【清水利彦コラム】マイク・マクダニエル物語〔前編〕 〜三軍選手、雑用係からNFLのヘッドコーチに這い上がった男〜 2022.11.17

清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

先日、You Tubeで「NFL第2週 ドルフィンズvsレイブンズ ダイジェスト版」を観ました。アウェーのドルフィンズが14-35の劣勢から見事な逆転勝ちでレイブンズを倒した試合(最終スコア42-38)です。試合内容も面白かったですが、私が興味を持ったのは、ドルフィンズのサイドラインに立っている、眼鏡をかけた小柄で瘦身のヘッドコーチでした。どう見ても元フットボール選手という感じではなく、工学部の大学院生か、化学科研究室の助手という風貌なのです。

サイドラインに立つ、ドルフィンズ・ヘッドコーチ、マイク・マクダニエル

調べてみたところ、彼の名前はマイク・マクダニエル。1983年3月生まれの39歳。エール大学卒業後、いくつものNFLチームを渡り歩き、今シーズンからマイアミ・ドルフィンズのヘッドコーチに就任した新米です。今年11月14日現在でドルフィンズは7勝3敗と健闘しており、レイブンズ戦の大逆転の他に、強敵バッファロー・ビルズに21-19で勝つなど、今季のシンデレラ・チームとなる可能性があります。
ドルフィンズは最近20年間でプレイオフ出場がわずか2回しかありません。かつて名将ドン・シュラが26年間で16回プレイオフに導き、スーパーボウル出場5回、優勝2回というドルフィンズ黄金時代を築きましたが、このところは低迷が続いていました。そのチームを新米コーチである彼が変えつつあるのです。

マイク・マクダニエルに関する文献を読んでみたところ、彼がまるで、「草履取りから関白に這い上がった豊臣秀吉」のような、興味深い、激動の半生を歩んできたことがわかりましたのでご紹介します。
彼について書かれた資料が乏しいので、「おそらくこうだったのだろう」という記述も多少含まれている事を何卒ご容赦ください。

マイク・マクダニエル物語 

彼の生き方を要約しますと、「人との出会いを大切にし、出会った人達によって彼の人生が良い方へ、良い方へと大きく変わっていった」と言えるでしょう。「わらしべ長者」のような人生と言い換えることも出来るのではないでしょうか。

マイク・マクダニエルはコロラド州オーロラ市という田舎町で生まれました。両親は離婚しており、母親のドナに育てられました。自宅から自転車で20分ほどの場所で、毎年夏にNFLデンバー・ブロンコスがトレーニングキャンプを開催していたため、小さい頃からキャンプを訪れてフットボール選手からサインをもらうのが彼の楽しみでした。

マイク・マクダニエルの生まれ故郷、コロラド州オーロラのメインストリート。私も1982年にクルマで通ったことがあります。今では人口がかなり増えていますが、ま、典型的なアメリカの田舎町です。メインストリートの一番端に映画館を建てるのが米国田舎町の「お決まり」のようです。(出典:Wikipedia)

10歳の夏の事です。キャンプ地でサインをねだって走り回るうちに、彼は大切な帽子を紛失してしまいます。彼が泣いていたところ、救いの手を差し伸べてくれたのがブロンコスのビデオ編集担当者として働いていたゲーリー・マックーンでした。マックーンは彼に別の帽子を与え、キャンプの施設を案内してくれました。そして翌年からは母親のドナと彼を毎年キャンプに招待し、歓迎してくれるようになりました。いつしかドナとマックーンは親しくなり、二人は結婚しました。マイク・マクダニエルは図らずもブロンコス職員として働いている父親を持つ事になったのです。おかげでブロンコスの練習グラウンドが空いている時は、タッチフットボールなどをして遊べるようになりました。

一緒に遊んでいた仲間の一人がチャンドラー・ヘンリー。のちにマイク・マクダニエルと共にエール大学に入学しチームメイトとなり、エースWRで主将となります。
もう一人の仲間がクリント・クービアック。クリントの父親は元NFLのQBで、当時ブロンコスのオフェンスコーディネーターをしていたゲーリー・クービアックでした。息子クリントを介して、彼はNFLの現職オフェンスコーディネーターとも知り合いになれたのです。ゲーリー・クービアックは、のちに彼の人生に大きな影響を与えることになります。

ブロンコスでのコーチ経験ののちにヒューストン・テキサンズでヘッドコーチとなるゲーリー・クービアック(出典:Wikipedia)

ゲーリー・クービアック ブロンコスでジョン・エルウェーの控えQBとして長年在籍。選手としてはあまり活躍できなかったが、フットボール知識に関する精通度を高く評価され、選手引退後アシスタントコーチ、そしてオフェンスコーディネーターとなる。2002年に創設されたヒューストン・テキサンズの二代目ヘッドコーチに就任。初代コーチ、ドム・ケイパーは18勝46敗と勝てなかったが、クービアックは8年間で61勝64敗(プレイオフ出場2回)と健闘する。

このような偶然が生んだ縁もあり、マイク・マクダニエルは「デンバー・ブロンコスのボールボーイ(雑用係)」という夢のようなアルバイトさえも手にすることが出来ました。ブロンコスのホームゲームの日には、いつもスタジアムの更衣室や用具室で、こま鼠のように俊敏に動き回る彼の姿が見られました。

高校生になったマイク・マクダニエルは、コロラド州の地元スモーキー・ヒル高校でフットボール部に入部しましたが、175cm68kgしかなく特に足が速かったわけでもない彼に、ほとんど活躍のチャンスはありませんでした。
勉学成績が優秀であった彼は、アイビーリーグの名門エール大学歴史学部に合格します。高校で一軍選手になれなかったにもかかわらず、彼はエール大学フットボール部への入部を希望しました。

秀才ぞろいのエール大学でも、フットボール部のリクルーティング活動をしていないわけではありません。各地の高校で「優秀なフットボール選手であり、なおかつ学業成績の優秀な者」を探し出し、「ウチの大学でフットボールをやらないか」と誘います。つまり大学合格が決まった時点で即入部することも決まっている部員ばかりでした。部から声を掛けていない学生が入部し、選手になるケースは非常に少なかったのです。

エール大学のヘッドコーチ、ジャック・シードレッキは次のように述べています。
「毎年7~10名程度の学生が部室のドアを叩き、『入部させてください』と言ってくる。(※これをWalk Onと言います)私はWalk Onにも必ずチャンスを与え、練習に参加させる。しかしほとんどの学生は、一度か二度練習を経験した後すぐに辞めてしまう。厳しい練習が自分にはとても耐えられないと知るからだ。だからマイク・マクダニエルを見て、彼の体格で部に残れるとは思わず、すぐに辞めるだろうと考えていた。だが彼は最後まで辞めずに残ったんだ。」

部を辞めないどころか、彼は部内で最も努力する選手として知られるようになりました。プレーのビデオを誰よりも長い時間見続け、ウエイトトレーニングの虫となって身体づくりに励みました。体重を68kgから82kgに増やし、「懸垂連続39回達成」という当時の部員の中では最多の記録も作りました。

エール大学部員、20歳のマイク・マクダニエル(出典:Wikipedia)

それでも彼が試合で活躍することはありませんでした。エール大学のスタッツ記録簿には彼の記録がどこにも掲載されていません。WRとして、タッチダウンどころか、公式戦で一度のパスレシーブもしていなかったと思われます。彼は交代要員の二軍にもなれない、三軍選手でした。それでも彼は部を辞めませんでした。同期入部した者は全部で35名いましたが、卒業まで残った部員は17名で、彼はそのうちの一人でした。

彼は試合での活躍とは異なる方法で、エール大学フットボール部に貢献しようとしました。高校時代からの親友で、共にエール大学に入部し、主将となったWRチャンドラー・ヘンリーは次のように語っています。
「マイク・マクダニエルと私は学生寮のルームメイトでもあった。寮の部屋で彼は私に、プレーについてのアドバイスを与えるようになった。『こういう場面ではこういう風にプレーしろ』、『今のやり方ではなく、こういうやり方でプレーしてみろ』等といろいろ言ってくるのだ。三軍WRである彼が、エースWRの私に指導をするのは奇妙な光景だったかもしれない。しかし彼の言う通りにプレーすると私自身が上手くなっていると実感できた。今思えば、彼は人生初のコーチングを私に対してやってくれていたのだ。」

マイク・マクダニエルはあらゆることに精一杯の努力を惜しまない若者でした。
エール大学でフットボール部員となってからも、毎年夏休みにはコロラドの故郷に戻り、彼はブロンコスのトレーニングキャンプで雑用係のアルバイトを続けていました。
部の練習で全力を尽くす一方、大学の授業にも目一杯出席しました。大量の本を読み、まるで積み上げた本の中で暮らしているような有様で、彼のベッドと机の一角は「Fort(砦)」と言われていました。
当時の彼は、自分が将来フットボールコーチに成れるなどとは夢にも思っておらず、「とにかく多くの授業に出て、幅広い知識と学問を身に着けよう。そのことがきっと自分の未来の糧になるだろう」と考えていたのです。

彼の学業成績ならば、どんな会社に就職することも出来たでしょう。しかし彼は希望就職先をたった一つに絞り込んでいました。その希望就職先とはNFLでした。歴史学部に居た彼は、卒業論文のテーマを「1960~70年代にかけての、NFLの合併・統合の歴史」としています。
卒業前、彼はNFLの32チーム全てに手紙を書き、自分の経歴について述べると共に、「どんな仕事でも喜んでやりますので、私に働くチャンスを与えて下さい」と書き加えています。
32通出した手紙に対して返事が来ることを、彼は神に祈るような気持ちで待ち続けました。

(次号、後編に続く)


<追記>
慶應高校の関東大会決勝進出おめでとうございます!!
関西学生リーグでは、11月13日、関学が接戦の末、関大を17-10で破りました。

昨年までは「関西学生リーグの1位・2位校が西日本選手権に出場する」という制度でしたので、毎年のように「関学と立命館がリーグ戦と西日本選手権で2回対戦する」ことになり、いささかリーグ戦の価値が削がれた感じがありました。

しかし、今年から「関西学生リーグの1位校のみが西日本選手権に進出」と改められたため、「一発真剣勝負」となり、そこに関大が立命を倒して3強の争いに加わったため、リーグ戦が大層盛り上がっています。11月27日に関学が立命に勝てば、すんなり1位校が決まりますが、立命が勝つと、関学・関大・立命の三つ巴となります。

その場合、関西学生リーグでは得失点差による順位設定がないそうで、「3校の抽選により西日本選手権出場校を決める」と伺っています。賛否両論あるでしょうが、私は抽選も一理ありと受け止めています。(抽選ならば、早稲田・慶應・法政が三つ巴となった2016年も、慶應が甲子園ボウルに出場できた可能性がありました)

11月27日は、慶應vs桜美林と、関学vs立命が重なってしまいトホホですが、私はもちろん、アミノバイタルフィールドへユニコーンズの応援に駆け付けます!!


「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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