【清水利彦コラム】マムシ谷の由来、そして、歴代部長先生について 2021.06.24

清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

※2011年2月8日 Unicorns Net1231号掲載の「マムシ谷の由来」をベースとして、歴代部長先生のご就任期間に関することを加筆修正しました。

皆さんは「蝮谷」という名前がどのようにして付けられたかご存じでしょうか?
筆者も知りませんでしたが、古い書物に記載があることを偶然見つけましたのでご紹介します。

その書物は昭和48年(1973年)に出版された「体育会と共に」です。
著者は照井伊豆氏です。年表の如く年代順に記された、慶應義塾体育会の出来事の中に、次のように記述されています。(※読みやすくするために、筆者が一部手を加えています)

照井伊豆氏(慶應義塾体育会副理事、体育会主事)と言っても、若い会員の方々はご存じないと思いますが、この書物の前書きに、「照井伊豆氏は慶應義塾体育会のヌシのような存在である」と書かれているのがまさに正解であると感じます。

昭和9年(1934年)12月2日、日吉校舎裏側の谷に日吉弓道場が完成した。その竣工の御祝いとして弓術大会がおこなわれ、塾長をはじめ塾の主な人々が多数参加した。
そこで、当時の体育会会長・板倉卓造氏が弓を射ていると、弓はちっとも的に当たらず、すべて右に外れて山の斜面の方へ飛んでいってしまう。
これを見た小泉信三塾長が、からかい半分に、「板倉さん、一体どうしたんですか?」と尋ねたところ、板倉体育会会長は平然と、「的を狙っているのではない。山に潜む蛇を追い払っているのだ。」と答えた。これを機に、その谷は「蝮谷」と名付けられた。

つまり、この谷に昔たくさんヘビが棲んでいたから、というわけではなく、このような由緒ある面白いエピソードに由来しているとのことです。

小泉信三塾長は「練習は不可能を可能にする」との有名な名言を発した方で、体育会各部のイベントだけでなく、競技応援にも非常に積極的に参加されていました。(参考:「私の履歴書」小泉信三著 響林社文庫)

なお、この本「体育会と共に」の中には、アメリカンフットボール部に関することが下記の通り記されています。

「アメリカンフットボール部加入」 (部長 小島栄次)

昭和10年(1935年)1月頃、日系米人二世船田敬一氏を監督として、アメリカンフットボール・クラブが結成された。昭和13年に塾内対抗競技部新種目団体に加盟した。翌昭和14年春、早大と帯同して朝鮮遠征をおこない、昭和15年には全国制覇をなしとげ、昭和21年(1946年)、体育会に加入した。

この文献により、初代部長が小島栄次先生であることが確認できました。また、我が部の創部は昭和10年(1935年)ですが、慶應義塾體育會加入が認められたのは昭和21年(1946年)ですので、創部から11年間は非体育会クラブとして新種目団体という扱いを受けていたことになります。

歴代部長先生のお名前と在任期間を確認しますと、下記のようになります。

初代      小島栄次先生      1936-47年
二代      青木 巌先生      1948-54年
三代      今宮 新先生      1955-59年
四代      二宮孝顕先生      1960-71年
五代      小田英雄先生      1972-86年
六代      竹内 勤先生      1987-2000年
七代      小安重夫先生      2001-10年
八代      渡辺真純先生      2011-18年
九代      田中誠二先生      2019年-現在

在任期間が一番長いのは、小田英雄先生(法学部政治学科教授、現名誉教授)の15年であることもわかりました。ユニコーンズは今年で創部87周年となりますが、この途方もなく長い期間をわずか9名の先生方が脈々と支え続けてくださっています。

しかしながら、9名の中で学生日本一を経験されたのは、小島部長(1946)青木部長(1948)が一度ずつあるだけです。

長年の部長先生方の大恩に報いるためにも、是非とも現役諸君には学生日本一復帰を成し遂げてもらいたいものです。

 

「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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