【清水利彦コラム】続・ハイズマン賞あれこれ 2021.06.18

清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

前号で、「ハイズマン賞の最多受賞校は、USC(南カリフォルニア大)のようなイメージがあるが、実はそうではない」と書きましたが、正しくは「USCもハイズマン賞最多受賞校だったのだが、レジー・ブッシュ事件で1個剝奪され、次点の6個になった」と書くべきでした。

レジー・ブッシュはUSCでラン・レシーブ・リターン全てに秀でた万能選手として大活躍し、2005年、3年生でハイズマン賞を取っています。ドラフト全体の2位でNFLニューオーリンズ・セインツに入団しました。2010年にセインツがスーパーボウル優勝したときの主力メンバーですから覚えておられる方も多いと思います。高校生の時に陸上選手として100m走10.42秒、200m走21.06秒という記録を作っているスピードランナーです。

ブッシュはUSCの黄金期を築き上げた選手で、この頃、2002年QBカーソン・パーマー、2004年QBマット・ライナート、2005年レジー・ブッシュと、4年間で3人もUSCがハイズマン賞を取っているので、「ハイズマン賞はいつもUSC」というイメージが出来たのだと思います。

ところが卒業後に、「レジー・ブッシュとその家族が、エージェントを通じて不正な金品を受け取っていた」という疑惑が出て、2010年まで掛かる長い調査と裁判の末、不正事件が確定しました。その結果、2004年度のUSCの全米王座は剥奪され、その年のナショナルチャンピオンは空位のままとなりました。2010年になって、『2004年の優勝はなかったことにする』という裁定を出すのは、私達の感覚からすると首をひねるような事態ですが、米国では最近何回も記録抹消の事態が起こっているようです。

この件を受けてUSCとブッシュ選手は、ハイズマン・トロフィーを返上した形をとり、2005年のハイズマン賞も空位のままとなったわけです。

この事件はUSCに相当な打撃を与えたようで、常勝軍団が勝てなくなりました。2003年以来全米王座には着けず、2018年には18年ぶりの負け越し(5勝7敗)という屈辱も味わっています。ハイズマン賞受賞者もそれ以来USCから出ていません。

ハイズマン・トロフィーの話に戻りましょう。

トロフィーは高さ34㎝ですが、ブロンズ製で重さが20.4㎏もあるので、自宅で筋トレに使えそうなシロモノです。「選手が左手にボールを持ち、カットを切りながら、右手でタックルをかわす」というフットボール独特のポーズになっています。

皆さんの中にも、現役部員時代にこのポーズを真似した方がおられるのではないでしょうか?
このポーズは、1934年に製作を依頼された彫刻家フランク・エリッシュが、友人でニューヨーク大の名選手であったエド・スミスに頼んでモデルになってもらったものです。ところが、エド・スミスは自分がこの賞のモデルとなったことを1982年まで気が付かなかったそうで、主催者側は1985年にエド・スミス本人にトロフィーを一体贈呈しています。48年間も有名なトロフィーが自分であることに気づかずにいたエド・スミスはどうかしていますが、モデルになってくれた友人にハイズマン賞トロフィーについて何も言わなかった彫刻家もけしからんですね。笑

これは1935年「第1回DACアワード(ハイズマン賞の名称は翌1936年から)」を受賞した、シカゴ大HBジェイ・バーワンガーが、自ら受賞の喜びを示すため、トロフィーと同じポーズをとったものです。

最後にハイズマン賞受賞スピーチにおける、名言と迷言を一つずつご紹介しましょう。

まず名言です。1973年の受賞者、ペンシルバニア州立大RBジョン・キャパレッティのスピーチ。

「私にはジョーイという名の末弟がいます。ジョーイは重い病にかかっています。彼は白血病なのです。今晩、私はこのトロフィーを家に持ち帰り、ジョーイに捧げるつもりです。そうすることによって彼がしばらくの間、幸せな気分でいてくれるならば、とても価値のあることだと考えています。

他のフットボール選手達と同じように、私も学生時代をフットボールに捧げてきました。試合場で、そして練習場で激しくぶつかり合い、傷だらけになりながら、つらい思いに耐えてきました。その結果を皆さんが認めて下さり、この賞をいただいたものだと考えています。ただし私にとって、つらい思いをするのはフットボール場だけのことであり、短い秋のシーズンだけのことなのです。

でもジョーイにとっての苦しみは、一年中、毎日毎日のことであり、終わりのない闘いが延々と続いていくのです。彼は私よりもずっと頑張っていますし、このトロフィーは私以上に、ジョーイに授けられるべきだと思っています。私はいつもジョーイを想い、彼の為にプレーを続けてきたのです。」

ジョン・キャパレッティのスピーチは多くの人々に涙と感動を与えました。残念ながらジョーイは、その後しばらくして世を去りましたが、キャパレッティ兄弟の愛の物語は、「Something for Joey」というタイトルで映画化され、日本でも「ジョーイ」の題名で公開されています。

ジョン・キャパレッティは弟の死後もNFLラムズとチャージャースで、怪我に苦しみながらも9年間プレーしました。ペンシルバニア州立大は彼が付けていた「22番」を永久欠番としています。同大学において永久欠番は、22番以外にはありません。

次に、ハイズマン授賞式での迷言です。1984年、ボストン・カレッジQBダグ・フルーティのスピーチより。出典:The Greatest College Football Quotes of All-Time

「私は常に、身体の小さいフットボール選手であることを意識してきました。毎年毎年、私はこの身体でもQBとして成し遂げられることを証明してみせようと努力してきました。そして遂に、本日こうしてカレッジフットボール殿堂入りという栄誉を与えていただき、これ以上の喜びはありません。」

身長176cmのフルーティは、卒業後もNFLやCFL(カナダ)等で20年に渡り活躍した名選手ですが、ハイズマン授賞式では緊張のあまり、「ハイズマン賞受賞」と「カレッジフットボール殿堂表彰」とを言い間違えてしまったようです。実際のところ、フルーティは23年後の2007年に、カレッジフットボール殿堂表彰を受けています。2007年に彼はどんなスピーチをしたのでしょうね。(完)

「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
https://footballquotes.fc2.net/
「今週の名言・迷言」を木曜日ごとに更新しています