【清水利彦コラム】関学・慶應高校定期戦誕生秘話 2019.8.23

以下の文章は令和元年5月5日におこなわれた関学・慶應交流戦後の懇親会にて発表し、(その後、一部加筆訂正あり)関学の皆さんには御礼を申し上げております。
文章の中には推測にすぎない部分もあり、この内容が正しいかどうかの確証はありませんが、米田満先生のお話をベースに原稿を書き上げました。
8月31日におこなわれる関学高・慶應高定期戦に先立って、この文章が定期戦を盛り上げることに役立てば幸いです。
そして、今後更に、関学慶應両校とこの定期戦が発展してゆくことを心から願っています。

慶應義塾大学
昭和52年卒
清水利彦

==========
私はこれまで、関西学院大学と慶應義塾大学、関学高と慶應高との、長年の関わり合い、および友情について幾度かUnicorns Netで紹介をしてきました。
その中でも、「関学高と慶應高とが、定期戦を始めたいきさつ」について、私は強い興味を持ち、もっと詳しく知りたいと思っていました。

この高校定期戦は1953年(昭和28年)に開始されており、昨年、65回目の対戦を終えており、結果は7-7の引き分けでした。通算戦績は慶應高の8勝52敗3分1中止となっています。
まさに日本最古の高校アメリカンフットボール定期戦です。
1953年定期戦開始当時、日本には、もちろん新幹線などはなく、特急はと、特急つばめ号が8時間かけて東京・大阪間を結んでいました。1956年のダイヤ改正でも、ようやく、7時間半に短縮された程度でした。肉体的負担、経済的負担を考えても、当時、関東と関西の高校生が定期戦を結ぶなどということは、とてつもない苦労を重ねてのことであったと推察します。
今で言えば、海外の高校と定期戦を結ぶような感覚であったのでしょう。
我々の先輩達は、血気盛んな高校生の時に、時代を先取りし、世間の人たちがまだやったことのないことをやろうという気概を持って、関学高との定期戦を開始したのだと想像するのです。

この「定期戦が開始されたいきさつ」について、本来ならば第一回定期戦のプログラムに選手としてお名前のある野村修一元三田会会長にお話を伺えればよかったのですが、残念ながら亡くなられています。
そこで、「もしかしたら関学に詳しい方がおられるかもしれない」と考え、私が平素からお世話になっている関学OBの古結章司(こけつたかし)様に、昔のことをよくご存じのOBを紹介してくださるよう依頼してみました。
お世話になりました古結様には心から御礼申し上げます。
古結さんが紹介してくださったOBは、なんと米田満先生でした。
関学の米田先生と言えば、私のような部外者でもお名前だけは存じている、関学OB会重鎮の中でもトップクラスの方です。関学・慶應合同懇親会の時には、いつも最長老として先頭で挨拶をなさる方で、私などから話しかけるのも恐れ多い方と感じていましたので、直接面談が出来るのは夢のような話でした。古結さんのご案内をいただき喜び勇んで、宝塚市売布(めふ)にある米田先生のお宅を、2018年11月9日に訪問しました。

米田先生は現在も関西学院大学において名誉教授という肩書を持っておられるため、誰もが「先生」と呼んでいます。1927年のお生まれですので、現在(2018年11月)91歳になられますが、矍鑠(かくしゃく)とされており、大変お元気です。
米田先生は長く関学高の指導をされていたので、出身高校は、私が勝手に関学高であると思い込んでいたのですが、神戸二中(旧制中学、現在の兵庫高校)のご出身とのこと。

神戸二中在籍当時からフットボールに興味を持っておられ、高校最終学年(1947年、昭和22年)の4月13日におこなわれた第1回甲子園ボウル(慶應45-0同志社)を観戦に行っておられます。
翌1948年(昭和43年)には関西学院大学に入学し、同時にアメリカンフットボール部に入部されたので、当然第2回以降の甲子園ボウルは全て見学もしくは出場されています。
つまり米田先生は第1回甲子園ボウルから、今日までずっと甲子園ボウル試合をナマで見続けてこられたわけで、これは大変な事です。おそらくこんな方は日本中で米田先生お一人だけと拝察します。
第1回甲子園ボウルの観客数は700名と毎日新聞に記載されており、米田先生はそのうちの一人だったことになります。

ちょっと話が逸れますが、第1回甲子園ボウルには、米国軍の軍楽隊が招待されて演奏をおこないました。ところが「日本の大学チャンピオンを決めるアメフト試合で演奏する」と聞いて勇んでやってきた軍楽隊のメンバーは、たった700名しか観客がいないスタンドを見て、驚き、そしてガッカリしたとのことです。
米国駐留軍の兵隊が派手な服装をした女性を連れて、スタンドでコーラを飲みながら試合を観ているのが、グラウンドでプレーしている選手達からも見えていた、という笑えないエピソードが残されています。
また、その当日、プロボクシングの興行試合を甲子園球場でおこなうことが前から決まっており、「フットボールは外野を使い、ボクシングのリングは内野に設置する。フットボールの試合が終わったら直ちにボクシングの試合を開始する」というような話になっていたそうです。
ところがアメリカンフットボールの試合が長引いてしまったため、第4Qに入るとボクシングの試合が始まってしまいました。外野でアメフト、内野でボクシングが同時におこなわれたことになります。
残念ながら観客数でもボクシングには約1000名が集まり、甲子園ボウルが負けていたとのこと。
※米田先生のお話し以外は、毎日新聞社が発行している「毎日甲子園ボウル 70回の軌跡」から情報を得ています。

米田先生の話に戻りましょう。
米田先生が大学1年生・2年生(関西では1回生、2回生と言う)の時は、甲子園ボウルに出場出来ていません。
2回生の時は、関学と関大が引き分けて両校優勝となり、再試合を行った結果、関学は惜敗。関大が第3回甲子園ボウルに進んでいます。(結果は14-7で慶應が勝ち、2回目の学生王座に着く)
運動神経抜群であった米田選手はQBとなり、練習に励む一方でフットボールの研究に精を出しました。
神戸の古本屋でアメリカンフットボールの本(当然、原書です)を見つけ、皆で一生懸命読んで勉強したため、関学は当時最新のプレーを取り入れることが出来ました。
そして、ついに三回生のとき、関西リーグを全勝で切り抜け、関学は第4回甲子園ボウル(1949年、昭和24年)に初出場となりました。

喜び勇んで出場した第4回甲子園ボウルの相手は慶應義塾大学。
その頃慶應は関東では無敵でした。第1回、第3回大会に勝利した慶應は、当時「戦前・戦後を合わせて、創部以来、関西への遠征試合では一度も負けたことがない」ことを誇りにしていました。
当然試合前の予想でも、慶應が圧倒的有利でしたが、想定外の試合展開となります。
第3Qまで、関学が4本のTDを続けて奪い、関学25-0慶應と大きくリード。慶應はエースQB服部(日系二世選手)のランで1TDを返すにとどまり、関学の初出場・初優勝となりました。
部史上初めて関西で敗れた慶應の選手達は、東京で待つ先輩や仲間に合わせる顔がないと、大阪駅近くの散髪屋で全員丸坊主になって帰京した、と当時の新聞に残されています。
日本一となった関学は、甲子園ボウルの前に九州に遠征試合を行い、平和台球場で当時日本最強といわれた福岡の米軍砲兵隊チームと対戦し、敗れたものの7-27と善戦しました。
米軍のコーチは関学のQB米田、FB徳永らの俊足ぶりを見て、「百万ドルのバックス」と呼んで讃えたそうです。

慶應にとって誠に残念なことながら、第4回甲子園ボウルが、関学と慶應の将来の運命を大きく分けた岐路となってしまいました。
昨年12月の第73回大会までの70年間に、関学は52回出場して、25勝23敗4分で、学生王座に着くこと29回。
一方、慶應は続く第5回大会(1950年)にも出場したものの再び関学に6-20で敗れ、それ以来68年間、甲子園ボウルから遠ざかっています。

関学第一回黄金期の中心選手であった米田先生は、卒業後神戸新聞社に一年間だけ就職しましたが、その後関学高等部の体育の先生となりました。そして中等部・高等部のアメリカンフットボール部のコーチに就任されたのです。
関学の中学・高校・大学という一貫教育の中で、大学の先輩やOBが中学・高校の選手達を教え、育てていくというシステムは、「ビッグ・ブラザー」と呼ばれて、長年における関学の栄光の最大の要因であったと思っています。
米田先生はまさにこのビッグ・ブラザー・システムの第一号になったわけです。

高校の先生として3年間過ごされた後、米田先生は関西学院大学の保健体育の先生となりました。そして同時にアメリカンフットボール部の指導にあたり、監督・総監督・OB会幹事長などをずっと歴任されることになります。
関学フットボールの歴史イコール米田先生の歴史と言っても過言ではないでしょう。
これまでに引き受けた結婚式仲人の回数が百を超えると伺っており、「関学アメリカンフットボール部員達の父」と言われるにふさわしい人生を送っておられます。

今回初めて伺った話としては、昭和33年(1958年)関学の指導者人材育成制度のひとつとして、「内地留学」というものがあり、米田先生は東大に派遣されました。
そこで米田先生はさっそく東大にアメリカンフットボール部を創設し、初代の監督になられました。つまり、米田先生は東大アメリカンフットボール部の産みの親でもあるのです。
昭和33年5月に東大はチームとして初めての練習試合をおこない、その時点ではまだ部員が12名しかいませんでした。そこで米田先生が自ら防具を付けて試合に出て、大活躍したそうです。
すごい選手がいるので、相手の日体大は大変驚いたことと想像します。

さて、ここで私は当日の最も大事な課題である「関学高と慶應高とが定期戦を始めたいきさつ」を教えてほしいと御願いしてみました。
米田先生はしばらく考えておられましたが、次のようなお話しを語り始められました。
「第一回定期戦を開始したときは、私も関学高等部のコーチをしていたので、大変よく覚えている。ただし、定期戦を始めたいきさつについては、『両校高校部員同士の友情により発生したもの』という認識しかない。双方の学校同士、あるいは監督同士が話し合って定期戦を始めたとは聞いていない。関学高の部員と慶應高の部員とで、もともと親友同士の間柄の者がいて、お互いの話し合いの中で試合をやろうということになったのだと思う。友情のあった関学高の部員の名前は岡田宏一というのだが、残念ながら昨年亡くなってしまった。その親友である慶應高の部員の名前は覚えていない。」

この話を聞いて、私は大層驚きました。
本文の文頭に書きましたように、関東と関西の高校生が毎年定期戦をおこなうのは、非常に負担が大きく、勇気のある判断だと思いますので、それが指導陣によるものではなく、高校生達の意志によるものとは夢にも思っていませんでした。
定期戦開始の発端となった慶應の高校生が誰であったのか、ますます私は知りたくなりました。

この「謎のいきさつ」について、私は昭和34年卒慶應OBの山野上光さんに尋ねてみました。
山野上さんは、「関学高等部を卒業ののち、慶應義塾大学に入学して、アメリカンフットボール部に入り、主務を務めた」という希有な経歴をお持ちの方で、大変貴重なコメントを頂戴しました。
山野上さんは次のように言っておられます。
「関学高の部員と友達であった慶應の選手とは、野村修一さんのことだと思う。ただし私は関学にも友人が居るので、当時の様子を尋ねてみたのだが、不明確だがと前置きしながらも、二つの可能性について述べてくれた人がいた。その二つとは、次のようなものだ
①関学高が東京に遠征して、関東の高校と連戦し、いずれも大差で勝利したことがあった。それを悔しく思った慶應高の部員達が、関学高に『毎年試合をやらせてもらいたい』と申し込んだのが発端ではないか。
②当時のグリークラブは、東の慶應と西の関学の実力が抜きんでており、『この二校で日本一を決める勝負の場を持とう』というような声が起こっていた。これに触発され、アメリカンフットボールでも両校が対戦するという気運が高まったのではないか。」

何だか振り出しに戻ったような気がしながらも、私は関学高アメリカンフットボール部のホームページを見てみました。驚くことに、大学と同じように関学高等部も、創部以来今日に至るまでの全ての試合(オープン戦も含む)の戦績が記録として残され、WEBサイトに掲載されています。関学の「歴史を大切にする」という姿勢に心を打たれ、心から敬意を表する次第です。
ホームページの「ヒストリー」の箇所を見てみると、昭和24年(1949年)に創設された関学高アメリカンフットボール部は、創部4年目の昭和27年(1952年)春に初めて関東に遠征しており、3日間3連戦という無茶苦茶なスケジュールながら全て大勝しています。
5月3日 65-0 麻布高校
5月4日 58-0 九段高校
5月5日 37-0 慶應高校
そして、翌1953年から慶應高との定期戦が始まっていますので、山野上さんの情報①と一致しています。

また、関学グリークラブのWEBサイトを見ますと、今年で第68回になる東西四大学(慶應・早稲田・関学・同志社)合唱演奏会のことが大きく掲示されていますので、かなり古くから関学のグリーと慶應のワグネル・ソサエティは東西のトップ同士として深いつながりがあったようです。
昭和23年に東京で開かれた第一回全日本合唱コンクールで関学グリーが優勝しています。
コンクールの翌日に関学グリーが慶應キャンパスを訪れ、ワグネル・ソサエティと交歓会をおこなう様子が部史に紹介されています。
(※関学グリーの部史は600ページ以上ある膨大なものです。こんな部史は初めて見ました。全ページ、WEB閲覧できますのでお時間のある方は是非)

私の推測に過ぎませんが、山野上さんが聞いた情報①②とも正しいのではないかという気がしています。
部員同士の友情という米田先生の説も正しく、他の説も正しい。
それらが絡み合って、両校の定期戦が始まったのだと思えるのです。
また、確固たる証拠が残っているわけではありませんが、当初の友情のきっかけは、関学高・岡田宏一氏と、慶應高・野村修一氏の間の友情からものであろうと発言された方が複数名おられました。
「関学高vs慶應高定期戦開始のいきさつ」について、その他の情報をご存知の方おられましたら、
清水 shimizu@sugarlady.co.jpまでお知らせ下さい。
山野上光先輩にもこの場をお借りして、感謝の言葉を述べたいと思います。

さて、私は米田先生に対し、一度聞いてみたかった質問をしてみました。
「関学・慶應高定期戦は、最初のうち関学の圧倒的勝利が続いています。第10回までの10試合の総得点は、関学480点に対し、慶應24点と一方的でありました。慶應高が初めて勝利したのは第25回大会(慶應28-12関学)でした。勝負にならない状態が長年続いていたわけです。わざわざ関東まで、とてつもない時間と費用をかけて、大差で勝つとわかっている遠征試合を行うことに対して、関学内部で『ムダだから定期戦をやめてしまえ』というような声が出たことはなかったのでしょうか?」
これに対し米田先生の回答は次のようなものでした。
「いや、一度もない。我々は慶應が素晴らしい学校であることを知っているし、慶應の学生に対して『あこがれ』のような感情を持っている者は多い。我々は慶應高と定期戦を続けていることを嬉しく思っており、やめようなどと考えたことは一度も無い。」
このお答えは私にとって涙が出るほど嬉しいものでした。

我々慶應の人間は、長年にわたり輝かしい勝利の歴史を持っている関学に対し、尊敬の念を持つことは当然ですが、関学側から慶應に対し、特別な友情を示してもらったことが幾度もあります。
今回米田先生をご紹介いただいた古結さん(元関学高コーチ、関学大副ディレクター)が今から45年前、慶應高コーチに就任したばかりのS52小布施均さんに関学フットボールの考え方に関する貴重な資料を渡してくださったこともその一つであると受け止めています。
このたび、米田先生が長時間を割いてインタビューに応じてくださったのも、米田先生からの慶應に対する最大の友情の証しだと考えています。
米田先生には心から感謝して、今後とも末永く慶應を見守り続けて下さるよう御願いする次第です。

第1回~第3回甲子園ボウルの頃は、明らかに慶應の方が立場が上のチームでした。
しかし第4回甲子園ボウルを境にして、両者の立場は逆転し、関学は甲子園ボウルの常連校となり、一方、慶應は第5回を最後に甲子園ボウルに届くことが出来ないチームとなりました。
それでも関学は常に慶應に対し、温かい友情の手をさしのべ続けています。
私が高校生・大学生の時には、「関西に遊びに行く機会があれば、関学のアメフト仲間に連絡を入れるべし。
関学の誰かが案内をしてくれる。」ということがお約束になっており、実際に高尾長幸さん、助野俊夫さんの2名のご案内により、関西見物をさせていただいた記憶があります。

さて、私は次のような言葉を様々な関学OBからかけていただいたことが10回以上あります。
多少、言葉尻は違えど、関学の皆さんがおっしゃっている事は全て同じでした。
「慶應さん、早く甲子園ボウルに戻ってきてくださいな。我々は慶應と対戦したいんや。関学と慶應が甲子園で戦えば、間違いなく、最も人々の注目を集める、最高の人気カードとなる。そしてそのことが日本のアメリカンフットボール界を更に発展させることにつながるんや。」
我々はこの言葉を胸に刻みこまなければなりません。
そして、甲子園ボウルを目指して更なる戦いを続けましょう。(完)

※この特集を組むに当たり、非常に貴重な資料5点を添付します。
<資料A 対関学高定期戦通算戦績>
第一回からの定期戦の全てのスコアが記載されています。この資料は阿久沢高校部長よりいただきました。
一年前に入手しましたので、2018年の結果が空欄になっていますが、昨年は7-7で引き分けています。
関学高アメリカンフットボール部のホームページにも、この定期戦の通算戦績と日付、試合場が常に掲載されています。
常に「歴史を大切にする」姿勢をお持ちの関学の皆様に対して、私は心から尊敬の念を抱いています。

190821関学高定期戦通算戦績

<資料B 第4回甲子園ボウルメンバー表>
これは大変貴重な資料です。
関学OBの方から頂戴したコピーであったように記憶しています。慶應義塾大学の選手の身長は 尺・寸という旧の単位で表示されており、現在では何cmになるのかさっぱりわかりません。
関学は身長はcmで表示されていますが、体重は貫で表記されています。
タイトルが「第4回甲子園ボウル」ではなく「全日本学生覇者決定戦」となっているのも気になるところです。
慶應ロスターの中には、Unicorns Net の最年長登録者である原田稔先輩(昭和27年卒)のお名前が見られ、他には多田祥太郎先輩、菅原甫先輩(お二人とも故人)など、私が現役主務であった頃にお世話になった方々のお名前もあります。
関学ロスターの先発QBが米田満先生です。T鳥内とあるのは、現在の鳥内監督の御父様と拝察します。
この当時、関学大には関学高出身者が一人しかいません。米田先生がご卒業後、関学高を指導され、強い関学高、そして強い関学大が出来ていったものと考えます。

190821第四回甲子園ボウルメンバー表

<資料C 第1回関学高慶應高定期戦メンバー表>
資料Cと資料Dは、関西在住の慶應OB昭和33年卒・市原則比古先輩が長年に渡り大切に保管されていたもので、関西ユニコーンズ会会長の大西量介さんに託され、今回資料提供をいただきました。
市原先輩、大西さんに心から御礼申し上げます。今から66年前の資料です。
第一回はアメリカンフットボールではなく、タッチフットボールにておこなわれています。両軍選手達の身長・体重にご注目下さい。

190821第1回関学慶應高校定期戦メンバー表

<資料D 第1回関学高慶應高定期戦集合写真>
見ているだけで涙が出てくるような、本当に貴重な写真です。
資料Aにより、試合場は西宮とありますので、西宮球技場にておこなわれたものですね。
第1Q~第4Qまでのスコアが表示できる立派なスコアボートが写っていますので、関西ではこの西宮球技場がアメリカンフットボールの主な試合場であったと想像できます。
市原先輩のお話では、胸に番号があるユニフォームが関学高、番号無しでラインが横に一本走っている(紺・赤・紺の三色旗デザイン)が慶應とのことです。
右から二人目の長身の方が、元高校部長の池田久造先生(故人)です。右端の方が関学・米田先生と思われます。スコアボード向かって左側の2Qの下(最後列)が市原先輩。最前列左から3人目が吉野俊夫先輩、左から7人目が野村修一先輩です。

190821第一回慶應高関学高定期戦集合写真1953年

<資料E 関学OB、米田満先生とともに>
米田先生と私とのツーショットという光栄に浴しました。撮影は関学OB古結さんです。
写真ではちょっと米田先生の表情が硬くなってしまいましたが、インタビューの間、終始笑顔で本当に温かく迎えていただきました。この写真は私の宝物です。重ねて米田先生に御礼申し上げます。