【清水利彦コラム】ジョニー・ユナイタス物語「黄金の腕を持つ男」後編 2022.06.10

清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

1968年度、右肘の痛みの為、ほとんどの試合に出られず、無理して出場したスーパーボウルも惨めな結果に終わり、多くの人が「ジョニー・ユナイタスはもう終わった」と感じていました。しかし、ユナイタス本人はあきらめていませんでした。

お世辞にもカッコ良いとは言えない、当時のコルツのマスコット・マーク。
出典:Pro Football Reference.com

翌1969年のシーズンが始まり、ユナイタスは14試合のうち12試合に先発出場しました。ロングパスを投げる機会は減り、TDパスの回数も減りましたが、円熟味のあるプレーぶりを示してチームを鼓舞する姿勢に、ファン達は大喜びしました。この年は先発した試合に7勝5敗でしたが、続く1970年度には、再び「チームを勝利に導くユナイタス」が復活します。

前半を7勝1敗という好成績で乗り切り、その中には強敵パッカーズを敵地で破るという殊勲の星も含まれています。宿敵ネイマスの居るジェッツにも2勝して、レギュラーシーズンを11勝2敗1分で終え、地区優勝したコルツはプレイオフでシンシナチ・ベンガルズと対戦。ユナイタスの2本のロングパスTDによりベンガルズを17-0で破り、AFC決勝に進みます。ファンの興奮度は最高潮となりました。

AFC決勝はオークランド・レイダースとの接戦になりましたが、第4Qユナイタスの68ydTDパスにより突き放し、(コルツ27-17レイダース)コルツは2年ぶりにスーパーボウルに進出します。対戦相手はスーパーボウル初出場となるダラス・カウボーイズでした。

スーパーボウル当日の第2Q、ユナイタスは当時のスーパーボウル新記録となる75ydのロングパスをTEジョン・マッケイに決めて同点に追いつきます。ところがこのプレーでユナイタスは肋骨に重傷を負ってしまいます。怪我を隠して彼はプレーを続けましたが、観客にも急にユナイタスの調子がおかしくなったのがわかりました。インターセプトされたり、ファンブルで攻撃権を失ったりの様子を見て、コーチはユナイタスを下げて、控えQBアール・モーラルを送り込みます。

モーラルの手堅い試合運びにより、16-13の接戦でコルツがスーパーボウルの初優勝を決めました。表向きの殊勲者はアール・モーラルでしたが、コルツ・ファンの誰もが、この年の優勝はユナイタスの闘志がもたらしたものだと信じていました。試合のMVPは、敗戦にもかかわらずカウボーイズLBチャック・ハウリーが受賞しています。「スーパーボウルMVPをモーラルに渡すのはファンが許さない、かと言って、たいして活躍していないユナイタスに渡すのは筋が通らない。」という状況の中の妥協の選出であったのだろうと推察します。

1971年1月 於マイアミ・オレンジボウル 第5回スーパーボウルは終了7秒前、コルツKジム・オブライエンのFGで決着  コルツ16-13カウボーイズ
出典:The Football Book, Sports Illustrated

 

ジョニー・ユナイタスは37歳にしてスーパーボウル・リングを獲得しました。彼はここから更に3年間現役生活を続けますが、もう栄光の瞬間はやってきませんでした。ケガに苦しみ、試合で使われることはぐんと減りました。最後の3年間合計で14試合に先発し5勝9敗という記録が残っています。

ユナイタスを試合で使わず、ベンチに置いておくと困った事が起きました。

観客席のファン達が「We want Unitas!」「We want Unitas!」(ユナイタスを出せ!)と大合唱を始めるのです。たとえフィールドに出ても活躍することが出来ないのに、自分の名前を叫び続ける人が大勢いるのは、ユナイタスにとってつらかったことでしょう。40歳になって最後の一年間はチャージャースにトレードされましたが、1勝しか出来ず引退を決意しました。18年間で118勝の記録が残りました。

引退後、ユナイタスは自分を赤貧の困窮生活から救ってくれたコルツ球団とボルチモアの街を心から愛し、生涯ボルチモアに住み続けました。息子3人を地元のツーソン大学に通わせ、地元のイベントにもたくさん顔を出して「ボルチモアの英雄」として生きていました。フットボール中継のコメンテイターとしても活躍しています。1979年、46歳の時にプロフットボール殿堂入りを果たしています。

ボルチモアを心から愛するユナイタスを激怒させる事件が起こりました。1984年、コルツがボルチモアを去り、インディアナポリスに移転したのです。ビジネスの為、金の為に町を去ってゆくことに彼は猛抗議しましたが、結論を変えられないと知ったユナイタスは、コルツに対して憎しみを持つようになりました。既に殿堂入りしていた彼は、「殿堂の展示室にある、コルツのユニフォームを着た私の写真等、一切を撤去してほしい」と申し出ましたが拒否されています。

ボルチモアを愛するあまり過激な行動を取ろうとするユナイタスを、ボルチモアの人々は更に愛するようになりました。

ユナイタスはインディアナポリスへ去ったコルツを憎みましたが、1996年にボルチモア・レイブンズが設立された時は大喜びし、レイブンズのファンとなりました。ユナイタスはしばしばレイブンズのホームゲームを、観客の一人として訪れています。場内アナウンスが「本日はジョニー・ユナイタス氏がご来場です!」と告げると、観客は総立ちとなって、万雷の拍手を贈りました。

1987年に、ジョニー・ユナイタス・ゴールデンアーム賞(Johnny Unitas Golden Arm Award)が設立されました。大学4年生の優秀なQBで、人間的にも卓越した人物を毎年一人表彰する、というものです。これまでにペイトン・マニング、カーソン・パーマー、イーライ・マニング、マット・ライナート、マット・ライアン、ジョー・バロウ等、錚々たる顔ぶれが受賞し、現在も続けられています。単に「ジョニー・ユナイタス賞」とせずに、彼の仇名を冠してGolden Arm Awardと名付けられたあたりに、ユナイタスが如何にファンから尊敬され愛されていたのかがわかります。

ある時ユナイタスは、かつて3人の息子が通っていた地元ツーソン大学が資金調達に困っていることを耳にしました。ボルチモア郊外にあるツーソン大学は学生数約2万人で、大学の教育者を養成することで知られる、歴史ある学校です。ただしフットボール部は弱小で、5000名収容のスタジアムが老朽化しているが、建て直す資金がないとのことでした。ユナイタスは「自分の名前を貸すことで、建設資金を作る協力ができないか」と考えます。単にスタジアム改修費用では寄付は集まらないが、「ジョニー・ユナイタス・スタジアムを新しく作るので、協力してほしい」という依頼ならば、彼のことを心から愛するボルチモアのファン達が、寄付をしてくれるのではないかと思ったのです。

ユナイタスの策略は見事に成功しました。寄付は十分に集まり、収容能力が11000名に増えた真新しいジョニー・ユナイタス・スタジアムが2002年9月に完成しました。もちろんユナイタス自身も開場式に招待され、大歓迎を受けましたが、そのわずか数日後に心臓発作のため、彼は69歳でこの世を去っています。

ボルチモア郊外にあるツーソン大学のジョニー・ユナイタス・スタジアム。2002年9月に開場しましたが、9月9日にはユナイタスが急死しました。
出典:Wikipedia

 

18年に渡るプロでの激しい闘いにより、晩年ユナイタスの身体はボロボロになっていました。足には人工関節が埋め込まれ、かつて「黄金の腕」と呼ばれた右腕は、上にあげることさえほとんど出来なくなっていたとのことです。

(ジョニー・ユナイタス物語 完)

 

「ジョニー・ユナイタスがコルツ軍に居る限り、たとえ、一緒にプレーする他の10人が全員女子選手だとしても、コルツは勝ち続けることだろう。」

ジャック・クリスチャンセン 1966年、サンフランシスコ49ersコーチ

 

 

「コーチに向かって、『うるせえな、くそったれ!』と言えるようになるまでは、一人前のプロのQBとは言えない。」

ジョニー・ユナイタス

 

メリーランド州ボルチモア郡ティモニウムにあるユナイタスの墓。公園内の池のほとりの非常に美しい場所にあります。
出典:Wikipedia

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