清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
Unicorns Net1931号に掲載した「NFLクォーターバック歴代TOP25人」の表を見ていますと、「古い時代のQBほど選手寿命が短く、現代のQBは選手寿命が長い」という傾向を感じます。
現代のQB達は、トム・ブレイディのNFL勤続23年を筆頭に、ブレット・ファーブとドリュー・ブリーズは20年間プレーしました。アーロン・ロジャース(41歳)は今年スティーラーズと一年契約を結んだようですので、出場出来れば21年目に入ります。
一方、往年の名QBは、オットー・グラハム10年、ロジャー・ストーバックとジム・ケリーが11年、シド・ラックマンとノーム・ヴァン・ブロックリンが12年しかプロでプレーせずに引退しています。「QBがプロで10年活躍できれば上出来」という時代があったのです。
現代の選手寿命が長いのは「選手達の健康管理・安全管理が、現代は飛躍的に向上している」のが一番大きな理由と思われますが、「危険なプレーに対する罰則ルールが、現代はものすごく厳しくなった」点も大きいでしょう。
昔の映像を見ていると、QBが完全にプレーを終えたのに、その後、強烈なタックルを食らって昏倒する、レイト・ヒットのシーンがしばしば有ります。「うわっ、それはダメだろう!」と叫びたくなるような場面を幾度も観てきましたが、フラッグが投げられることさえ無い時代があったのです。
そんな中、68年前にプロ入りしたレン・ドーソンが19年に渡って41歳までプレーを続けたことは驚異的と言えます。今回はカンザスシティ・チーフスで第1期黄金時代を築いたレン・ドーソン(歴代ランク第24位)について述べてみます。
栄光の学生時代と、転落のNFL時代
1935年にオハイオ州で生まれたレン・ドーソンは、高校時代から傑出した運動能力を持ち、フットボールと野球の両方で州高校代表メンバーに選ばれています。大学進学の時に、オハイオ州立大とパデュー大のどちらでフットボールをやるか迷いましたが、オハイオ州立大のヘッドコーチ、ウディ・ヘイズが「徹底的にランプレーを使ってゴリゴリ押し進める」タイプのオフェンスを好んでいたため、パス能力に自信のあったドーソンはパデュー大を選びました。
1954年、2年生のレン・ドーソンはパデュー大の一軍QBとなりました。この時のバックス・アシスタントコーチがハンク・ストラムでした。ハンク・ストラムはのちにカンザスシティ・チーフスのヘッドコーチとなり、ドーソンと長年の師弟関係、そして鋼鉄の信頼と友情を築いてゆくことになります。
ドーソンのスターター第2戦となった、当時全米ランク1位のノートルダム大戦でパデュー大はいきなり24-17の大金星を挙げています。

1969年、長年の師弟関係と友情を築いたハンク・ストラム(左)とレン・ドーソン
1956年のパデュー大は3勝4敗2分に終わりましたが、再びノートルダム大を破る金星があり、レン・ドーソンはオールアメリカのQBに選出されています。
ピンポイント・パサーとして高い評価を得たドーソンは、1957年NFLドラフトで、ピッツバーグ・スティーラーズから1巡目第5位の高順位指名を受けて入団します。
しかし、スティーラーズのバディ・パーカー・コーチと、ドーソンの間はしっくりいきませんでした。パーカー・コーチはドーソンより1歳年上のアール・モーラルを先発に起用し、6勝6敗でシーズンを終えます。そして翌1958年トレードでモーラルを放出し、ベテランQBボビー・レインを獲得しました。結局ドーソンはボビー・レインの控えQBに甘んじることになります。
入団3年目が終わると、今度はドーソンが放出されます。ブラウンズにトレードされたレン・ドーソンの役割はまたも控えQBでした。2年間ブラウンズに在籍しましたがほとんど使ってもらえず、1961年度終了後にクビを言い渡されます。NFLで過ごした5年間で、先発出場は2試合だけ。パス成功総数がわずか21回でした。クビになった時ドーソンは27歳になっており、誰もが「レン・ドーソンの選手生命はこれで終わった」と思っていました。
AFLで復活を成し遂げたレン・ドーソン
1962年、クビを宣告された失意のドーソンに声を掛けたのが、パデュー大時代に師弟関係を築いていたAFLダラス・テキサンズのヘッドコーチ、ハンク・ストラムでした。
AFLは1960年にNFLの対抗馬として設立された新組織です。石油富豪の息子、ラマー・ハントが発起人となり、8チームでリーグ戦を開始していました。AFL発足時の様子はコラム「チーフスの歴史、ハント家の歴史」に詳しく書きましたので読んでください。
【清水利彦コラム】チーフスの歴史、ハント家の歴史 2024.03.22 | アメリカンフットボール三田会

1962年、ダラス・テキサンズ時代のドーソン。ヘルメットのロゴはテキサス州の地形を表していますが、ヘルメットにマンボウがへばりついているようで、お世辞にもカッコいいロゴとは言えません。笑
ラマー・ハントは自らAFLダラス・テキサンズを設立し、初代ヘッドコーチにパデュー大やノートルダム大でバックスのコーチをしていたハンク・ストラムを指名しました。当時のAFLは「ロングパスを多用し、派手なTDの奪い合いをして観客を魅了する」試合を増やして、NFLとの差別化を図ろうとしていました。その方針に、パス攻撃を組むハンク・ストラム・コーチと、ロングパスを得意とするレン・ドーソンがフィットしたわけです。
むしろ、ハンク・ストラムから誘われて、不安を感じたのはレン・ドーソンだったろうと推察します。
AFLが設立されても、当初なかなか観客が集まらず苦労しました。テキサンズを潰そうと、NFLがダラス・カウボーイズを同じ1960年に創部したため、ダラス市内の多くのファンはNFLに流れました。ダラス・テキサンズの本拠地はコットンボウルでしたが、7万人収容できるスタジアムに集まるAFLのファンはせいぜい2万人程度。ガラガラの観客席の前で試合をしていたわけで、「AFLなんか、どうせすぐに破産するさ。やめておけ。」という声も当然出ていたはずです。
しかし他に行き場所のないドーソンは必死にプレーし、見事にハンク・ストラム・コーチの期待に応えます。テキサンズ入団直後(1962年)から全試合にスタメン起用され、11勝3敗の好成績でAFL選手権に進み、ヒューストン・オイラーズを20-17で下して、初のAFL王者に輝きました。
優勝したのは嬉しいことでしたが、勝っても勝っても観客席が満員にならない様子を見て、ラマー・ハントは「ダラス市内にふたつのプロフットボールチームを置く(カウボーイズとテキサンズ)のは無理だ」と判断し、翌年テキサンズはカンザスシティに移転し、チーム名をカンザスシティ・チーフスに改めました。
下のロゴは、当時チーフスで試合プログラム等に使用されたマスコット・ロゴマークですが、現代では「こりゃ、ダメだ!人種差別だ!」と思わず叫びたくなるデザインですね。笑

1963年当時のチーフスのマスコット・ロゴ
1962年以来、14年間にわたり、レン・ドーソンはチーフスを率いて93勝56敗8分の好成績を挙げ続け、チーフスは「カンザスシティにおいて、5万人収容の市民スタジアムをいつも満員に出来る人気チーム」となりました。これに勢いを得て、1972年に78,000人収容のアローヘッド・スタジアム(世界一騒々しいスタジアムとして、ギネスブックに認定されている)が造られることになります。
レン・ドーソンのプレーぶりは下記のYou Tube画像でどうぞ。7分
(147) Len Dawson Highlights – YouTube
レン・ドーソンの活躍とチーフスの実力アップが、NFLとAFLの力関係を変化させていきます。
はじめはAFLのことを「新興チーム集団」と格下に見ていたNFLでしたが、チーフスを筆頭にAFL各チームがどんどん強くなっていくのを見て、1967年、ついに「両リーグの優勝チームが対戦し、真のチャンピオンを決める」ことに合意します。この試合は当初「NFL・AFL選手権」と呼ばれる予定でしたが、ラマー・ハントの発案によりスーパーボウルと名付けられることになりました。
第1回、第2回のスーパーボウルは、ビンス・ロンバルディ率いるNFLパッカーズの連勝でしたが、第3回はQBジョー・ネイマスのNYジェッツが「史上最大の番狂わせ」でAFLの初勝利となり、第4回はQBレン・ドーソンのチーフスが下馬評不利を覆して23-7でバイキングスを破り、AFLの連勝となりました。両リーグの対戦成績が2勝2敗となり、1970年、ついにNFLはAFLの10チームを加盟させ、吸収合併することを認めたのです。当時の新聞には「フットボール戦争の終結」という見出しが書かれています。
創始者ラマー・ハント、ハンク・ストラム・コーチ、QBレン・ドーソンの三位一体によるチーフスのチーム強化と躍進が、NFLの歴史を大きく動かしたと言っても過言ではありません。
レン・ドーソンは第4回スーパーボウルでMVPを獲得しています。5年間ほとんど試合で使ってもらえずクビになった男が、プロフットボール界の頂点に立った瞬間でした。この時彼は35歳でした。
ドーソンはMVP獲得後も6年間チーフスを率いて好成績を残し、41歳で引退しています。
プロ19年目、最後のシーズンとなった1975年にドーソンは「年間パス成功率第1位(66.4%)」に輝いています。1973年には「NFL Man of The Year賞」を受賞しました。
彼の背番号16はチーフスの永久欠番となりました。

1969年のレン・ドーソン式ハドル QB#16レン・ドーソン
レン・ドーソン式ハドル
今回、資料を読むまで私は知らなかったのですが、レン・ドーソンがチーフスでおこなったオフェンス・ハドルは「レン・ドーソン式ハドル」と呼ばれる、その当時としては大変特徴的で有名な隊形でした。敵陣に背を向けてOL5人が並び、その前にバックスとエンドの5人が並んで頭を下げ、QB一人だけが敵陣に向かうように立ちます。巨漢のOL達が壁を作ってQBやバックスを守っているようで、とてもカッコいいハドルだと思います。
実は私の慶應同期達(1977年卒)は、大学現役時代にレン・ドーソン式ハドルを用いていたように記憶されています。証拠となる写真が見つかっていないのが残念です。当時米国フットボール界の状況に詳しかった慶應指導者の方が、我々にドーソン式ハドルを組むことを教えてくださったのではないかと推察します。このあたりの事情をご存じの方がおられましたら是非お知らせください。
ドーソンは2022年8月に87歳で亡くなっていますが、往年の名QBに敬意を表し、QBパトリック・マホームズが、その年チーフスのプレシーズン試合にて「レン・ドーソン式ハドル」をおこないました。チーフスで約50年ぶりに復活したハドルの形を見て、感動の涙を流したオールド・ファンがたくさん居られたことでしょうね。

2022年、ドーソンの死を悼み、レン・ドーソン式ハドルを組むQB#15パトリック・マホームズ
さて、近代の慶應のハドルはどのようなものなのか、元チームカメラマンの秋本宗一さんにお願いしたところ、2016年10月30日早稲田戦(K21-14W)のハドル写真をお送りいただきました。
現在の慶應ハドルが、いつ、どのようにして成り立ったか等について、私は何も知りません。もし皆さんの中に、ハドルに関する思い入れやエピソード、ハドルの形に関する歴史などご存じの方がおられましたら是非お教えください。

2016年10月早稲田戦ハドル 撮影:秋本宗一氏
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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