清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
今年、2021年1月1日のローズボウルは、コロナ禍のためカリフォルニア州パサデナで開催することが出来ず、テキサス州アーリントンに場所を移され、観客も18000人程度に制限されておこなわれました。(結果はアラバマ大31-14ノートルダム大)
この時、「ローズボウルがカリフォルニアで開催されなかったのは、107回の長い歴史の中で2回目」との記事を読みました。そこで、「それでは1回目はいつだったのか?」という疑問が湧き、調べてみることにしました。
初めての「カリフォルニア州外での開催」が1942年1月1日の試合だったと知り、鳥肌が立ちました。1回目の試合地変更は「太平洋戦争開始」が原因だったのです。1941年12月7日(日本時間では8日)に日本軍はハワイ・オアフ島の真珠湾(Pearl Harbor)に駐留する米国海軍に、奇襲とも言うべき攻撃を仕掛け、壊滅的な打撃を与えました。8艘あった米国大型戦艦のうち4艘が沈没し、残り4艘も大きな損傷を被りました。この戦闘で日本軍死者64名に対し、米軍死者は2334名という、圧倒的な日本の勝利でした。
ここから一気に太平洋戦争の火蓋が切られたのです。真珠湾攻撃は、正月元旦に予定されていたローズボウルのわずか25日前のことでした。
アメリカ政府はただちに、「米国西海岸地域における、大勢の人が集まるイベントを全て中止する事」との命令を出します。ローズボウルの主催者は緊急発令を受けて、途方に暮れたことと容易に想像できます。当時、既にローズボウルは観客9万人を集める大イベントになっていました。その年のローズボウルは、オレゴン州立大vsデューク大という組み合わせになることが決まっていました。結局、12月15日、主催者側はローズボウルの中止を発表したのですが、この決定をデューク大(キャンパスは米国東部のノースカロライナ州ダーハム)が不服として、なんと翌12月16日に「デューク大がオレゴン州立大を招待するので、ノースカロライナ州のデューク大スタジアムで、1月1日にローズボウルをやろう」と申し出ました。試合予定日の15日前のことでした。
実はこの年、デューク大は9戦全勝でレギュラーシーズンを乗り切っており、全米ランキング2位となっていました。これはデューク大の歴史でも最高の順位であり、「どうしてもローズボウルをやらないわけにはいかない」との思いがあったわけです。一方、オレゴン州立大は7勝2敗で12位でしたが、こちらも部史上初めてボウルゲームに招かれた年であり、「中止なんてとんでもない」という思いがあったものと想像します。
デューク大がローズボウル招待の声明を出したのが、12月16日ですが、オレゴン州立大は即座に「招待を受ける」と返答し、なんと、その3日後、12月19日には東部へ向かう急行列車にオレゴン州立大関係者一同が乗り込んでいます。二つの大学チームは、「誰の助けも要らない。自分達で試合を準備し、予定通りローズボウルをおこなう」と決断したのです。
オレゴン州立大(オレゴン州コーバリス)とデューク大の距離は4000キロ以上あり、(ちなみに東京―香港は直線距離で3000キロ弱)とてつもない長旅となりました。当時はまだ一般旅行客が飛行機に乗るという選択肢はなく、当然汽車での旅でした。何回か汽車を乗り継ぎ、途中シカゴでシカゴ大学のグラウンドを借り、ワシントンDCではワシントン・レッドスキンズのグラウンドを借りて、練習をおこないながら、5日後の12月24日にノースカロライナ州ダーハムに到着しました。
途方もない距離を旅してきたオレゴン州立大は大変でしたが、デューク大の関係者はもっと大変な思いをしています。当時のデューク大は35000名収容できる立派なフットボール専用スタジアムを持っていましたが、カリフォルニアのローズボウルでは毎年9万人程度を集めて試合をしていたため、席数が全く足りないと考えました。
デューク大の決断は、「20000人分の仮設スタンドを試合日までに作る」ことでした。近隣のノースカロライナ大学やノースカロライナ州立大に頼み込んで、それぞれのスタジアムの座席を一部取り外してもらい、それをデューク大スタジアムに持ち込んで、シートを増設するという離れ業をやり遂げました。
デューク大スタジアムでおこなわれたローズボウルの航空写真がありますので、掲載します。(出典:Rites of Autumn by Richard Whittingham)
わずかな準備期間(開催宣言から16日後の試合)ではありましたが、スタジアムは55000名収容まで増設され、超満員になっている様子がわかります。チケットは3日間で完売したとのこと。その日の気温は摂氏4度と低く、「濃い霧が立ち込めていた」との記録があります。
オレゴン州立大もデューク大も、ともに大変な苦労を重ねながら、1942年のローズボウルは予定通り元旦に行われたのです。インターネットどころか、コンピューターも携帯電話もない、FAXもない(電話回線を利用した今のFAX機器は1964年に実用化)時代に、どうやって準備・連絡・打ち合わせを進めたのかと、考えるだけで溜め息が出ます。この試合は、「地元デューク大が2TD以上の差をつけて勝つ」と予想されていましたが、大接戦の末20-16でオレゴン州立大が勝利しています。
107回開催されているローズボウルの歴史の中で、この時が最大のピンチでしたが、「なんとかして試合を行い、伝統を守りたい」という関係者の必死の努力により、試合が実現し、79年後の現在まで一度も途切れることなく続けられています。
これまでにも幾つかのコラムで紹介しましたが、米国人の「フットボールに対する情熱と、思い入れ」にはつくづく感動します。また、今回のエピソードに関しては、米国フットボール界の方達の「決断力と実行力」に心から敬意を表する次第です。
<清水利彦のアメフト名言・迷言集>
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