清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
若手卒業生の皆さんや、現役部員諸君に向かって「かつて慶應の現役選手が、全米カレッジ・オールスター戦に出場したことがある」と言ったら、信じてもらえるでしょうか?
信じ難い話ではありますが、実際に有ったことなのです。今回はその時の話をします。
全米カレッジのオールスター戦と言えば、「シュライン・ボウル(旧名シュライン・ゲーム)」とか「シニア・ボウル」の名前は聞いたことがあるでしょう。
シュライン・ボウル(East-West Shrine Bowl)は、1925年に始まり、現在も続けられている由緒あるイベントです。49ersから今年レイダースに移籍したQBジミー・ガロッポロは、この試合でMVPに輝いた経験があり、高く評価されてその後ドラフトで第二巡指名されました。
1950年からおこなわれているシニア・ボウルは、NFLドラフトで指名されたい選手たちの「品定め会」という意味合いがより強いと認識しています。現職のNFLヘッドコーチ2名が選ばれ、両チームを指揮しますので、選手達は当然アピールに必死の真剣勝負となります。かつては出場選手に報酬が支払われた時期もありました。
1960年からハワイでおこなわれていたオールスター戦「フラ・ボウル」は2008年で一旦廃止となり、2020年に復活しましたが、規模や注目度が縮小されてしまった印象があります。
これらのイベントが既に存在したにもかかわらず、「ジャパンボウル(Japan Bowl)」というNCAA公認のカレッジ東西オールスター戦が、1976年から日本で開催されることになりました。1976年はちょうど「アメリカ合衆国建国200周年」にあたり、その記念事業として発足しました。主催は日本アメリカンフットボール協会とスポーツニッポン新聞社でした。
ジャパンボウルのプログラムには、大会名誉会長として大平正芳氏の写真と挨拶文が掲載されています。大平正芳氏の経歴(主なものだけ)は下記のとおりです。
1972年7月~1974年7月 外務大臣
1974年7月~1976年12月 大蔵大臣(現在の財務大臣)
1978年12月~1980年6月 第68代、69代内閣総理大臣
つまり、ジャパンボウルの企画が検討・具現化された頃に、大平氏は現職の外務大臣であり、第1回ジャパンボウルの開催時には現職大蔵大臣であり、第3回ジャパンボウル開催後に内閣総理大臣に指名されたことになります。とてつもなくパワフルな方が先頭に立って、ジャパンボウル開催を推進してくださったわけです。
日米にとって共に「国が後押しする一大イベント」であり、ジャパンボウルは大変な注目・話題を集めて開催されました。第1回ジャパンボウルは1976年1月18日国立競技場にて行われ、観客は超満員の68000人を集めました。
実はこの「国立競技場に観客68000人」というのは、当時「1964年東京オリンピック大会開会式・閉会式以来の、史上3番目の大観衆」だったのです。のちに「早稲田vs明治ラグビー」などが国立競技場で大観衆を集めた時も、68000人を超えることはなかったと伺っています。
来日したメンバーも、全く手抜きのない「最強軍団」でした。第1回大会、東西両軍で58名が参加しましたが、そのうちの54名(93%)は同年度のNFLドラフトで指名を受けており、また、54名のうち9名がNFLドラフトで第一巡指名された、まさに「本物」の集団でした。
第1回大会はアーチー・グリフィン(オハイオ州立大)、第2回はトニー・ドーセット(ピッツバーグ大)と、ハイズマン賞を獲得した最高のRBも参加しています。
その時に日本側から提案され、実現したのが「東西両軍に3名ずつ、計6名の日本人選手を参加・出場させる」というアイデアでした。第1回~3回、6名ずつの日本選手(大学4年生)が選ばれ、出場しています。すべて関東の大学からの選出でした。
第1回ジャパンボウルには慶應からの選出はありませんでしたが、第2回大会に岡本順治さん(昭和52年卒主将)、第3回大会に平山俊一さん(昭和53年卒主将)が、6名のうちに選ばれ、ジャパンボウル出場を果たしています。
今回の様々な資料は全て、岡本順治さんからご提供いただきました。
岡本順治さんは当時の思い出を次のように語っています。
★まさか自分がジャパンボウルに出場するとは考えてもいなかったので、選出の知らせを聞いて大変驚きました。試合の一週間前に米国選手達が到着し、日本人6名もそこから行動を共にしました。高輪プリンスホテルが宿舎となっており、米国選手同様、我々6名にも「Meal Pass」が支給されました。ミールパスを提示すると、高輪プリンスホテル内のどのレストランやバーでも無料で無制限に飲食が出来るという、素晴らしい待遇だったのが印象に残っています。
練習は東軍西軍が一緒にやるわけにはいかないので、我々西軍はバスで米軍基地に行って練習しました。西軍のコーチはカリフォルニア大学を率いていたマイク・ホワイト(のちオークランド・レイダースのヘッドコーチ)。西軍にはUSCのエースRBリッキー・ベル(ハイズマン投票第2位)も居ました。ガンガンぶつかり合うようなコンタクトは無く、ヘルメットだけ着けて、タイミングを合わせるような練習が多かったと記憶しています。米国選手と我々では、体格の違いが比較にならないので、「一緒にプレーする」という感じではありませんでした。
試合当日、大観衆(第2回大会は58000人)の前で入場し、ただただ緊張していたと思います。キッキングゲームで起用され、フィールドに登場しました。巨漢選手から強烈なヒットを受けたらどうしようと思いましたが、幸いそういう事にはなりませんでした。日体大RB山本勉君はボールキャリアになっています。
来日中のパーティーでは、ハイズマン賞のトニー・ドーセットをはじめ、名前を聴いたことがある、テレビで観たことがある、という選手たちと写真を撮ったりして一緒に過ごすことが出来て、夢のようでした。あっという間の一週間でしたが、生涯忘れられない経験をしたと思っています。★
岡本さんから提供された写真は、フットボール・ファンならばヨダレの出そうなうらやましいショットです。
ビンス・フェラガモはネブラスカ大でエースQBとして活躍しました。オールアメリカンとアカデミックオールアメリカンをダブル受賞するという偉業を達成し、ロサンゼルス・ラムズに第4巡で指名されます。
ラムズにはパット・ヘイドンという名QBが居たため、最初の2年間全く出番がありませんでしたが、3年目の1979年、負傷したヘイドンに代わってスターターとなりました。9勝7敗というギリギリの戦績でしたがプレイオフに進み、予想を覆して敵地でカウボーイズ、バッカニアーズを連破し、ラムズはスーパーボウルに駒を進めました。「NFL実働1年目で、スーパーボウルの先発QBになった」のは当時、フェラガモが初めてでした。スーパーボウルでは第3Qまで当時最強のスティーラーズをリードし、観客を沸かせましたが逆転負けを喫しています。
もう一つうらやましい写真、ハイズマン賞のトニー・ドーセットを日本選手6名が囲むショットもありました。
トニー・ドーセットは180cmと小柄ながら、高校時からフットボールとバスケットボールで活躍。地元ピッツバーグ大に入学し、一年生でオールアメリカンに選ばれるという、当時初の快挙を達成。
4年生の時、ピッツバーグ大は12勝0敗で全米チャンピオンとなり、1976年12月ドーセットはハイズマン賞を獲得。そして最高のタイミングでその翌月ジャパンボウルのため来日したわけです。
ドラフト一巡目第2位でダラス・カウボーイズに入団。その年いきなり大活躍しスーパーボウルで優勝します。その後10年間、ドーセットはカウボーイズのエースRBとして君臨し、America’s Teamと讃えられたカウボーイズの全盛期を支えました。カレッジとプロの両方で殿堂入りしています。
トニー・ドーセットの感動的な走りは、下記のYou Tube画像でどうぞ。(8分)
(27) Tony Dorsett Highlights (Final Version) – YouTube
大観衆を集め、鳴り物入りでスタートしたジャパンボウルでしたが、第1回68000人、第2回58000人、第3回33000人と次第に減ってゆき、第5回からは会場が横浜スタジアムに移されました。その後もジャパンボウルは続けられ、1993年1月に第18回(於東京ドーム)をおこなったのが最後となりました。ちょうどバブル崩壊の時期と重なり、スポンサーが付かなくなったのが原因と考えられます。
実は、筆者は第4回以降のジャパンボウルのことを全く知りません。米国留学をして、帰国後は大阪勤務となったため、関東でおこなわれていたジャパンボウルには全く興味がありませんでした。
今回は、岡本順治さんと平山俊一さんの出場についてお話ししましたが、それ以降、慶應の選手がジャパンボウルに参加したことはあったのでしょうか?ご存じの方お知らせください。
また、ジャパンボウル開催においては多くの方々の大変なご尽力が陰にあったことと推察します。このような御苦労について、詳細をご存じの方おられましたらご一報ください。
岡本順治さんは「ジャパンボウルに選ばれるとは思っていなかったので驚いた」と述べておられますが、彼は1年生の時からライスボウル(当時の東西学生オールスター戦)に選抜され、1976年12月のシルクボウル(対コーネル大学)にも慶應から岡本順治、柿沼光信、平山俊一の3名が選出されていたように、関東では突出した選手でしたので、我々同期は「ジャパンボウルに岡本が選ばれるのは当然」と受け止めていました。
私から見ますと、岡本順治さんの最大の功績は「一年生春の早慶対校戦・同志社戦から、四年秋のリーグ戦まで、四年間すべての公式戦に、攻守ともスタメン・フルゲーム出場した」ことでしょう。一度も負傷欠場がなく、まさに「無事是名馬」を絵に描いたような頼れるキャプテンでした。
「攻守ともスタメン・フルゲーム出場」する選手のことを、米国では尊敬の念を込めて「60 Minutes Man」と呼びます。60 Minutes Manについては、一度コラムの題材として別途取り上げてみたいと考えています。
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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