【清水利彦コラム】部員不足の時代を耐え抜いた22人の男達 2021.4.30

掲載2016年3月9日
改訂2021年4月26日
昭和52年(1977年)卒 清水利彦

Unicorns Net 1546~1549号において、「信濃町ユニコーンズ」の特集をさせていただきました。この物語の中のハイライトは、「2005年から2年間、部員不足により医科歯科リーグ参加を認められず、医科歯科一部の実力を持ちながら、七人制リーグ参加を余儀なくされた」ことでしょう。その時の苦労があり、部員不足の危機を乗り越えて皆で頑張ったからこそ、2015年の22年ぶり優勝が格別なものであったのです。

「部員不足」という言葉は、大学ユニコーンズや高校ユニコーンズにとって今や死語になっています。大学は現在部員数約200名となり、慶應体育会40部の中で最大級の部員数を誇ります。慶應高校も100名を超える部員数であると伺っています。今、我が部が抱える問題は、膨れあがった部員数に対し、施設拡充や安全対策などをどのように整えるかというようなことであり、部員を増やさないと部が維持できないという話ではありません。

それでは大学ユニコーンズが「部員不足のため、部存続の危機に直面した」ことは、かつて一度も無かったのでしょうか?実は「ある」のです。

若いOB・OGの皆さんは、大学ユニコーンズが、かつて
★一学年に一人しか選手がいなかった年がある。
★卒業生が2名しかいない事態が、二年連続して起こったことがある。
★5年間通算で、22名しか卒業生がいなかった時代がある。
(22名のうち、プレーヤーだった人は19名)
という事実をご存じでしょうか。信じられないかもしれませんが、このような時期があったのです。

1972年(昭和47年)卒  卒業生3名(選手登録1名)
1973年(昭和48年)卒  卒業生8名(選手登録7名)
1974年(昭和49年)卒  卒業生7名(選手登録7名)
1975年(昭和50年)卒  卒業生2名(選手登録2名)
1976年(昭和51年)卒  卒業生2名(選手登録2名)
5年間合計               卒業生22名(選手登録19名)

※選手登録外とは、マネジャー・学連・体育会本部など、非プレーヤーとしての任務を負っておられた方々を指します。当時は女子部員の卒業生は存在しません。

それでは、「こんなに部員が少なかったのだから、当時すごく弱かったのか」と問われるならば、私は「決して、そんなことはありません」と断言します。1972年秋、東京七大学(当時)リーグ戦で、慶應は前年の甲子園ボウル優勝校・日大と日吉陸上競技場で対戦しました。

当然のことながら、慶應ベンチに居る控え選手はわずか数名で、ほとんどの選手が攻守出ずっぱりどころか、キッキングプレーもすべて交代なしでした。試合開始からハーフタイムまで一度もフィールドから出ることのない状態でしたが、この少人数で慶應は日大に堂々と五分の勝負を演じました。

日大のアンバランスTフォーメーションに対して、慶應は研究と準備をやり尽くして試合に臨みました。ただし、部員が少なくてスクリメージも組めない状態だったため、高校部員も借り出されて一緒に練習したと伺っています。

当時私は、慶應高校の主務だったので、スタンドからこの試合を拝見しましたが、最後までどちらが勝つかわからない大接戦で、観ている人間の身体が震えるような試合でした。第4Q残り3分まで8-8の同点でしたが、結局、日大が16-8で慶應を下しました。勝利を奪えず、全力を使い果たしてフィールドに横たわった先輩達の姿を忘れることが出来ません。私がこれまでに観たたくさんのユニコーンズの試合の中でも、ベスト10に入る内容だったと確信しています。(あやうく敗北をまぬがれた日大・篠竹当時監督が、試合後大勢の日大選手を集めて怒りを大爆発させたと伺っています)この年、慶應は2勝4敗でリーグ戦を終えています。

部員数が少なかった原因としては、「慶應高校の部員達が大学でフットボールを続けるという習慣が当時弱かった」ことを一番に挙げます。故・小布施均さんが、井上知行・三村昇・小泉康・秋元諭宏各氏と組んで、「大学生が毎年高校生の指導をする。高校生は大学生達が近く親しい存在に感じられるため、大学でも部活動を続ける」という、今では当たり前の制度を確立させたのが昭和50年頃からです。この事と、我が部の部員不足解消の時期は完全に一致します。

1977年(昭和52年卒)  卒業生18名(選手登録15名)
1978年(昭和53年卒)  卒業生11名(選手登録10名)となり、
これ以降、現在まで40年以上にわたり、一学年の卒業生数が10名を割ったことは一度もありません。

本号で私が主張したいのは次の点です。現在、ユニコーンズは大部員数を誇り、慶應義塾体育会の中でも多くの部員を抱えるクラブとの評価を受けていると言って良いでしょう。それは現在チームと関わっている多くの方々の功績ではありますが、同時に、過去の先輩方、特に人数が少なかった頃の先輩方の、ご努力・ご苦労・忍耐などがあったから、今があることを忘れてはなりません。5年間で22名しか居なかった時代のOBは、会員総数1500名以上を誇る、我が三田会の中ではごくわずかの方々ですが、この方々が、あと数名でも多く途中で退部されていたら、我が部は休部もしくは廃部の措置が取られていたことは必至でした。もし、そうなっていたら、今のユニコーンズは無かったのです。昔から順風満帆に繁栄を続けた部ではないのです。

逆風の時代を頑張り抜いて下さった先輩方が居るからこそ、今の部があるのです。

部員不足の時代を耐え抜き、部の存続を果たして下さった22名の方々のお名前を、心からの尊敬と感謝の気持ちをこめて掲載いたします。
(敬称略)

昭和47年卒  辻壽一(主将)、長井隆道、伊藤剛光
昭和48年卒  出和夫(主将)、杉山泰治、一瀬均悟(故人)、野田照夫
森太良、岡三郎、佐藤彰夫、高臣史郎
昭和49年卒  竹内啓一(主将)、吉村正吾、太田正治、針生敬
三宅茂樹、藤田悦三、渡辺俊一(故人)
昭和50年卒  小口隆義(主将)、柴田和夫
昭和51年卒  星名雅彦(主将)、飯田隆之

また、上記22名の中には、現役部員時代だけでなく、卒業後もユニコーンズあるいは三田会において大変な功績を残された方が大勢居られますので、一部紹介させていただきます。

★辻壽一さんは、昭和47年卒でただ一人のプレーヤーでしたが、一方で、アメリカンフットボール三田会全会員の中で唯一人、「主将」と「主務」の両方の役目を経験された方です。
★杉山泰治さんは、長年にわたり三田会役員を務められています。審判供出に関する慶應の義務人数が不足していると聞き、60歳を過ぎてから関東審判部に登録してくださり、その後長年にわたり試合で審判を務めてくださっています。
★太田正治さんと針生敬さんは、長年にわたり三田会役員を務められ、特に早慶戦実行委員会の主力メンバーとして、現在の早慶対校戦の繁栄を築かれました。太田さんは三田会副会長経験者です。
★三宅茂樹さんは、早慶戦が駒沢陸上競技場で開催されることにおいて長年にわたり大変なご尽力をいただいています。
★小口隆義さんは、長年にわたり三田会役員を務められる一方で、関東学生連盟の役職に就かれ、専務理事の重職を担っておられます。

22人の中からこれだけ多くの貢献者が出て、ユニコーンズのために今もご尽力を続けて下さっていることを、我々は忘れるべきではありません。

また、当時慶應高校部員は大学で部活動を続けていないケースが多いのですが、1972年~1976年卒業の方々の中には、大学で部活動をなさらなかった、あるいは中途退部されても、卒業後、推薦会員としてアメリカンフットボール三田会にご入会いただき、長年にわたり三田会ならびに現役チームを支援し続けて下さっている方がおられます。この時代の推薦会員の方々のお名前も、感謝の気持ちを込めて掲載します。 本当に有難うございます。
越沢総一様、黒田(陳)芳博様、松田清人様、藤間秋男様、時田真吾様

このように、様々な先輩方のご尽力・ご協力に支えられて現在の部が存在することを、どうか知っていただきたいと思います。

22名の方々から多大な情報提供をいただいた事により、今回皆様に配信することが出来ました。厚く御礼申し上げます。(完)

***************************************

<22人の方々に関する後日談>                                 清水利彦

このコラムが2016年、Unicorns Netに掲載されたのちに、大変嬉しいことが起こりました。昭和47年卒~51年卒の5つの代の卒業生22名により、卒業生親睦組織「22人の会」が発足したのです。

毎年、11月22日に「22人の会」を開催なさっているとお聞きしています。

2016年におこなわれた「第1回 22人の会」には私も参加させていただく栄誉にあずかりました。

厚く御礼申し上げます。

残念ながらその後、昭和48年卒 一瀬均悟先輩(QB・副将)が亡くなられ、現在の会員数は20名となりましたが、今後末長く22人の会が続いていくことをお祈り申し上げます。

1971年早慶戦記念写真辻主将

当時の早慶対校戦プログラム用写真を、太田正治さんからご提供いただきました。若手卒業生や現役部員達に、是非見ていただきたい写真として掲載いたします。この写真はおそらく1971年の3月末か、4月上旬に撮影されたものでしょう。

#80辻壽一主将(昭和47年卒)を中心に、オンスーツ15名、学生服5名の20名で撮影しており、これが当時の全部員です。この年の一年生である昭和50年卒の方々(小口隆義さん、柴田和夫さん)はまだ入部されておらず写真に含まれていません。また、写っている20名の中で3名が中途退部されています。当時は、脱いだヘルメットを選手の前に一列に並べて撮影する習慣があったことを、懐かしく思い出しました。

当時、慶應と日大は背番号を「年功制」にしていました。(もしくは実力序列優先番号制?)つまり4年生が80番を着て、3年生が81番を着る。次の年、4年生が卒業すると、3年生の番号が81から80に出世する、というシステムです。(例外的に固有の番号を着けている方もおられました)

ただ、今このシステムを採用すると、フィールドに49番のDBが登場したら、「お、あいつ多分弱いぞ。あいつのゾーンにパスを投げろ」と敵に読まれてしまいますね。笑

また、この制度ですと、毎年選手全員の番号が変更されることになります。当時、試合用ユニフォームは、「個人で所有するものではなく、部が授与するもの」という概念があり、試合ごとに「ジャージ授与式」をおこない、監督からユニフォームを渡される習慣がありました。

今は部員約200名ですから、ジャージ授与式をやっていると日が暮れてしまいます。

私が主務をしている頃(1974-76年)に、この番号年功制度は自然消滅したものと認識しています。

この写真を、「へえ、昔はこんなに部員が少なかったのか」とご覧になる方は多いでしょう。しかし私にとっては、写っている部員すべてが、50年近くにわたり良く存じている先輩方であり、「この方たちの苦労や辛抱のおかげで、今の部が存在する」という写真に見え、涙なしには到底見ることが出来ないのです。(完)