2024/6/13
昭和52年(1977年)卒 清水利彦
shimizu.toshihiko2@gmail.com
パッカーズvsベアーズでおこなわれたプレイオフ
パッカーズとベアーズは、同じNFC所属ですので、スーパーボウルで対戦することはありません。
今は同じNFC北地区所属ですので、どちらかが地区優勝し、もう一方がワイルドカードから勝ち上がって他地区上位チームを倒した場合のみ、両者のプレイオフ対戦が実現することになります。100年以上の歴史を持つ両チームですが、プレイオフで対戦したことは過去に2回しかありません。
- 1941年12月14日
どこかで見た事がある日付だなと思いましたが、なんと日本軍が真珠湾奇襲をおこない太平洋戦争が始まった日(ハワイ時間で12月7日)からちょうど一週間後でした。「こんな非常時にフットボールなんかやっていて良いのか?」という疑問さえ生まれます。
当時西地区のベアーズとパッカーズが共に10勝1敗でリーグ戦を終えたため、決着をつけるためのプレイオフがおこなわれ、ベアーズが33-14で快勝。NFL選手権でもNYジャイアンツを下して2年連続5回目の王座に着いています。まさにベアーズの黄金時代であり、もちろんヘッドコーチはジョージ・ハラスでした。
- 2011年1月23日
このシーズンはベアーズが11勝5敗でNFC北地区首位。パッカーズは10勝6敗とぎりぎりの戦績でしたがワイルドカードでプレイオフに残りました。
ところが、プレイオフ二回戦でパッカーズが13勝3敗のアトランタ・ファルコンズを48-21の大差で破る大番狂わせ。NFC決勝でベアーズと対戦することになりました。1941年以来69シーズンぶりの宿命のライバル対決決戦に、世間では”Showdown of the Century”(今世紀最大の対決)と大騒ぎになりました。
レギュラーシーズンでは共に地元のチームが勝って1勝1敗だったため、ホームで戦うシカゴ・ベアーズが有利と予想されていましたが、またも予想を覆してパッカーズが21-14で勝ち。プレイオフで3試合続けての下剋上となりました。この試合の模様は下記You Tubeでどうぞ。(10分)
(226) Packers vs. Bears 2010 NFC Championship | Game Highlights | NFL – YouTube
この勢いに乗ってスーパーボウルでもスティーラーズに31-25で勝利し、パッカーズは14年ぶり4回目のスーパーボウル制覇となりました。MVPはQBアーロン・ロジャース。グリーンベイのヘッドコーチはマイク・マッカーシーでした。
ジョージ・ハラス物語 後編
前号でお伝えしたように、ジョージ・ハラスは1920年に25歳でデケイター・ステイリーズ(のちのベアーズ)のコーチ兼主将となり、翌1921年に26歳で「オーナー兼ヘッドコーチ兼主将」となりました。
非常に若くして重要な役割を一手に背負ったハラスですが、一方で彼は「超高齢になるまでベアーズのオーナー兼ヘッドコーチを続けた人」としても知られています。
ジョージ・ハラスが1967年のシーズンを最後に引退した時72歳になっていました。これは当時のコーチ最年長記録であり、53年後の2020年に、ヒューストン・テキサンズのロメオ・クレンネルが73歳で臨時コーチ(前任者が途中でクビになったため)に就任し、12試合で4勝8敗という成績を収めた際に破られました。しかし記録の価値としてはハラスの方が桁違いに大きいのは明白です。
ハラスは球団創設から引退までの47年間のうち40シーズン、ベアーズ・コーチを務めましたが、コーチをしていなかった期間、例えば1942~45年は第二次世界大戦に軍人として参加していました。やむを得ぬ事情があった時だけコーチ職を休んでいたわけです。
40シーズンで負け越しはわずか6回しかありません。
1963年(68歳)にはベアーズを率いて10勝1敗2分の好成績をあげ、NFL選手権でNYジャイアンツを破って6回目のNFL王座に輝いています。NFLで6回チャンピオンになったコーチは、他にカーリー・ランボー(パッカーズ)と、ビル・ベリチック(ペイトリオッツ)が居るだけで、最多タイ記録です。72歳でコーチを引退した時に、オーナーの職も辞任しています。
NFLにおける歴代最多勝コーチのランキングは次の通りです。
1位ドン・シュラ 328勝156敗6分 勝率.677 在任33年
2位ジョージ・ハラス 318勝148敗31分 勝率.682 在任40年
3位ビル・ベリチック 302勝165敗 勝率.647 在任29年
当時の年間試合数が、ハラスが11~12試合、シュラが14~16試合、ベリチックが16~17試合と大きく異なることを考慮すれば、ジョージ・ハラスの持つ記録が如何に価値あるものかご理解いただけると思います。
ジョージ・ハラスはフットボール戦法の研究者としても有名です。クラーク・ショーネッシー(シカゴ大コーチ)と組んで、T―フォーメーションの研究に磨きをかけ、攻撃陣が猛威を振るいました。NFLのコーチと大学のコーチがプレーを共同研究するなどということが、昔はあったのですね。1940年にはNFL選手権でワシントン・レッドスキンズを73-0というスコアで破り、現代のスーパーボウルを含めても「優勝決定戦における最多得点差試合」という記録が残っています。
ジョージ・ハラスは1983年、88歳でこの世を去りました。まさにシカゴ・ベアーズのために全てを捧げた人生でした。スポーツイラストレイテッド誌の発表した「NFL歴代最高のコーチ」部門で、第5位に選出されています。(第1位はビンス・ロンバルディ)
ハラスは生前「パパ・ベアー」のあだ名で愛され、親しまれていました。上の写真は1940年にベアーズが3回目の優勝を遂げた時の模様です。この写真を見るだけで、ジョージ・ハラスが選手達から、いかに愛されてきたかがわかります。
現在、NFLでは次のような表彰をおこなっています。
NFC決勝戦の勝利チームに「ジョージ・ハラス杯」を贈る。
AFC決勝戦の勝利チームに「ラマー・ハント杯」を贈る。
スーパーボウルの勝利チームに「ビンス・ロンバルディ杯」を贈る。
この3人が現在のNFL隆盛における「最大の貢献者」であると、NFL本部は考えているのだろうと私は受け止めています。
※ラマー・ハントについては、下記のコラムを参照してください。
【清水利彦コラム】チーフスの歴史、ハント家の歴史 2024.03.22 | アメリカンフットボール三田会 (keio-unicorns.com)
ジョージ・ハラスとビンス・ロンバルディの関係
ベアーズ一筋のジョージ・ハラスではありますが、実はグリーンベイ・パッカーズのコーチ、ビンス・ロンバルディの就任に深く関わった人物としても知られています。
1958年、グリーンベイ・パッカーズは1勝10敗1分というチーム史上最悪の戦績に終わり、ヘッドコーチのレイ・マクリーンは着任わずか1年でクビになりました。
パッカーズ経営陣は、人事担当部長ジャック・バイニーシに「大至急、次のコーチ候補を探してこい」と命じます。困ったバイニーシは、ライバルであるベアーズのコーチであり、プロフットボール界の大御所でもあるジョージ・ハラスの元を訪れ、意見を求めます。
ハラスは意外にも次のような意見を述べました。
「NYジャイアンツのオフェンスコーチ、ビンス・ロンバルディか、もしくは、同じNYジャイアンツのディフェンスコーチ、トム・ランドリーが良いと思う」
※トム・ランドリーは後に新設ダラス・カウボーイズの初代ヘッドコーチに就任し、29年間で250勝、スーパーボウル優勝2回に輝いた名将。
当時、NYジャイアンツのヘッドコーチにはジム・リー・ハウエルが着任していましたが、攻守に超優秀なアシスタントコーチ(ロンバルディとランドリー)を得て、非常に強いチームを作り、1958年には東地区で首位となっていました。あまりに二人のアシスタントコーチが優秀であるため、ハウエルは「私の仕事はボールに空気を入れることだけだ(何もすることがない、という意味)」と言って周囲を笑わせていました。
ジョージ・ハラスが「ロンバルディか、ランドリーを獲れ」と勧めたのは、彼ならではの作戦であったと私は推察しています。当時パッカーズはひどい低迷期で、ハラスはパッカーズを全く問題視していなかったのでしょう。一方、非常に強いジャイアンツは、ハラスにとって目の上のたん瘤でした。だからパッカーズを焚きつけて優秀な二人のどちらかを奪わせ、ジャイアンツを弱体化させるのが真の狙いであったのだろうと私は考えているのです。
ハラスの思惑通り、パッカーズはロンバルディをヘッドコーチに雇いました。
ところが結果は次のようになりました。 GBPはパッカーズ、CHIはベアーズ
1958年 GBP 1勝10敗1分 CHI 8勝4敗
1959 GBP 7勝5敗 CHI 8勝4敗 ←ロンバルディ、コーチ就任の年
1960 GBP 8勝4敗 CHI 5勝6敗1分
1961 GBP 11勝3敗 CHI 8勝6敗 パッカーズ優勝
1962 GBP 13勝1敗 CHI 9勝5敗 パッカーズ優勝
1963 GBP 11勝2敗1分 CHI 11勝1敗2分 ベアーズ優勝
1964 GBP 8勝5敗1分 CHI 5勝9敗
1965 GBP 10勝3敗1分 CHI 9勝5敗 パッカーズ優勝
1966 GBP 12勝2敗 CHI 5勝7敗2分 パッカーズ優勝
1967 GBP 9勝4敗1分 CHI 7勝6敗1分 パッカーズ優勝、シーズン終了後にロンバルディとハラス退任発表
ビンス・ロンバルディがパッカーズを急激に強くして、今度はパッカーズがジョージ・ハラスの「目の上のたん瘤」になってしまったわけです。ロンバルディはパッカーズのコーチを9シーズン務めましたが、その間ジョージ・ハラスも引退することなく、パッカーズと幾度も死闘を繰り広げました。1963年(当時ハラスは68歳)に、一度だけではありますが、ロンバルディ率いるパッカーズを下して、ベアーズがチャンピオンになったことには拍手を送りたいです。
ロンバルディは1967年度の第2回スーパーボウルに勝利した後(当時53歳)、電撃退任発表をおこないました。全く同じタイミングでジョージ・ハラスが72歳で引退したのは決して偶然ではないと思っています。ハラスは40年のコーチ人生のうち、最後の9年間は「打倒ロンバルディ」に全身全霊を注ぎ込んでいたと言っても過言ではありません。この時のハラスの思いが、ベアーズとパッカーズの「泥まみれ、血まみれのライバル関係」を更に深めてゆきます。(ジョージ・ハラス物語 終わり)
下の迷言は、ハラスが如何にユーモアに富む人であったかを表しています。
「私が審判に文句を言いに行くよりも早く、
審判が私にペナルティーを課したのを見て、
私は引退を決意した。」72歳で引退するまで、40年間コーチを続けた
ジョージ・ハラス (シカゴ・ベアーズ、コーチ)
次号ではグリーンベイ・パッカーズ誕生の歴史についてお話ししましょう。
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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