ノートルダム大学に関するトピックスの中で、ジャンルにまとめにくい話題を3つ取り上げ、「雑感3題」としてお届けします。
第1話 SMUとの「宗教代理戦争」
ノートルダムが全米の大学の中で、「カトリック教の総本山」のような地位にあることは既にお伝えしました。一方、アメリカ南部のテキサス州ダラスにSMU(Southern Methodist University, サザンメソジスト大)という大学があることをご存じの方も多いと思います。
こちらはその名の通り、プロテスタント教会メソジスト派の敬虔な信者たちによって作られた大学です。学生数12400人と小規模な私立大学であること、学力レベルの高い学校であること(ウォールストリート・ジャーナル紙の全米大学学力ランキングでSMUは昨年度84位)、富裕層の子女が多いこと等々、ノートルダムとSMUには類似点が多いのですが、なにせ肝心な宗教の部分がカトリックとプロテスタントで根本的に異なるため、両校はライバル同士というより、むしろ「敵対関係」にあると言ってもよいでしょう。「五大湖周辺の名門私立校」vs「南部の名門私立校」という、地域同士の名誉を賭けた戦いでもあります。
この両校が実は、フットボールにおいてしのぎを削って激突を繰り返していた時期があるのです。
1947~59年、SMUは毎年のようにランキング上位に名前があがり、全米王座を狙っていました。そしてノートルダムとSMUは1949~58年の10年間に8回も対戦しています。両校は直線距離で1400kmも離れているため、準定期戦のようなスケジュールを組むのは大変負担が大きかったでしょうが、世間の注目を集め、常に大観衆の中で試合をおこないました。(しかもノートルダム大はUSCとも定期戦を組んでいるのです)
結果はノートルダムの6勝2敗でしたが、大接戦・名勝負が多く、まるでこの試合の勝者が「宗教的にどちらが正しいかを決める、宗教代理戦争」であるかのように、血みどろの激突が繰り返されました。
SMUは残念ながら一度も全米王座に着くことはなく、その後一時低迷しましたが、1980年頃から劇的な復活を遂げます。1981~84年の4年間で41勝5敗1分と圧倒的な戦績を残し、ついに全米2位まで昇りつめてきました。1981、82年のSMUのエースRBは、のちにロサンゼルス・ラムズ等で活躍するエリック・ディッカーソン。(ラケットボール用のゴーグルをはめてプレーすることで有名)
エリック・ディッカーソンのプレーぶりは下記のYou Tube画像をご覧ください。(4分)
#52: Eric Dickerson | The Top 100: NFL’s Greatest Players (2010) | NFL Films – YouTube
SMUとしては、この上昇機運に乗ってどうしても全米チャンピオンになりたかったのでしょうが、その思いが強すぎて、やってはいけないことに手を染めてしまいます。
リクルーティングの際に、有力高校選手やその家族に対し、こっそり現金を渡すという行為が繰り返しおこなわれ、大量の不正件数が発覚することになりました。最初は1回20ドル程度渡していましたが、次第にエスカレートして500ドルくらいまで膨らみました。高校選手達はSMUのリクルート担当者を「サンタクロース」と呼んでいた、という笑えない実話が残されています。宗教信仰を尊ぶ大学とはとても思えない、許されざる行為でした。
NCAAはこれを知って、「Death Penalty(死刑宣告)」とも称された厳しい制裁を与えます。2年間(1987,88年)の試合出場停止処分、長期にわたるボウルゲーム出場禁止、フットボール奨学金の削減など様々な罰則を課しました。これが有名な「SMUフットボール・スキャンダル」です。
事件以来、SMUの戦力はガタガタに低下しました。出場停止処分が明けた後、3年連続でSWCリーグ戦全敗を喫しています。現在ではパワー5カンファレンスに入ることさえ出来なくなり、American Athletic Conferenceという、いささかマイナーなリーグ(シンシナチ大、チュレーン大、ヒューストン大など)に所属しています。
かつての名門SMUの凋落を見るのは悲しいことでしたが、最近復活の兆しがあります。2019年に10勝3敗の戦績を残しましたが、年間10勝したのは35年ぶりのことでした。最近4年間、勝ち越しを続けており、かつてノートルダムとしのぎを削っていた伝統校の、再度の復活が成るかどうか注目しています。
第2話 フットボール映画「ルディー」について
皆さんは「RUDY」という題名の、ノートルダム大フットボール部について描かれた映画をご存じでしょうか?1993年、今からちょうど30年前に公開された映画ですので、ご存じであれば、貴方は相当なフットボール通か、あるいは相当なオジサン・オバサンです。
ノートルダム大学がキャンパス内において、映画撮影をすることを認めたのは、最初が1940年に伝説のコーチ、ヌート・ロックニについて描いた「オール・アメリカン」で、その次が1993年の「ルディー」であるとのことです。
RUDYとは、ダニエル・ルティガー(通称ルディー)という、実在したノートルダム大フットボール部員の名前です。1948年にイリノイ州で生まれ、家族全員ノートルダム・フットボールの大ファンという環境で育ちました。家は貧しかったので、高校卒業後、製鉄工場で働いていました。
ルディーの一番の親友ピートは運動能力に優れ、ノートルダムでプレーすることを夢としていましたが、アルバイトで働いていた工場での爆発事故に巻き込まれ死亡してしまいます。ルディーはピートの意志を受け継いで、自分がノートルダム部員となる決心をします。
しかしルディーには学習障害(読書障害)というハンデがあり、彼の学業成績はノートルダムに入学するには程遠いものでした。おまけにルディーは身長168cm、体重75kgで運動能力が極端に劣っており、強豪校ノートルダムでプレーできるレベルではありません。
「勉強ができない」「授業料を払う金がない」「運動能力に劣る」という三重苦の状態から、一体彼がどうやってノートルダム大学に合格し、フットボール部の一員になれたのか、というのが、映画前半の焦点です。
1974年、いろいろ回り道をしたため、26歳という遅い入学でしたが、彼は見事、ファイティング・アイリッシュ(ノートルダムのチーム名)に入部を果たします。しかし、その時から彼の新しい試練が始まりました。ルディーの運動能力は他の部員と比べてひどく劣っていたため、どんなに頑張っても、選手としては全く使い物になりませんでした。試合の時にも、出場オンスーツ選手数に制限があるため、ユニフォームを与えてもらうことが出来ず、ベンチにさえ入れないまま、時間が過ぎてゆきました。
それでもルディーはあきらめることなく、必死の練習を続けます。はじめはルディーの事をバカにしていたチームメイト達も次第に彼を応援するようになっていきました。
時間はどんどん過ぎてゆき、最終学年の地元サウスベンドでおこなわれるシーズン最終戦(対ジョージア工科大)が近づいてきました。まだルディーは一度もオンスーツでベンチに座ったことがありません。
このままルディーが、何も出来ずに卒業することになるのかと、皆が思い始めた時、「チームに一体何が起こったか」を描く、奇跡と感動の実話物語です。
上の写真は1975年11月8日、サウスベンド最終戦での対ジョージア工科大 (ND24-3GT)
試合終了直後、チームメイト達に肩を担がれてスタジアムを凱旋するルディーの姿です。他の選手たちはユニフォームの背面に選手名が入っていますが、ルディー(#45)だけが急ごしらえのユニフォームだったため選手名が入っていないことにご注目ください。
この映画は、ESPNによる「20世紀最高のスポーツ映画25本」の内の一作として選ばれた秀作です。
まだ観ていない方、機会があれば是非ご覧ください。
さて、ここから
第3話 ユニコーンズ部歌「マーチ・オン・慶應」と、ノートルダム大学ファイトソングの関係
に進む予定だったのですが、いろいろ資料を探しているうちに、書きたいことが山ほど出てきました。調査に時間がかかりますので、第3話は次号に繰り延べさせていただきます。
どうぞお楽しみに。
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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