【清水利彦コラム】ウォルター・ペイトンを知らない人のための ウォルター・ペイトン物語」 2023.5.12

清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

Unicorns Net4月13日号のコラムで、私は「RBマリオン・モトレーの1キャリー当たり5.7yd獲得は、RBとしていまだに破られていないNFL記録」と書き、更に「あのウォルター・ペイトンでも平均獲得距離は4.4ydでした」と追記しました。

「あのウォルター・ペイトン」の「あの」という言葉には、「ウォルター・ペイトンがいかに優秀なRBであるかは、私が申し上げるまでもなく、皆様ご存じの事と思いますが」というニュアンスが含まれています。しかし、配信されたコラムを自分で読み返し、「あのウォルター・ペイトン」という言葉は適切ではなかったと、今、感じております。

ウォルター・ペイトンは1999年に45歳で亡くなっており、没後既に24年。NFLを引退してからも36年が経過しました。生きていれば69歳になっているわけで、ユニコーンズでは昭和51年卒の星名主将と同期に当たります。

20代の卒業生や現役部員には「ウォルター・ペイトンなんて全く知らない」という方々もおられるでしょうし、30代・40代の方々でも「ウォルター・ペイトンって往年の名選手でしょ?名前は聞いたことがあるけど、どんな選手かは知りません」という人は多いと思います。

一方で、年長卒業生の中には「ウォルター・ペイトンは生涯忘れることのできない、私のアイドルだ。私は彼に憧れ、彼のようにプレーすることを夢見て、青春時代を過ごしてきたのだ。」という方がたくさんおられると想像します。

NFLは今年で創設104年目ですが、もしも「歴代最優秀選手を一人だけ挙げよ」という投票を全米のファンがおこなったら、ウォルター・ペイトンにかなりの票が投じられるものと確信します。

そこで今回は、「ウォルター・ペイトンを知らない人のための、ウォルター・ペイトン物語」を書いてみることにしました。彼について特に詳しいわけではないので、ペイトンの熱烈ファンの方には物足りない内容かもしれません。「ウォルター・ペイトンについて語るなら、この点を抜かしてはダメだ!」などのお叱りは喜んで受けますので是非お知らせください。

ウォルター・ペイトン近影

 

まずは、ウォルター・ペイトンがどのような選手だったかについて、下記の映像をご覧ください。彼の走る姿は「フットボール競技というよりは、むしろ芸術作品」のようだと言われています。

You Tube画像(11分強)です。
(122) Walter Payton Highlights (Final Version) – YouTube

「11分も映像を見るほどヒマじゃない!」という方には、3分の短縮版もあります。
(122) Walter Payton Career Highlight Feature | NFL – YouTube

 

ウォルター・ペイトンは1953年ミシシッピ州で生まれました。父親は工場労働者でしたが、セミプロの野球チームに参加した経験もあるのでアスリートだったのでしょう。ウォルターも幼い頃から抜群の運動センスを持ち合わせていました。ウォルターには2歳年上の兄、エディー・ペイトンがいました。エディーが高校フットボール部に所属しRBとして活躍していたため、兄とポジション争いをすることを嫌ったウォルターは、フットボールをやらず、陸上競技をやる一方でマーチングバンド部に入りドラムを叩いていました。

高校2年になり、兄エディーが卒業したため、フットボール部コーチはウォルターに入部を勧めます。ウォルターは「マーチングバンド部の活動を続けさせてもらえるなら」という条件付きで入部しました。

フットボール選手としてのデビューは衝撃的なものでした。ウォルターは初めて出た高校試合の、最初のボールキャリーで65yd独走してタッチダウンを挙げています。スーパースターRBとしての輝かしい人生が始まった瞬間でした。高校3年の時はチームが8勝2敗と躍進する立役者となり注目されました。

ところが不思議なことにSECリーグの南部強豪大学からは入部勧誘の声がかかっていません。178cmというサイズが強豪リーグのRBに十分ではないと判断されたのでしょうか。(※高校の頃はやせていたが、体重は大学で91kgまで増やす)名門大学で彼を誘ったのはカンザス州立大だけでしたが、ウォルターはこれを断り、兄エディーが既に入部していたジャクソン州立大学に入学しました。

「ジャクソン州立大学なんて聞いたことがないぞ」という方がほとんどだと思います。この大学は旧名をミシシッピ州ニグロ訓練学校(Mississippi Negro Training School)と言い、当時の黒人専用職業訓練所だったのです。今ではそのような人種差別的呼称は許されませんが、それでも「Historically Black University」と呼ばれ、現在でも学生(約7000人)のほとんどは黒人です。

ジャクソン州立大学はSouthwestern Athletic Conference(SWAC)というリーグに所属しており、グランブリング州立大、サザーン大、フロリダ農工大など、南部の黒人大学強豪チームが集結しています。私は黒人リーグの試合を「スタジアムで観戦したことがある」という日本人を知っています。「選手も観客もほとんど黒人で、最初はどうなることかとハラハラドキドキしていたが、何事もなく、周囲の観客にも受け入れてもらえた。試合はヒートアップして、ものすごく面白かった」と語っていました。
※読者の中にSWACリーグ戦をご覧になった方おられましたら、是非ご一報ください。

ウォルター・ペイトンはジャクソン州立大学の4年間(1971-74年)で、目覚ましい活躍をします。通算3600yd、1キャリー平均6.1yd、TD65回。3年と4年時に全米カレッジ黒人最優秀選手賞受賞。4年の時オール・アメリカンに選出されています。黒人リーグであるジャクソン州立大学の選手がオール・アメリカンに選出されるのは当時極めて異例なことでした。同期のRBで彼と共に選出されたのは、アーチー・グリフィン(オハイオ州立大)、アンソニー・デービス(USC)、ジョー・ワシントン(オクラホマ大)という錚々たる顔ぶれでした。

大学の時にウォルター・ペイトンには「Sweetness」という愛称が与えられ、生涯そう呼ばれ続けました。「甘さ、甘美」と訳すよりは、「優美」とか「芳しい香り」という訳のほうが彼のイメージに合っていると考えます。

1975年のドラフトで、ウォルター・ペイトンは1巡目第4位にてシカゴ・ベアーズに指名されます。ただし、この頃のベアーズは暗黒時代の真っ最中でした。彼が入団する前の6年間が24勝59敗1分、勝率.289という絶不調で、ペイトンは1年目からエースRBとして走り続けましたが、ベアーズは彼の入団後もなかなか勝てませんでした。

負けチームの中で孤軍奮闘していたペイトンでしたが、1982年にマイク・ディトカがヘッドコーチに就任して、流れは大きく変わりました。QBジム・マクマーン、LBマイク・シングルタリーなどの戦力を加え、1985年レギュラーシーズンを15勝1敗で乗り切り、第20回スーパーボウルに駒を進めました。ベアーズがペイトリオッツを46-10で粉砕し、スーパーボウル初優勝を遂げています。(※スーパーボウル以前には、ベアーズは8回NFL王座に着いています)

ところが圧勝したスーパーボウルにおいて、ペイトンは全く活躍していません。22回のキャリーで前進わずか61yd、TDゼロ。ファンブル喪失が1回あります。

QBジム・マクマーンはこの試合の想い出を次のように述べています。

「ペイトリオッツは明らかに『ペイトンを徹底的にマークして、ダブルチームもしくはトリプルチームでペイトンを潰す』作戦を取っていた。毎プレー毎プレー、複数の守備選手がペイトンにターゲティングのような強烈なヒットを浴びせるのだ。だからペイトン以外のプレーで前進せざるを得なかったんだ。」

ベアーズ・コーチ、マイク・ディトカは次のように語りました。

「スーパーボウルに勝ったことは素晴らしいが、我々はどんな犠牲を払ってでも、ペイトンのランでTDを挙げるべきだった。そうならなかったことを後悔している。我々はペイトンのおかげでチャンピオンになれたのだから。」

1981年 ウォルター・ペイトンのダイブTD
出典:The Football Book, Sports Illustrated

 

ウォルター・ペイトンのプレーと言えば、ダイブによるTDが有名で、「空を飛ぶRB」というイメージが強いですが、彼のVersatility(多機能さ、多芸多才さ)も忘れてはなりません。エースランナーであると同時に「極めて優秀なブロッキングバック」であったと言われています。パスレシーバーとしても優秀で、ランTD通算110回と共に、レシーブTDが15回あります。

高校の時はQBも務めていたようでパスを投げる能力もあります。NFLでRBとしてパスを36回投げ、12回しか成功していませんが、なんとそのうち9回はTDロングパスでした。「プレイオフでTDパスを投げたRB」という勲章も持っています。

大学の時はプレースキッカーも務め、FG成功5回、XPキック成功53回という記録があります。

 

彼が塗り替えたNFL記録は数え切れません。1984年にジム・ブラウンが持っていた通算ラッシングヤード記録12312ydを抜き、引退までに16726ydまで伸ばしました。のちにエミット・スミス(18355)に抜かれ、史上第2位です。ランTD110回も当時の記録でしたが現在は第5位となっています。

1試合のランキャリー回数40回は史上第11位に当たりますが、小柄なペイトンが作った記録としては驚異的です。ボールキャリアになった通算回数3838回はエミット・スミス(4409)に次いで史上第2位。

1試合のラッシングヤード記録275ydは、当時O.J.シンプソン(273)を抜いて新記録でしたが、エイドリアン・ピーターソン(296)他に抜かれ、現在第5位。

彼の持つ記録の中で一番価値があると私が考えるのは、ラッシングヤード記録を作りながら同時に打ち立てた「RBとして170試合連続先発出場記録」です。1976年~1986年の11年間、1試合も欠場することなく走り続けました。1987年に4試合を欠場し、シーズン後に引退を発表しています。

1992年に原発性硬化症胆管炎という難病にかかり、45歳にて亡くなっています。

ウォルター・ペイトンは「優秀な選手であった以上に、一人の人間として最高に優れていた」(マイク・ディトカ談)と言われ、彼の死後、「NFL Man of The Year賞(優秀なフットボール選手であるだけでなく、著しい社会貢献を果たした者への賞)」は「Walter Payton Man of The Year賞」と名前が改められました。ペイトン自身も生前この賞を受賞しています。受賞者リストについては下記URLを参照してください。スーパーボウルMVP受賞者リストよりも、こちらの方により価値があるのではと思えるくらい、珠玉の名選手たちがずらりと並んでいます。
Walter Payton NFL Man of the Year Award – Wikipedia

 

「私が持っているラッシング記録は、私が作ったものではない。神様とオフェンスラインマン達が作ってくれたのだ。」
ウォルター・ペイトン シカゴ・ベアーズRB

(ウォルター・ペイトンが、ジム・ブラウンの記録を抜いてNFL通算ラッシング新記録をうち立てた、次のプレーで)
「俺は相手の守備選手達に言ったんだ。『おい、頼むから、ペイトンをタックルしてロスさせないでくれよな。祝福をもう一度やり直さなくちゃいけなくなるから』って。」
ジェイ・ヒルゲンバーグ シカゴ・ベアーズ、センター

(シカゴの大劇場でおこなわれたクラシック演奏会に大遅刻して、聴衆の前でステージからお詫びの挨拶をおこなって)
「皆様、本日は大変な遅刻をしてしまい誠に申し訳ありません。充分早めにホテルを出たつもりだったのですが、ちょうどシカゴ・ベアーズの試合終了時間と重なり、ベアーズ・ファンの行列の大混雑の中で、どうしてもタクシーが見つかりませんでした。私がアイザック・スターンではなく、ウォルター・ペイトンであったならばタクシーを譲ってもらえたのでしょうが。」
アイザック・スターン 世界的に有名な米国人バイオリニスト


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