沙汰順位の低いチーフスが優勝してしまい、トホホでした。
そこで今回はいささか不本意ながら、覇者チーフスの歴史について述べてみます。
ハント家の歴史
チーフスは、ラマー・ハントという石油王ハント一族の一員が創設したチームであることは、ご存じの方も多いと思います。チーフスの歴史を紐解くならば、まずハント家の歴史を知らねばなりません。
まずは父親であり創業者のH.L.ハントと、ラマー・ハント本人について述べてみます。
(浅い知識で書いていますので、誤りがありましたら何卒ご容赦ください)
H.L.ハント
本名はハロルドソン・ラファイエット・ハント・ジュニアですが、誰もがH.L.ハントと呼びます。
一旦全財産を失った状態から這い上がって、世界一の金持ちになったという伝説の人物です。
1889年イリノイ州の農場主の、8人兄弟の末っ子として生まれました。「金儲けのためには、学校教育など不要」という親の方針により、小学校にも行かず、教育はすべて自宅にて家庭教師から受けました。幼い頃から数字に強く、数学の天才と呼ばれています。十代後半から、長旅を頻繁におこない様々な土地を巡って見聞を広げました。
23歳の時に親元から離れ、アーカンソー州に一人移住してコットン農場の経営に携わります。その傍ら「天性のギャンブラー」という異名もあり、カジノに頻繁に出入りし、警察からは「売春あっせん事業をおこなっている」と目を付けられていました。当時から「儲かることなら何でもやる」という生き方をする人物だったようです。
ある年、彼のコットン農場は洪水のため全てが破壊されてしまいました。文無しになったH.L.ハントは最後に手元に残った100ドルを持ってカジノに行き、そこからギャンブルで勝ち続けて一気に10万ドルまで増やしたという伝説がありますが、真偽のほどはわかりません。
H.L.ハントは破天荒な生き様で知られていますので、さぞかし身勝手なワンマン経営者だったろうと思っていましたが、実は部下・手下を大切に扱うことで知られた人物でした。部下たちは皆、H.L.ハントに忠誠を誓い、彼のためなら命も投げ出すというような者が大勢居たのです。
ある日、手下の一人がH.L.ハントの耳元で囁きました。
「テキサス州東部で石油の採掘に成功しているらしいよ」
この情報を頼りに、H.L.ハントはテキサスを訪れ、交渉の結果3万ドル(出典:Wikipedia)で土地を購入します。その土地がのちに「東テキサス油田」と言われ、全米有数の石油採掘量を誇る「黄金を産み出す地域」となり、ハント石油の創立となってゆくのです。
大金持ちになった後も、H.L.ハントの欲望は尽きることなく、食品業界・化粧品業界・出版業界などに次々と手を出していきました。ギャンブル好きの性格は生涯変わることなく、多数の名馬を抱える馬主となり、ブックメーカー(賭け屋)事業を自ら経営しています。新聞社とラジオ局に巨額の出資をおこない、自らの名声を自在にメディアから流せるようになったため、大衆を味方に付けることにも成功しました。
H.L.ハントは1974年に85歳で亡くなりましたが、その時点で彼の個人資産は推定30億ドルで、世界最高と言われました。現代のドル価値に直せばおそらくその約10倍近くになるでしょう。
3人の妻との間に15人の子供がいました。重婚していた期間も長かったと言われています。億万長者だとなんでも出来るということでしょうか。笑
15人の子供の中で(おそらく)9番目くらいに生まれた息子が、ラマー・ハントでした。
ラマー・ハントの歴史、およびAFLの誕生
ラマー・ハントは1932年生まれ。子供のころからテキサス州ダラスで育ち、地元の名門校であるサザンメソジスト大学(SMU)に進みます。SMUではフットボール部に在籍しましたが、強豪チームの中で全く活躍できず、常にベンチを温めていたと言われています。それでもフットボールが大好き、スポーツが大好きなラマーはプロスポーツ事業に情熱を注ぎ、生涯を通じて、スポーツビジネスの世界に身を置くことになります。
ラマー・ハントにとって大きな転機は、1958年NFL選手権(コルツ23-17ジャイアンツ)を現地で観た事でした。この試合はヤンキースタジアムを超満員にしておこなわれ、プロフットボール初の全米TV中継がおこなわれました。いまだに「NFL史上もっとも偉大な試合(The Greatest Game Ever Played)」と名付けられ、語り継がれている試合です。試合の模様は下記コラムにてご覧ください。
【清水利彦コラム】NFL史上最も偉大な試合(The Greatest Game Ever Played)2022.05.19 | アメリカンフットボール三田会 (keio-unicorns.com)
この試合を観て、ラマー・ハントは「プロフットボールというビジネスは、今後ますます発展するし、絶対儲かる」と確信しました。この時彼は弱冠26歳でしたが、ハント財閥の豊富な資金をバックに、NFL本部を訪れ、商談を持ちかけます。
「NFLにエクスパンション(新加盟)・チームとして参加したいので認めてほしい」と申し出ましたが断られています。当時、既存チームのオーナー達は「NFLの急激な規模拡大、地域拡大は危険な行為」と考えていました。断られたラマー・ハントはその後、「それなら既存チームであるシカゴ・カージナルス(現アリゾナ)を我々が買収したい」と申し出ましたが、これも拒否されています。
既存NFLオーナー達の頭の固さに失望したラマー・ハントに残された唯一の道は、「NFLに対抗する新しいプロフットボール・リーグを自ら創設する」ことでした。資力豊富な実業界の知人たちに声を掛け、新リーグ参加者を募ったところ、自分を含めた8人が手を挙げたため、新リーグAFL(American Football League)の創設が1959年8月に発表されました。「NFL史上もっとも偉大な試合」をラマーが観た日からわずか8カ月後のことです。「新リーグAFLは、ラマー・ハントの若き情熱と行動力によって創設された」と言っても過言ではないでしょう。(※AFLのリーグ戦開始は1960年9月より)
新リーグAFLの8チームのメンバーは次の通りでした。
ダラス・テキサンズ(のちカンザスシティ・チーフス)
ヒューストン・オイラーズ(のちテネシー・タイタンズ)
ロサンゼルス・チャージャース
デンバー・ブロンコス
オークランド・レイダース(のちラスベガス)
ボストン(ニューイングランド)・ペイトリオッツ
バッファロー・ビルズ
ニューヨーク・タイタンズ(のちジェッツ)
※このあと、マイアミ・ドルフィンズ(1966年)、シンシナチ・ベンガルズ(1968年)がAFL加盟。
これら10チームの中から脱落や倒産したメンバーは一つもなく、すべて現在のNFLで存続していることにご注目ください。
これまでもNFLに対抗して設立された新興リーグはいくつもありましたが、中規模程度の金持ちが仕掛けた「一攫千金を夢みた挑戦」であったことがほとんどで、多くは創設して1~2年のうちに資金不足で倒産や廃部となっていました。(※AFLのあと、1974年に創られたWorld Football Leagueも2シーズン目途中で消滅)
しかしラマー・ハントを中心としたAFLは、メンバーの財力が全く違っていました。例えば、オイラーズの初代オーナー、バド・アダムスはハントと同様の石油財閥でしたし、チャージャースの初代オーナー、バロン・ヒルトンはホテル王コンラッド・ヒルトンの息子でした。極めて資金力の豊富な富豪集団だったのです。
これを見て慌てたのが老舗NFLです。ラマー・ハントがダラスを本拠地とするテキサンズを設立すると聞いて、急遽NFLは、ダラスに新加盟チームを置くことにしました。こうして創られたのがダラス・カウボーイズです。ラマー・ハントに対しては「新加盟チームは作らない」と言っておきながら、NFLはAFLテキサンズを潰すために、カウボーイズという刺客を送り込んだわけです。
NFLにとってカウボーイズは、初めての南部を本拠地とするチームでした。その後アトランタ(ファルコンズ)、ニューオーリンズ(セインツ)と次々に南部に新加盟チームを設立させます。これらは「AFLが今後新チームを作りそうな都市に、先にNFLがチームを設立し、AFLを妨害する」という戦略であったろうと想像できます。
カンザスシティ・チーフスの誕生、そしてNFLとAFLの合併
1960年、ダラスにはNFLカウボーイズと、AFLテキサンズという二つのチームが同時に誕生しました。新興リーグAFLのテキサンズを率いたラマー・ハントは観客集めに大変苦労しました。当初の観客は平均2万5千人程度でしたので、7万人以上収容できるコットンボウルを本拠地として、ガラガラの状態で試合をしていたと思われます。3シーズン目の1962年、ダラス・テキサンズはAFL選手権でオイラーズを下し初優勝しましたが、シーズン終了後、ラマー・ハントはカンザスシティへの移転を決断します。「ダラス市内に二つのプロフットボールチームを共存させるのは無理だ」との判断でした。
この段階ではNFLの妨害作戦が成功したことになります。
テキサンズはミズーリ州カンザスシティに移り、チーム名を「チーフス(インディアンの酋長)」と改めます。チームロゴは、Arrowhead(矢じり)を模ったものを採用しました。
チーフスの現在の本拠地は、Arrowhead Stadium と呼ばれ、NFLで最も騒々しく熱狂的なファンが詰めかけるスタジアムとして知られ、ギネスブックに「世界中の野外競技場の中で、観客の作るノイズが最も大きいスタジアム」として認定されています。2026年サッカーW杯の試合場としても使用される予定。
1960年創設のAFL各チームは、次第に人気・実力ともアップさせてきました。チーフスも創立10年目には平均5万人以上を集める人気チームとなり、最初の10年間で87勝48敗5分(.644)という立派な戦績を残しています。
AFLの躍進ぶりを軽視できなくなったNFLは、1967年から「両リーグの優勝チーム同士が決勝戦を戦い、真の最強チームを決める」ことに合意しました。当初この試合は「AFL-NFL選手権」と呼ばれる予定でしたが、ラマー・ハントの提案により「スーパーボウル」と名付けられました。
チーフスはAFL覇者として第1回スーパーボウルに出場しましたが、ビンス・ロンバルディ率いるパッカーズに10-35で敗れています。
チーフスは第4回スーパーボウル(1969年度)に再び登場して、有利を予想されたミネソタ・バイキングスを23-7で下すという番狂わせにより、初めての王座に輝いています。
最初の4回のスーパーボウルが、NFL2勝・AFL2勝の互角となり、両リーグの実力が拮抗していることが証明されました。1970年、ついにNFLとAFLは合併し、一つの組織となりました。新組織名はNFL(National Football League)を残し、AFLは消滅しました。ラマー・ハントは10年間かけて、ついにNFLチームのオーナーとなったわけです。
旧NFLチーム中心のNFCと、旧AFLチーム中心のAFCが王座決定戦(スーパーボウル)で戦うという図式が1971年1月から開始されました。AFLの実質的創始者であるラマー・ハントの名前は、AFC決勝戦を「ラマー・ハント杯」と呼ぶことで残されています。
ラマー・ハントは、「一つの事業を成し遂げただけでは満足しない性格」を持っており、それは父親H.L.ハントから受け継いだものと思われます。まだカンザスシティ・チーフスのビジネスを軌道に乗せるため苦労していた1967年に、彼はアイルランドのダブリンを訪れ、サッカーの人気と熱狂ぶりを目の当たりにしました。「プロフットボールの次には、プロサッカーが人気となる」と確信したラマー・ハントは、NASL(North America Soccer League)を立ち上げ、自らダラス・トルネードというチームのオーナーになります。NASLはMLS(Major League Soccer)と名を変え、現在も続けられています。
ラマー・ハントは、2006年に74歳で亡くなりましたが、カンザスシティ・チーフスは息子クラーク・ハントがCEOを引継ぎ、現在の黄金期を築いたことになります。
「私の息子ラマー・ハントは、プロフットボールのビジネスに手を染め、
毎年1千万ドル(約15億円)もの損失を出しているらしい。
だから私は息子に警告してやったんだ。『お前、そんなことを続けていたら、
300年後には一文無しになってしまうぞ』とね。」世界一の大金持ち 石油王H.L.ハント
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