清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
<THE CATCH、そして、THE HIT>
皆さんは、NFLに「The Catch」と呼ばれるプレーがあることをご存じですか?
1981年度のNFC決勝戦(正確には1982/1/10。スーパーボウルの一つ前の試合)で、試合終了58秒前に49ersのQBジョー・モンタナがWRドワイト・クラークに逆転のTDパスを投げ、28-27でカウボーイズを下した時の奇跡のTDレシーブが「The Catch」と名付けられ、今も語り継がれています。
オールドファンにとっては、ついこの間のような気がしますが、その時から既に42年が経過しているのですね。60歳以上の卒業生は「The Catch」をきっと覚えておられることと思います。
Sports Illustrated社が発表した、100年間を対象とした「NFL歴代最高のプレー」で、The Catchが第3位にランクされています。
今回は、そこから更に22年遡り、1960年に起こったイーグルスの「The Hit」についてご紹介します。こちらは知っておられる方は少ないでしょう。しかし、英語版Wikipediaで「The Hit (Chuck Bednarik)」と入力すると、このプレーがちゃんと紹介されますので、The Hitは今でも通用し、公認されている言葉であることがわかります。
1960年はイーグルスが創立28年目にして3回目のNFL選手権優勝を遂げた年でした。そしてこの年、イーグルスで突然英雄となったのが、C兼LBのチャック・ベドナリックでした。
この年は東地区でイーグルスとジャイアンツが激しく優勝争いをしました。ジャイアンツにはフランク・ギフォードという傑出したRBがいました。11月20日の直接対決(E17-10G)で、LBベドナリックがRBギフォードに放った恐怖のタックルが「The Hit」です。まずはその時の映像をご覧ください。(2分弱)
Chuk BEDNARIK plaquage Frank Grifford – YouTube
フランク・ギフォードは失神し、起き上がることはありませんでした。そのまま救急車で病院に運ばれ10日間入院し、長期のリハビリを余儀なくされます。ギフォードはその後、一旦引退を発表しましたが、18か月後に奇跡の復活を果たします。2シーズンプレーした後、正式に引退し、のちにTV解説者として大活躍します。
The Hitは今ならば即、反則・退場となったプレーでしょうが、当時は激しいタックルに対するルールが寛容で、フラッグが投げられることさえありませんでした。
The Hitの直後、倒れたまま動けないギフォードに向かってポーズをとるベドナリックの写真(下)は、NFLの歴史の中でも非常に有名なシーンとして語り継がれています。エースRBギフォードを失ったジャイアンツが首位争いから脱落し、イーグルスが東地区を制しました。
チャック・ベドナリックは1925年生まれ。高校卒業後、米国空軍に入隊し、戦闘機の射撃手になってナチスドイツとの戦争に参加し、数々の勲章を得ています。
終戦後、アイビーリーグの名門ペンシルバニア大学に入学。191cm106kgと当時としては大型のC兼LBとして活躍し、3回オールアメリカンに輝いています。
1949年NFLドラフトの一巡目第1位でイーグルスに指名され入団。C兼LBとして活躍しましたが、ツープラトン制に時代が大きく変わっていったため、入団10年目の1958年からC(センター)のみの出場となりました。
ところが、1960年のシーズン直前、同僚のLBが負傷で長期離脱となったため、コーチのバック・ショーはベドナリックに、「もう一度、攻守兼務でLBも務めてくれ」と依頼します。他の選手が皆ツープラトンでやる中、当時35歳のベテラン、ベドナリック一人が攻守兼任での出場となりました。
試合で攻守交代となっても、ベドナリック一人だけがフィールドに残り、ずうっと出ずっぱりで戦い続ける姿はイーグルス・ファンに感動を与え、観客総立ちの拍手を浴び、彼は英雄になりました。
そうした状況下でThe Hitが生まれたわけです。
NFL東地区を制したイーグルスは、1960年NFL選手権で西地区1位のパッカーズと対戦しました。
パッカーズは12年間にわたる低迷期を経験していましたが、1959年にビンス・ロンバルディがコーチに就任してから急激に強くなり、19年ぶりでNFL決勝に勝ち上がってきました。
選手権試合は大接戦となり、パッカーズが4点差を追いかけて終了8秒前、イーグルス陣22ydからQBバート・スターがRBジム・テイラーに最後のショートパスを投じます。レシーブしたテイラーはゴールラインを目指し、ゴール前8ydまで前進しますが、LBベドナリックにがっちり組み止められ、そのまま試合終了となりました。このプレーは当時「NFL史上、最もエキサイティングな8秒間」という評価を受けています。(イーグルス17-13パッカーズ)
敗軍の将ビンス・ロンバルディはロッカールームに選手たちを集めて、静かに「もう、こういう敗北は二度と起こらない」とだけ語りました。ロンバルディの言葉はまさに真実となりました。ロンバルディはその後5回の優勝決定戦(NFL選手権3回、スーパーボウル2回)に臨みましたが、すべて勝利しています。
この1960年NFL選手権も歴史に名を残す有名な試合です。画質が悪いですが、ダイジェスト版のYou Tube画像がありますので是非ご覧ください。#60ベドナリック(緑)が攻守とも出ずっぱりで大活躍している様子がよくわかり感動します。
なお、この試合映像を見てパッカーズのヘルメットにGのマークがないことに気づきました。ロンバルディがコーチ就任してすぐに、ヘルメットにGロゴを与えたと私は誤解していましたが、実際には就任3年目からのGロゴ採用だったようです。
1960 Championship NFL – YouTube (22分)
NFLで攻守兼務プレーする選手は、例えばディオン・サンダース(1989-2004年、カウボーイズ他)がWR、CB、リターナーの3役をこなしたことで有名ですが、彼の場合、主に守備とリターンで起用され、WRは部分的な起用であったと受け止めています。14年の選手生活でパスレシーブは60回しか記録されていません。(ただしサンダースは、同じ時期に大リーグ外野手も兼ねて10年間プレーしており、これは凄いことだと思います。1992年には野球97試合に出場、打率.304、26盗塁!)
「一人だけ出ずっぱり」を2シーズン経験した後、ベドナリックは37歳で引退しました。
試合時間60分をフルにプレーし続けた彼は「NFL最後の60ミニッツマン」と呼ばれ、フットボール・ファンの心の中に永遠に刻まれることになります。2015年に89歳でこの世を去っています。
本年8月10日の私のコラム「全米カレッジ・オールスター戦に出場した慶應選手」で、岡本順治さん(1977年卒、主将)が、「大学1年の春早慶戦から、大学4年の秋季リーグ戦まで、定期戦・公式戦の全試合に60ミニッツマンとして出場」したことを述べました。昔は慶應にも60ミニッツマン(日本では正確に言うと48ミニッツマンですが)がいくらでも居たのですが、1980年頃から部員数が飛躍的に増え、それに伴い60ミニッツマンは激減したと理解しています。
それでもちらほらと攻守兼務で出ている選手を拝見します。今年の石塚大揮選手(3年、OL/DL)も両面でプレーしているのを見て感動を覚えました。(本年度、他にもおられたらお許しくださいね)
攻守兼任は体力的には本当につらいと思いますが、両面出るということは、「両方のポジションで圧倒的強さを誇る主力選手」であることの証でもあります。
慶應の歴代60ミニッツマン達に栄光あれ!
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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