【清水利彦コラム】ハイズマン・トロフィーあれこれ 2021.06.11

清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

アメリカンフットボールを経験された方ならば、「ハイズマン賞」という言葉を知らない人はいないでしょう。全米大学最優秀選手に贈られるトロフィーのことですね。

「ハイズマン賞」のことは誰でも知っているが、では「ハイズマンって、どんな人?」と質問されたら、答えられる人は少ないのではないでしょうか。私もよく知らなかったので調べてみました。

フットボールの歴史に関する本をいくつか読んでみますと、次の3コーチの名前はどの本にも大抵出てきます。「近代フットボールの生みの親」と呼ぶべき人たちです。

☆ウォルター・キャンプ(1859-1925)        エール大、全米王座3回、79勝5敗3分

☆エイモス・アロンゾ・スタッグ(1862-1965)シカゴ大他、全米王座2回、314勝199敗35分

☆ポップ・ワーナー(1871-1954)               ピッツバーグ大他、全米王座2回、319勝106敗32分

※戦績は資料によってバラつきがあります

実は「エイモス・アロンゾ・スタッグ賞(コーチが対象)」や「ウォルター・キャンプ賞(選手対象、ハイズマン賞とダブル受賞になるケースが多い)」は、今も存在し毎年表彰されています。しかし、コーチとしては知名度の低いハイズマン賞の方が、ずっと注目度が高いですね。何故なのでしょうか?

ジョン・ハイズマンの略歴は下記の通りです。

50歳の時のジョン・ハイズマン。出典:Rites of Autumn by Richard Whittingham

※ハイズマンが、慶應高校アメリカンフットボール部元部長の尾崎先生に似ていると感じるのは、私だけでしょうか?

John William Heisman  1869年、ペンシルバニア大vsラトガース大で、史上初めて「アメリカ式フットボール試合」がおこなわれましたが、ちょうどその年、ドイツ系移民の子としてオハイオ州に生まれました。

子供の頃から学業に優れ、ブラウン大に入学しフットボール部で3年間プレーした後、法律家になるためペンシルバニア大に転校して更に2年間、176cm70kgの小柄なセンターとして活躍しました。この間にハイズマンはフットボールの魅力に取り付かれ、勉学を放棄してフットボールのコーチを目指します。彼の両親はそれを聞いてたいそう失望したとのこと。

1892年、23歳でフットボール・コーチとなったハイズマンは、二つの大学で教えたのち、1895年アラバマ・ポリテクニック専門学校から誘いを受けます。この専門学校がハイズマン就任後、オーバーン大学と校名変更され、のちに全米有数の強豪校となるのです。全く無名であったオーバーンで5年間教え、チームは圧倒的に強くなります。1900年からはクレムソン大に移り、ここでも弱小チームを強くしたため、ハイズマンは「南部フットボールにおける育成強化の達人」との異名をとるようになりました。

ハイズマンは「新戦法の発明者」としても知られています。QBが「hike!」とか「hep, hep!」というシグナルコールを出してプレーを開始するのは、彼が考案したものです。他にも「隠し玉プレー」等いろいろありますが、今は禁止されているものが多いです。

1917年ジョージア工科大練習風景 バックスがムカデ・リレーのように並ぶ隊形で、思わず笑ってしまいますが、当時は真剣にやっていました。3人の股ぐらの下を通るうちに、誰がボールを持っているかわからなくなる、というプレーです。出典:Wikipedia(English)

その他に、遠征試合の際に、「偽物チームを敵地に送り込み、ホテルにクレムソン大フットボール選手団としてチェックインさせる。偽物チームは夕方から翌朝までバカ騒ぎの酒盛りパーティーを続け、その様子を聞いた相手チームがすっかり油断したところへ、シラフの本物チームが登場して試合を行う」という、どう考えても倫理的に正しくない、かつ、やたら金と手間のかかる策略を用いたこともありました。笑

ハイズマン率いるクレムソン大に0-73で負けたことのあるジョージア工科大学は、なんとかしてハイズマンを自軍コーチに雇おうと画策しました。「年収2520ドル、プラス、ホームゲームの入場料収入の30%を報酬とする」という破格の条件を付けて、引き抜きに成功します。

1904年からジョージア工科大コーチとなったハイズマンは、16年間で102勝29敗7分(勝率.764)と勝ち続け、1917年には全米王座に輝いています。ハイズマンの名声は確固たるものになりました。

ハイズマンは結局、36年間で8つのチームのコーチを務め、186勝70敗18分、全米優勝1回、リーグ優勝7回という戦績を残しました。その後、全米フットボール・コーチ協会の会長を務める等、フットボール界の発展にも寄与しました。かつてはフォワードパスがルールで禁止されていたのですが、前パスを認めさせる改革にも貢献しています。

彼とハイズマン賞との関わりについては、次のように記述されています。

ニューヨークに「ダウンタウン・アスレチック・クラブ(DAC)」というスポーツ界や財界の重鎮が集まる社交クラブがありました。ハイズマンはDACの創設メンバーの一人であり、初代ディレクターを務めていました。DACが1935年に「毎年12月にカレッジフットボールの最優秀選手を表彰する」と発表し、シカゴ大のHBジェイ・バーワンガーが「第1回DACアワード」を受賞しました。

翌1936年も12月に表彰をおこなうことになっていた矢先、10月にジョン・ハイズマンが死亡します。クラブは緊急の会議を開き、「今年からDACアワードを、ハイズマン・メモリアル・トロフィー・アワードと改名する」と決定し、その年の第2回受賞者エール大エンド、ラリー・ケリーに初めてハイズマン・トロフィーと名付けられた像が渡されるようになったわけです。

つまり、ハイズマン賞の名称は、当時の社交クラブDACの配慮により決まっており、ジョン・ハイズマン本人は、自分の名前が末長く最優秀選手賞として残ることを知らずに亡くなったことになります。

ダウンタウン・アスレチック・クラブは輝かしい歴史を持つ組織です。1926年の設立とともに大いに発展し、70年以上にわたり、スポーツ花形イベントの中心でした。ユニコーンズ卒業生の中にもニューヨーク勤務をされた際に、DACビルを訪れた経験をお持ちの方がおられるのではないでしょうか。

ハイズマン授賞式の様子は毎年テレビ中継されています。

DACビルは、2001年9月11日の世界貿易センター・ビルのテロ爆破攻撃の場所のすぐ近くにあり、ビルの建物は残りましたが爆風等でビル機能を大きく損傷し、使用不能となりました。そのためDACは2002年に活動を停止し、その後はハイズマン・トロフィー・トラストという組織に賞の運営が委ねられています。

ハイズマン賞にまつわるエピソードを幾つかご紹介します。

1966年の受賞者フロリダ大QBスティーブ・スパリアは、授与されたハイズマン・トロフィーを「これは母校フロリダ大とその学生達のものです」と述べ、大学に寄付しました。フロリダ大の学生達はこの話を聞き、募金を集めてハイズマン・トロフィーのレプリカを作成し、スパリアに贈り返しました。この件以来、主催者はトロフィーを2体作成し、一つを本人、もう一つを母校に授与するよう定めています。

ハイズマン・トロフィーを他人に売却してしまった人も何人かいます。(制度上は売却不可ですが)

1968年の受賞者USCのRB、O.J.シンプソンはのちに殺人事件で起訴された際に、裁判費用に充てるためトロフィーを23万ドル(約2500万円)で売りました。その他にも2000万円から4000万円程度でトロフィーが取引された実績が数例あります。値打ちのあるものなんですね。

これまでの受賞者は計85名いますが、大半がQBとRBです。WRが3名、TEが2名受賞しています。守備選手で受賞したのは、1997年ミシガン大DBチャールズ・ウッドソン唯一人です。

出身校別受賞者を見ますと、ノートルダム大、オクラホマ大、オハイオ州立大の7名が最多です。USCの受賞者が多いようなイメージがありますが過去6名です。

アラバマ大は2009年のRBマーク・イングラムまで受賞者がいませんでした。(現在3名)ポール・ベア・ブライアント・コーチの全盛期には一人もハイズマン受賞者が出ていません。

ブライアント・コーチの「一人のスター選手を育てるのではなく、チームとして機能する11人を育てる」という方針が見事に反映されている、と受け止めております。 (続く)

 

(USCが有力高校選手を根こそぎ獲得してしまうことを嘆いて)

「USCは、『君がウチに来れば、ハイズマン賞が取れるよ』

と言って有力高校生を誘いますが、我々は

『君がウチに来れば、形の良いサボテンが見られるよ』くらいしか

言えることが無いんですよ。」

トニー・メイソン (アリゾナ大コーチ)

 

「私の家を訪れた全ての人が、『トロフィーはどこにあるんですか?』って

聞くんです。私は、それまでハイズマン・トロフィーが

こんなにも価値があるものだとは知りませんでした。」

1981年USCでハイズマン賞を受賞したマーカス・アレン

(オークランド・レイダースRB)

「清水利彦のアメフト名言・迷言集」

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