清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
※筆者は米国野球に詳しいわけではありませんので、記述に誤りがありましたら遠慮なくご指摘ください。
日本スポーツ界は「大谷翔平フィーバー」一色ですね。大谷選手の活躍とともに、「二刀流における、ベーブ・ルースの持つ記録との比較」も注目されています。
皆さんは、ベーブ・ルースって、どんな人かご存知ですか?
「ニューヨーク・ヤンキース伝説の強打者」「投手との二刀流でも活躍した」という程度の事しか、私は知りませんでした。同じ知識レベルの方が多いのではないでしょうか。
そこで、ちょっと調査してみました。
本名 ジョージ・ハーマン・ルース 1895年生まれ
主な記録 防御率1位投手×1回、首位打者×1回、打点王×5回、本塁打王×12回
ワールドシリーズ10回出場、7回優勝 リーグMVP×1回
生涯通算成績 投手 163登板94勝46敗、防御率2.28、完投試合107
打者 打率.342、安打数2873、打点2214、本塁打714本
(長打率.690は、いまだに破られていない。日本記録は王貞治の.634)
ナショナル・リーグとアメリカン・リーグが統一されて、メジャーリーグが形成されたのが1903年。ルースの大リーグ入りが1914年ですから、プロ野球創成期の大スターと呼べるでしょう。フットボールでは、シカゴ・ベアーズの創設が1921年ですから野球の方が先輩ですね。
ルースは大変特徴のある丸い顔立ちをしており、米国では「赤ん坊のような顔」とされたので、「ベイブ(Baby)」という仇名が付けられました。「バンビーノ(イタリア語で“坊や”)」とも呼ばれますが、私には赤ん坊より、むしろお相撲さんの顔に見え、元横綱・曙に似ているなと思っています。
力士のような丸顔なので、「太った人」のイメージがありますが、入団当初は188cm、93kgの長身アスリート体型でした。
祖父母がドイツ系移民の家庭に育ちました。若い頃はシャツ縫製職人を目指しており、有名選手になってからも、ユニフォームの修理縫いなどは自分でやっていたそうです。
学校での草野球で非凡な才能を示したルースは、当時マイナーリーグのボルチモア・オリオールズに参加し、大リーグとの練習試合でも投打にわたり活躍したため、1914年、19歳でボストン・レッドソックスから投手としての契約をもらいました。
メジャーリーグにおけるベーブ・ルースの年度別戦績は、資料Bをご覧ください。
(資料出典:baseball-reference.com)
ルースの全163登板のうちレッドソックス時代が158登板です。ヤンキースには15年在籍しましたが、その間わずか5試合しか登板(ファンサービス的起用)していません。つまり「二刀流」はレッドソックス時代の話です。
1915年、レッドソックス入団2年目で「打撃も良い投手」として先発ローテーション入りしたルースは18勝(8敗)を挙げます。指名打者制度は当時存在しません(1973年より開始)。登板以外の日に年10回だけ出場していますが、代打出場だろうと推測します。この年、レッドソックスはワールドシリーズ優勝していますが、彼は投手としての出番はなく、代打で1打席だけ出て凡退しています。
1916年、23勝12敗の好成績で、防御率1位のタイトルを取っています。当時は投手が酷使された時代で、少人数でローテーションを組んでおり、かつ最後まで投げ切るのが当然でした。20勝くらいする投手はたくさん居り、30勝近く挙げないと最多勝にはならない時代です。ルースは投手で活躍する一方、時々、代打で起用されていたと思われます。再びワールドシリーズで優勝し、ルースは投手として1勝しています。
1917年、自己最多の24勝(13敗)を挙げました。投手以外の出場は年間11回しかなく、ほぼ投手に専念した年と言えます。本人は絶好調でしたが、チームはホワイトソックスに次いで2位となり、ワールドシリーズは逃しています。ルースは激しやすい性格で、この頃からたびたび審判やコーチ陣とトラブル・もめごとを起こすようになりました。この年、第一次世界大戦が勃発し、多くの選手が兵役にとられる現象が始まりました。
1918年、この年からルースの起用方針が変化します。年間登板数が20回(13勝7敗)で、投手以外の出場が75試合もあります。年間315打数と、かなり打席に立っていますので、本格的に二刀流となったことがわかります。これは本人の希望というより、ルースが試合に出る時の方が観客数が増えるから、という営業上の方針であったようです。
そして、この年、ルースは投手でありながら年間11本塁打でホームラン王になっています。(同数首位が他1名)「11本で本塁打王?間違いだろう?」と複数の資料を確認しましたが間違いありません。当時は「ホームランはなかなか打てるものではなく、優秀な打者でもせいぜい10本以内」だったようです。前年1917年には、年間本塁打9本のウィリー・リップが本塁打王になっています。
その理由としては、
- 専用の野球場が少なく、フットボール兼用のフィールドをそのままフェンスを設けずに使用していたため、「右翼フェンスまでの距離が170m」などという球場もあった。
- 試合球が非常に高価であったため、汚れたボールや傷ついたボール等の「飛ばないボール」をボロボロになるまで平気で使い続けていた。
- 球にツバをつける「スピットボール」が合法であった。
等が挙げられます。
レッドソックスは1918年ワールドシリーズで勝利(4年間で3回目)し、ルースはシリーズで投手として2勝を挙げています。
1919年、二刀流の2年目です。シーズンの前半にルースは17回先発して8勝5敗でしたが、チームが不振に陥り、早々と優勝の望みが消えたため、ルースはピッチングをやめて、後半は客寄せのため毎試合外野手として出場しました。その結果、彼は当時史上最多の29本塁打を打ち、再びアメリカン・リーグの本塁打王、そして初の打点王となりました。ナショナル・リーグの本塁打王は12本でしたので、どれほどベーブ・ルースの打撃力が飛び抜けていたかわかります。
1919年12月、大きな事件が起こります。1917年からボストン・レッドソックスの経営者となったハリー・フレイジーは大金を投じて有望選手を平気で売り買いするタイプの人間であり、その動きが懸念されていました。そして「3年契約の一年目が終わったばかりのベーブ・ルースをヤンキースに売り渡す」という大ニュースが突如発表されたのです。その理由としては「フレイジーが別途所有する劇団経営事業が資金不足に陥ったため」等の噂が出ましたが、真相はいまだに謎となっています。(フレイジーは1925年にはボストン・レッドソックス自体を他人に売り渡しています)
ベーブ・ルースを失ったボストンの野球ファンの嘆きと怒りは大変なもので、「スポーツ界で起こった、20世紀最大の盗難事件」とも称されました。1915-1918の4年間で3回ワールドシリーズ優勝を果たしたレッドソックスでしたが、その後2004年まで86年間優勝から遠ざかったのは、ルースの放出により「バンビーノの呪い」をかけられたからだと多くのファンが信じていました。
1920年、ヤンキース入りしたルースは外野手に専念し、54本の本塁打を打ちます。同年ナ・リーグ本塁打王のサイ・ウィリアムスはわずか15本でした。飛ばないボール時代の信じがたい大記録だったのです。この年から12年間でルースは10回本塁打王となり、伝説の強打者となります。
1927年には60本塁打を史上初めて達成しました。
大谷選手とベーブ・ルースの話に戻りましょう。私のまとめは次の通りです。
- ベーブ・ルースが二刀流(投手と外野手)でフルに活躍したのは実質1年半(1918年と1919年前半)だけです。したがって大谷選手が現在のような二刀流での活躍を今後も2年、3年、5年、と続けていけるようであれば、前人未到の世界であり、本当に価値のあることと思います。
- ベーブ・ルースは「飛ばないボールの時代」、大谷選手は「指名打者制のある時代」と条件が異なりますので、本塁打数など数字そのものの単純比較はあまり意味がありません。ただ、ベーブ・ルースが1918年に「投手で年間10勝以上し、本塁打王も獲得」したのは大変な記録であり、もし大谷選手が同じことを達成出来たら、同様に価値のあることと考えます。
- 年間60本塁打は、大リーグの歴史でも、ベーブ・ルース(60本)、ロジャー・マリス(61)、サミー・ソーサ(66)、マーク・マグワイア(70)、バリー・ボンズ(73)と、たった5名しか達成しておらず、もし大谷選手が投手としても活躍しながらこのリストに加われば、とてつもない価値が発生します。まずはこの目標に向けて頑張ってほしいです。(年間50本以上打った人は、この他に30名程しかいません。50本到達でもすごい!)
- ベーブ・ルースの本当の値打ちは、二刀流の部分ではなく、22年間かけて築き上げた数々の通算成績(特に打撃。生涯打点2213もすごい。日本記録は王貞治の2170)と考えます。この点で大谷選手はまだ足元にも及ばないわけですから、二刀流部分の数字だけを追いかけて、軽々しく「大谷はベーブ・ルースを超えるか?!」等と言うのは適切ではないと感じます。
ベーブ・ルースは36歳の時、最後の本塁打王となりましたが、その後加齢とともに少しずつ記録を落としました。1934年39歳のシーズン終了後、メジャーリーグ選抜軍の一員として日本を訪れています。まだ船で渡航していた時代で、日本には一か月滞在しています。
ベーブ・ルースはファンへのサービス精神旺盛な人で、日本での試合中、雨が降ってきたところ、ルースが番傘をさしたまま外野の守備に就くなどして観客を喜ばせました。遠征で野球の面白さを日本の人々が知ったことが大きなきっかけとなり、1936年、日本職業野球連盟(今のプロ野球)の発足へとつながっていきます。帰国後ボストン・ブレーブス(のちのアトランタ・ブレーブス)に移りましたが、全く結果を残せず、40歳、1935年(ユニコーンズ創部の年ですね)6月に引退しています。
ルースはヤンキースの監督になることを望んだようですが、当時ヤンキースはジョー・マッカーシーという超有名な監督(通算2125勝)が長期政権の真っ最中で、チャンスはありませんでした。他球団は、ベーブ・ルースの鼻っ柱の強さと、高額報酬を要求する姿勢を恐れて尻込みし、結局監督にはなれませんでした。1948年8月、癌のため53歳の若さで亡くなっています。
今年はこれからも、大谷選手の活躍に目が離せない日が続きそうですね。
でも、フットボールの開幕もすぐ近くに迫っていますので、そちらも忘れないでくださいね。