【清水利彦コラム】オーバーン大の歴史、ボー・ジャクソン物語 2026.06.18

清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

今回は、本年4月17日付Unicorns Net1958号コラム「永遠のライバルシリーズ アラバマ大vsオーバーン大」の続きになります。

オーバーン大の歴史

オーバーン大(Auburn University)は、アラバマ州における州立大学のTOP2として、アラバマ大と常に切磋琢磨している大学です。学業においてもスポーツにおいても、アラバマ州内では2校の存在が飛びぬけているのです。

オーバーン大のキャンパス風景。中央に84000人収容のフットボールスタジアムが見えます。出典:Wikipedia

写真挿入 オーバーン大のキャンパス風景。中央に84000人収容のフットボールスタジアムが見えます。出典:Wikipedia

ただし歴史としては1831年に州内最初の州立大学として創設されたアラバマ大に対し、オーバーン大は1856年に私立の小さなメソジスト系宗教学校(East Alabama Male College)として設立されており、大きな差があります。1861~65年の南北戦争では、オーバーン大は閉鎖され、校舎は戦傷者のための病院として利用されていました。

1872年にオーバーン大は州立大学として認定されて、Agricultural and Mechanical College of Alabama(アラバマ農工大)と改名されました。つまり主に農業経営者と工業技師を養成するための学校であり、アラバマ大出身者に政治家・弁護士・企業経営者等が多いのとは対照的です。アラバマ大のファン達が「しばしばオーバーン大を見下すような態度をとる」のは、このあたりに原因があると思われます。
更に1899年にはAlabama Polytechnical Institute(アラバマ科学技術専門学校)と改名されました。

1918年からの第一次世界大戦には、学生のほぼ全員が志願兵として戦争に参加しています。
1940年第二次世界大戦が始まると、軍事技術者が不足したため、オーバーン大の学生は貴重な戦力として重用されました。陸軍等に所属する大量の軍人がこの学校に送り込まれ、軍事技術訓練を受けました。5年間で32000人が軍事技術者として養成されています。
その後、総合大学として学部を増やし、農業や工業技術に特化しない学校となったため、1961年に地元の市の名前を取ってオーバーン大学と名付けられています。

1918年、オーバーン大キャンパスにておこなわれた軍事訓練 出典:Wikipedia

アラバマ州の学校ですから、当然強い人種差別の傾向があり、1963年までは「白人のみが入学を許される学校」でした。現在(2023年)の調査でも、学生の83%は白人で、アフリカ系学生はわずか4%です。また全学生の87%は富裕層の子女と言われ、今ではアラバマ大よりもオーバーン大の方が「良家の子女のための学校」という印象が強くなっています。

驚いたことに2025年のフォーブス誌全米大学学力ランキングでは、オーバーン大163位・アラバマ大182位と、オーバーン大の方が高い学力評価となっています。全米には1500以上の大学があると思われ、両校とも学力レベルは高いのですが、もともとはアラバマ大の方が評価は高かったはずです。長年かかってオーバーン大がじわじわと評価を上げて追い付いてきて、ついには逆転現象が起こったと受け止めています。学業とフットボールの両方において、これからも両校のライバル対決が続くのでしょう。

オーバーン大フットボールの歴史

大学の設立はアラバマ大の方がずっと古いのですが、フットボール部は両校とも1892年に設立されています。そしてオーバーン大は「ハイズマン賞にその名を遺すジョン・ハイズマンがコーチをした学校」として知られています。部設立まもない1895年にハイズマンが着任し、5年間に渡り指導しましたが、その頃ハイズマンは全く無名の新米コーチでした。当時はまだ試合数が少なく5年で12勝4敗2分という戦績が残されています。このあとハイズマンはクレムソン大、ジョージア工科大と渡り歩き、「南部の大学を圧倒的に強くするコーチ」として名声を築き上げていきます。
詳しくは下記コラムを参照してください。

【清水利彦コラム】ハイズマン・トロフィーあれこれ 2021.06.11 | アメリカンフットボール三田会

1896年、オーバーン大フットボール部選手たちとジョン・ハイズマン・コーチ(右端)出典:Wikipedia

創部以来133年間のアラバマ大とオーバーン大の戦績を比較しますと、
アラバマ大           970勝328敗41分 勝率.747 全米王座獲得15回 リーグ優勝34回
オーバーン大       783勝475敗43分 勝率.618 全米王座獲得2回 リーグ優勝16回

アラバマ大が常に上にいるため、オーバーン大は格下と見られがちですが、通算勝利数783は全米で13番目に多く、「オーバーンは全米有数の超強豪チーム」であることは間違いありません。それなのにアラバマ大の存在が大きすぎるため、いつも後塵を拝しているようなイメージがあり、それがアラバマ大に対する強烈なライバル意識の根源となっています。

残念ながらオーバーン大は近年いささか不調で、2021年から5年続けて負け越しとなっています。こんなことは過去75年間起こっていなかった(1946~50年の5年連続負け越し以来)現象で、オーバーン大ファンの苛立ちは筆舌に尽くしがたいものがあるでしょう。SECリーグにテキサス大とオクラホマ大が加盟したため、リーグ戦で勝ち抜くことが容易ではなくなっています。2025年(5勝7敗)はSECリーグ内で1勝7敗という低迷でしたが、7敗のうち6敗は7点差以内の惜敗でした。決して弱いわけではないのですが、なかなか勝ち切れていません。
「SECリーグ戦は、アラバマ大とオーバーン大が両方とも強い時、実に面白い」というのが私の持論です。頑張れ!オーバーン大学!!

究極の二刀流、ボー・ジャクソン物語

オーバーン大は過去に3人のハイズマン受賞者を出しています。1971年QBパット・サリバン、1985年RBボー・ジャクソン、2010年QBキャム・ニュートン(NFLパンサーズ)の3名ですが、今回はボー・ジャクソン(現在63歳でご健在)について紹介します。

ボー・ジャクソンは「大リーグ野球とNFLの両方にオールスター戦でプレーした、唯一人の選手」です。究極の二刀流と言えるでしょう。

オーバーン大フットボール部の頃のボー・ジャクソンの上半身

ボー・ジャクソンは1962年にアラバマ州で10人兄弟の8番目として生まれました。本名はビンセント・ジャクソンですが、小さい時からとんでもない暴れ者の問題児であったため、Wild Boar(イノシシ)という仇名が与えられ、短く「ボー」と呼ばれることになりました。
高校ではフットボール部のRBとして活躍する他、野球部では25試合で20本塁打を放ち、陸上競技部で走高跳(2.06m)と三段跳び(14.81m)の州高校記録を作りました。100m走は10.38秒でした。
十種競技で州高校選手権に2回優勝していますが、2回とも苦手の1500m走を棄権しています。1500m走を除く九種目の得点が、他の選手の十種の合計得点よりも多かったのです。

高校を卒業するとき、ボーはNYヤンキースからドラフト指名を受けますが、これを拒否してオーバーン大でフットボールと野球を続けました。この時、ボーの母親が「うちの家系で大学を卒業した人は、まだ誰もいないのよ。あなたが最初の人になってね」と語ったのが決め手になったとのこと。
フットボールでは4年間でラン4303ydを獲得し、野球では通算打率.338を挙げています。フットボール部では37勝12敗でしたが、最終ランク3位が最高で、全米王座にはなっていません。4年生時に1786yd、17TDを記録し、ハイズマン賞を獲得しました。

ボー・ジャクソンのプレー(NFL)については下記You Tube画像をご覧ください。(11分)
Bo Jackson’s “Ultimate Athlete” Career Highlights! | NFL Legends

下記のサイトでは野球における有名シーン「捕球のあとの壁登り」も登場します。(12分)
Bo Jackson: Unbelievable Career Highlights from Every Sport and Team

1986年のNFLドラフトでボーはタンパベイ・バッカニアーズから「いの一番」で指名されます。
しかし、バッカニアーズのフロントが「ボーに4年生の野球シーズンに出場できなくさせて、フットボールに集中させるための裏工作をおこなった」ことが露呈したために、これに激怒したボーはNFL入りを拒否し、大リーグのカンザスシティ・ロイヤルズに入団すると発表します。ロイヤルズは野球ドラフトの4巡目という低い順位で指名していましたが、ボーは野球を選択します。1年目の多くはマイナーでプレーしましたが、2年目からはメジャーのロイヤルズで先発外野手になっています。

ところが1987年のNFLドラフトで、今度はオークランド・レイダースがボー・ジャクソンを指名しました。野球シーズンは4月から10月であり、フットボールシーズンは8月からオープン戦が始まり、シーズンが重なるため、「プロにおいては野球とフットボールの両立は不可能」と誰もが思っていました。しかしレイダースの著名なオーナー、アル・デービスは次のような声明を出します。

「私自身がボー・ジャクソンの大ファンであり、どうしても彼にレイダースでプレーしてもらいたい。そのため彼を拘束する期間を大幅に譲歩する。野球のシーズンが全て終わってからのチーム参加で構わない。(NFLの試合をいくつも欠場する事を認める)なおかつ報酬は、QB以外のポジションでのNFL史上最高額を払う」

アル・デービス・オーナーの熱情にほだされて、ボーはレイダースと契約を結びます。
1987年、ボーはロイヤルズで22本塁打を放ち、野球シーズン終了後、NFLには第8週から参加しました。第12週のシーホークス戦では221yd走り、2TDを挙げました。221ydランは当時のレイダース球団新記録でした。

1990年、レイダースRBボー・ジャクソン

こうしてボー・ジャクソンは1987年から1990年までの4年間、野球のプロ選手とフットボールのプロ選手を両立させました。米国のスポーツ史上初の快挙でした。

1989年の大リーグ・オールスター戦に出場し、超特大ホームランを放ってMVPに輝く一方、1990年のNFLプロボウル(オールスター戦)にも選ばれました。両方のオールスター戦に出たのは歴史上でボー・ジャクソン唯一人です。
1990年度NFLプレイオフのベンガルズ戦に勝利した際、ボーはタックルを受けて腰に重傷を負いました。これ以上フットボールを続けるのは無理と考え、レイダースからの引退を発表しました。
一方、野球では1991、92年の2シーズンほとんどを負傷で欠場した後、1993年に復帰して85試合に出場し、「アメリカン・リーグのカムバック賞」を受賞しています。

ボーはオーバーン大において、学業単位を全部取り終えずに大リーグ入りしていたため、中退の扱いを受けていましたが、1995年、33歳でオーバーン大に再入学し、学位を取って卒業し、母親との昔の約束を果たしています。

究極の二刀流は、デイオン・サンダース(フロリダ州立大→カウボーイズ他)によって継承されることになります。サンダースは野球のオールスター戦には選ばれていませんが、スーパーボウルでの勝利経験が2回(49ersとカウボーイズ)あり、野球のワールドシリーズにも出場経験(1992年アトランタ・ブレーブスで出場し敗退)があります。


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