【清水利彦コラム】 クォーターバック黄金列伝 第4回「テリー・ブラッドショー物語」バカと呼ばれて発奮し、スティーラーズの黄金時代を築いた男 2025.12.11

清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

私の蔵書の中に「Dominance」(Written by Eddie Epstein)という本があります。Dominance とは「圧倒的優勢(あるいは優位性)」と訳せば良いのでしょうか。
NFLの歴史の中で、圧倒的に強かったチームを年代別に掲げ、この本は「いつ、誰が、どう、強かったのか」について詳細な分析を行っています。

この本で選ばれた「圧倒的優勢」なチーム名と、当時を代表するQB氏名は下記の通り。〇囲み数字はその時代における優勝回数

1940年代 シカゴ・ベアーズ ④  QBシド・ラックマン
1950年代 クリーブランド・ブラウンズ ③ QBオットー・グラハム
1960年代 グリーンベイ・パッカーズ ⑤ QBバート・スター
1970年代 ピッツバーグ・スティーラーズ ④ QBテリー・ブラッドショー
1980年代 サンフランシスコ49ers ④ QBジョー・モンタナ
1990年代 ダラス・カウボーイズ ③ QBトロイ・エイクマン
2000年代 ニューイングランド・ペイトリオッツ ③ QBトム・ブレイディ
2010年代 ニューイングランド・ペイトリオッツ ③ QBトム・ブレイディ
2020年代 カンザスシティ・チーフス ③ QBパトリック・マホームズ
※2002年に書かれた本ですので、それ以降は清水が勝手に選びました。

今回はリストの中から、1970年代にスーパーボウルで4戦全勝と勝ちまくった強肩QB、テリー・ブラッドショー(Terry Bradshaw)について調べてみました。「10年間に一人しか生まれない、稀有なクォーターバック」と言う事も出来ます。NFLアナリスト、エリオット・ハリソンが選んだ歴代ベストQBリストで第17位にランクされ、スポーツイラストレイテッド誌が選んだNFL歴代最高のQBランキングでは10位となっています。

全盛期のテリー・ブラッドショー 出典:Football’s Greatest, Sports Illustrated

 

テリー・ブラッドショー物語

まずは彼がどのようなQBであったのか、You Tube画像でご覧ください。(8分)
Terry Bradshaw Highlights (Final Version)

テリー・ブラッドショーは1948年、南部のルイジアナ州シュリーブポートで、海軍軍人の息子として生まれました。シュリーブポートは、ポート(港)という言葉から海岸の町だと思っていましたが、大河レッド・リバーのかなり上流の町で、海辺の大都市ニューオリンズから500kmも離れています。シュリーブポートはルイジアナ州で三番目に人口の多い市ですが、それでも当時の人口は13万人ほどしかおらず、田舎町と言えるでしょう。

運動能力に優れたブラッドショーは、高校時にやり投げ競技で74.68mの記録を出し、これは当時の全米高校新記録となり、スポーツイラストレイテッド誌に「(陸上競技界の)期待の新人」として紹介されました。恐ろしく肩が強い若者であったということです。

 

ルイジアナ州地図。西はテキサス州、東はミシシッピ州。赤丸がブラッドショーの生まれ故郷シュリーブポート。緑丸はルイジアナ州立大があるバトンルージュ。黒丸がチュレーン大のあるニューオリンズ。


高校フットボール部でも強肩のパサーとして活躍し、州高校選手権決勝まで進みました。当然、各大学から注目された存在だったわけですが、なぜか州内最強豪の大学であるルイジアナ州立大(州都バトンルージュ市)にも、名門伝統校であるチュレーン大(ニューオリンズ市)にも進まず、故郷シュリーブポートのすぐ近くにある
ルイジアナ工科大(Louisiana Tech University)でフットボールを続けました

ルイジアナ工科大(学生数11000人)は、現在Conference USAという、ちょっと地味なリーグに所属する一部校ですが、ブラッドショーが在学した当時は二部校でした。(1975年から一部編入)ブラッドショーが、なぜルイジアナ州立大などの一部校に進学しなかったかの説明資料が見つかりませんが、

  1. 当時、プロ選手となる意欲・目標をまだ持っていなかった
  2. 田舎の小都市出身で、大都会に出ていく事をためらっていた

の二つが考えられ、おそらく両方とも正しいのであろうと推察します。

しかし、ルイジアナ工科大の3年生になってから彼の才能は突然開花します。2年間で17勝4敗と勝ちまくり、TDパスを連発しました。当時のQBとしては大柄だった彼(191㎝、98kg)は自ら走ることも覚え、ランTD11個を奪います。この様子を見たNFLのスカウトが注目し始めます。

1967年、ルイジアナ工科大2年生の頃のテリー・ブラッドショー 出典:Wikipedia

 

テリー・ブラッドショーが卒業した年、NFLで一番弱かったのはピッツバーグ・スティーラーズでした。チャック・ノールがヘッドコーチに就任した初年度でしたが、1勝13敗という最悪の戦績だったため、スティーラーズがドラフトの1位指名権を得ます。
スティーラーズがドラフトの「いの一番」でブラッドショーを指名したため、世間は騒然となりました。二部校の選手が、いの一番に指名されたのは、ドラフト史上この時が最初だったのです。

実はこの時代まで、ピッツバーグ・スティーラーズは、プロフットボールで一番弱いチームでした。「NFLのお荷物だった」と言っても過言ではないでしょう。1933年創部からの37年間で、勝率.381、プレイオフ出場わずか1回だけ、勝ち越したシーズンは7回だけ、もちろん優勝はゼロ、という惨状でした。ファン達の、新人QBブラッドショーに対する期待は、大変なものだったでしょう。

テリー・ブラッドショーからRBフランコ・ハリスへのハンドオフ
出典:”Dominance″ by Eddie Epstein

 

1970年、22歳でスティーラーズに入団したブラッドショーは、8試合に先発QBとして起用されましたが、パス成功率38%、TDパス6回に対しインターセプト24回という散々な出来でした。理論派のチャック・ノール・コーチにとって、同じ失敗を何度も繰り返すブラッドショーの習得力の悪さは我慢できないことでした。

ブラッドショーの失敗に対し、怒ったコーチが「DUMB」(馬鹿者、鈍い奴)という言葉を発してしまったため、マスコミが面白がってその事を書き立て、「ブラッドショーはバカだ」というイメージが定着してしまいます。最初の2年間(5勝9敗、6勝8敗)、チャック・ノールとテリー・ブラッドショーの仲は決して良くなかったと言われています。

2年間期待を裏切り続けたにもかかわらず、じっと我慢してブラッドショーを起用したのは、スティーラーズの創始者であり、オーナーであるアート・ルーニーの慧眼であったと思われます。目先のことであれこれ変えるのではなく、常に何年も先を見据えて長期的にチーム作りをするオーナーでした。
スティーラーズは創部以来、現在まで93年間、ルーニー家一族がオーナーを続けています。直近57年間でヘッドコーチがわずか3人(チャック・ノール23年、ビル・カウアー15年、現職マイク・トムリン19年)という超長期政権になっているのも、オーナー家の思想の現れかと受け止めます。
アート・ルーニーについては、いつか別のコラムで紹介したいと思っています。

歯が一本ないテリー・ブラッドショー 昔のQBは、頭や顔面に強いヒットを受けるのが当たり前だったため、歯が欠けているのは勇猛なQBの勲章のようなものでした。 
出典:The Football Book, Sports Illustrated

 

1972年、テリー・ブラッドショーの才能が突然開花します。パスを投げる回数は少し減りましたが、被インターセプト率が下がり、ボールコントロールの出来る「勝ち方を覚えたQB」となっていきます。一方で、チャック・ノール・コーチが築いた「スティール・カーテン」と呼ばれる強固な守備陣も威力を発揮し、11勝3敗で28年ぶりに地区優勝を遂げました。1シーズンに10勝以上あげたのは、この時がスティーラーズにとって創部以来初めてでした。

そして同年、28年ぶりのプレイオフ出場となったレイダース戦において、試合終了5秒前にブラッドショーが投じたパスが、NFLの歴史に永遠に残る奇跡のプレーとなります。The Immaculate Receptionと名付けられた奇跡のプレーについては、過去のコラムで詳しく書いていますので読んでください。

【清水利彦コラム】「The Immaculate Reception」〜スティーラーズの歴史を変えた奇跡のプレー〜 2021.08.12 | アメリカンフットボール三田会

このプレーは、スポーツイラストレイテッド誌が選んだ「NFL歴代最高のプレー・ベスト10」で1位に輝きました。その様子は下記You Tube画像でご覧ください。(5分)

The Immaculate Reception: THE GREATEST quality compilation EVER! #Steelers #TerryBradshaw #NFL

ファン達はこのプレーを「神のご加護による奇跡」と呼び、この時以来スティーラーズは、まさに神に守られたチームの如く勝ち続けました。8年間で88勝27敗1分、勝率.765。4回スーパーボウルに出て、全て勝利(1974,1975,1978,1979)しています。1978年にはブラッドショーが年間最優秀選手賞と、スーパーボウルMVPをダブル受賞しました。

テリー・ブラッドショーは生涯通算TDパス212回に対して、被インターセプト210回と、決して褒められる数字ではありません。(ちなみにトム・ブレイディはTDパス649回に対して、インターセプトが212回のみ!!)しかし、ブラッドショーの魅力はなんと言っても「大試合に強い」ことでしょう。彼の最高のパフォーマンスは、しばしば「ここ一番」の重要な試合で起きています。プレイオフでのブラッドショーの勝率は.737で、トム・ブレイディの.729を上回っています。
記録よりも記憶に残る名選手となり、彼のことをバカと呼ぶ人は、もう居ないでしょう。

72歳のテリー・ブラッドショー 出典:Wikipedia


34歳で引退してからは、NFLアナリスト、テレビ・映画俳優、カントリー&ウエスタン歌手など、多彩な経歴をもちます。現在77歳でご健在ですが、往年の名オフェンスラインマンみたいですね。
最後にブラッドショーに関する、お笑い迷言を3つ紹介します。

(9回のターンオーバーを喫して、ベンガルズに34-10で負けて)
「家に帰ったら、うちの愛犬さえも、俺に吠えて噛みつこうとするんだ。」

     新人の頃、ミスの連発でバカと呼ばれた
     テリー・ブラッドショー ピッツバーグ・スティーラーズQB


「多くの人が私を『バカ』と呼びます。たしかに私はバカかもしれませんが、
決して『大バカ』ではありません。」

     新人の頃のテリー・ブラッドショー 


(映画「フォレスト・ガンプ 一期一会」が大ヒットして)
「その映画は、南部生まれの、少しオツムの弱い青年がスポーツを通じて、人生をケナゲに生きるストーリーだろう?
だったら、その映画のタイトルは『テリー・ブラッドショー物語』にするべきじゃないのか?」

     ラス・フランシス ニューイングランド・ペイトリオッツTE

 

おまけ

原稿を書き終えた後に、とんでもないニュースが飛び込んできました。
BIG TENリーグ優勝決定戦で、インディアナ大がオハイオ州立大に13-10で勝ちました。
両校ともに12勝0敗で並んでおり、オハイオ州立大が1位、インディアナ大が2位にランクされていて、リーグ優勝決定戦が1位vs2位の直接対決という大一番でした。緊迫の試合内容はYou Tube画像でご覧ください。
(15) No. 2 Indiana Hoosiers vs. No. 1 Ohio State Buckeyes Highlights | Big 10 Championship – YouTube


インディアナ大がオハイオ州立大に勝ったのは、1988年以来37年ぶり。インディアナ大は過去にBIG TENリーグで2回優勝していますが、今年を含めた優勝の経緯は

  1. 1945年、リーグ5勝0敗1分で単独優勝。ローズボウルは出場辞退
  2. 1967年、リーグ6勝1敗でミネソタ大・パデュー大と同率優勝。ローズボウルはUSCに負け
  3. 2025年、リーグ10勝0敗でBIG TEN単独優勝

ということで、リーグ優勝は58年ぶり3回目、単独優勝は80年ぶり2回目、リーグ全勝優勝は加盟126年の歴史で初めて、レギュラーシーズン13勝も初めてという記録づくめの勝利となりました。
「BIG TENリーグのお荷物」と言われ続けたインディアナ大の快挙にウルウルしているのは、私だけではないと思っております。
インディアナ大が「夢をあきらめずに努力を続ければ、いつか陽の光が差し込む時がやってくる」という言葉を証明してくれました。12校による大学選手権の組み合わせは今後発表になりますが、インディアナ大が第一シードになるのは間違いありません。

頑張れ、インディアナ大学!!

 


「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
https://footballquotes.fc2.net/
「今週の名言・迷言」を木曜日ごとに更新しています
左下の「三田会コラム」という黒い小さなバーをクリックして
いただくと、これまでのコラムのアーカイブがご覧いただけます