【清水利彦コラム】オクラホマ州の歴史 2024.05.02

 清水利彦(S52卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

永遠のライバル・シリーズ「テキサス大vsオクラホマ大」のコラムを書くにあたり、様々な文献を調べている中で、私が最も衝撃を受けたのが今回の「オクラホマ州の歴史」に関する史実でした。白人から迫害を受けて、先住民達が流したたくさんの血と涙、そして、奪われた土地。白人の都合により大きく揺れ動いた彼らの境遇。今まで私はこれらの事実をほとんど知らなかったことを恥じています。

皆さんご存じの通り、NFLワシントン・レッドスキンズは現在コマンダーズと改名しており、大リーグ野球のクリーブランド・インディアンズも今はガーディアンズと名乗っています。いずれもレッドスキンやインディアンという言葉が人種差別に当たるとの判断によるものです。

しかし今回私は、先住民達に敬意を表し、失われた彼らの御魂に思いをはせながら、あえて当時の呼称である「インディアン」という言葉をそのまま文中に用いています。何卒ご了承ください。

<オクラホマ州の歴史>
アメリカ合衆国は1776年に、最初に成立した13州によって独立宣言をおこなっています。ところがオクラホマ州が46番目の米国の州として加盟が認められたのは1907年、独立宣言から131年も後のことです。(テキサス州は1845年加盟、カリフォルニア州は1850年加盟と、ずっと早い)オクラホマ州より新しい州は、ニューメキシコ州・アリゾナ州・アラスカ州・ハワイ州の4つしかありません。
オクラホマ州の歴史を知るには、まず「なぜ加盟がそんなに遅かったのか」を知らねばなりません。

1500年頃から欧州人が次々にアメリカ東海岸に上陸し、北米を植民地化していきました。哀れなのは昔から(氷河期からと言われます)北米に部族ごとに点々と分かれて住んでいた先住民(インディアン=ネイティブアメリカン)でした。武力に劣る先住民達は白人に追いやられ、あるいは奴隷にされました。白人達はミシシッピ川の東側に散らばって定住していたインディアンの各部族を邪魔者と考え、「まとめてどこかに住まわせればよい」という作戦を打ち立てました。

1880年代、オクラホマが州として認められる前の地図。チェロキー、チョクトー、セミノール等の文字は、インディアンの各部族を示す。 出典:Wikipedia

その頃、オクラホマ一帯は「誰もいない土地(No Man’s Land)」と呼ばれ、ただただ無人の荒野が広がっていました。アメリカ政府はこの地を「インディアン準州(Indian Territory)」と定め、各部族をこの地にまとめて押し込めばよいと思いついたのです。移住するかどうかは各部族の意志による、というのが建前でしたが実際には強制的に移されていきました。

1835年、ジョージア州北部に住んでいた15000人のチェロキー族は、鉄道もクルマもない時代に、1500kmにも及ぶ道のりをオクラホマまで強制移動させられました。途中5000人ほどが衰弱死あるいは病死しました。彼らが通った道は「涙の道(Trail of Tears)」と名付けられ、今も当時の悲劇が語り伝えられています。

1866年、オクラホマの名付け親、チョクトー族酋長アレン・ライト 出典:Wikipedia

当初はまだオクラホマという地名は存在しませんでしたが、チョクトー族の酋長アレン・ライトがこの地をOkla(人々)Humma(赤い)と名付けました。赤い人々=インディアンであり、Oklahomaがインディアンの土地であることを明確にしようという意図でした。
インディアン準州に各部族を押し込めたアメリカ政府は、彼らに食料と酒を無料配布しました。一見、親切そうに見える行為ですが、実はインディアン達の勤労意欲を削ぎ、堕落させ、無力化させるという遠大なる作戦だったのです。インディアンはこうして戦う力を失い、勢力を減らしていきました。
つまり、オクラホマとは元々インディアン達を封じ込めるためにあてがわれた土地であり、その地を米国の州と認める考えなど白人達にはさらさら無かったのです。

オクラホマでおこなわれたランドラッシュ。馬や馬車に乗って先に到着した者がその土地の所有者になる、というルールでした。 出典:Wikipedia

その後、アメリカは西海岸に至るまで開拓し尽くされ、最後に残った「白人にとって手つかずの土地」であるオクラホマにも徐々に白人投資家や農民らによる入植圧力が高まってきました。1890年代にかけて各部族の多くが住んでいた土地は、政府によって入植者に公式に開放(実質はインディアンからの略奪)されて、白人入植者による大規模なランドラッシュが起こりました。
ランドラッシュとは、「土地が欲しい者(白人)は〇月〇日に入植料15ドル払ってオクラホマの州境に集合せよ。12時、合図の号砲とともに一斉に馬で走り、杭打ちなどをして自分の土地を65ヘクタール分確保せよ。早い者勝ちで占有した土地(元はインディアンに与えられた土地)の権利を認める。」という無茶苦茶なルールでした。これに抵抗する力はインディアン諸部族にはもう残っておらず、広大な土地を奪われ、インディアン達は限られた地域に身を寄せ合って暮らすことになりました。
現在でも、オクラホマ州にはインディアン居留地と呼ばれる狭い土地が点々と残っており、州人口の9%はインディアンの子孫です。

ランドラッシュにおいては、ルールを定めているにもかかわらず、定刻前に飛び出して土地を占拠する「スーナー」(Sooner)と呼ばれる、ずるい抜け駆け入植者が後を絶ちませんでした。オクラホマ大学フットボール部のニックネームはSoonersですが、この時の「抜け駆け・早駆け人」を意味します。元々は決して良い意味の言葉ではないはずですが、すっかりチームの愛称として定着しています。

オクラホマ大学、試合前のセレモニー 抜け駆けして土地を奪いに行くSoonerの馬車をマスコットとしています。 出典:Wikipedia

写真挿入 オクラホマ大学、試合前のセレモニー 抜け駆けして土地を奪いに行くSoonerの馬車をマスコットとしています。 出典:Wikipedia

こうして「白人の土地」となったオクラホマは、1907年に合衆国の新しい州と認められました。その前に、わずか10年間ほどではありますが、テキサス共和国の一部であったこともあります。
オクラホマ州は、砂嵐・竜巻・雷鳴などが頻繁に起こることで知られ、決して穏やかな気候とは言えません。1930年代には干ばつと砂嵐によって農作物が壊滅し、農民たちが貧困にあえいだ時代もあります。その時、多数の農民がオクラホマ州を逃げ出し、カリフォルニアに移りましたが、そこには更なる悲劇が待ち受けていました。この時代にはオクラホマから逃げてきた白人達が「Okie(オーキー)」という蔑称で呼ばれることになります。オーキー達の地獄のような日常を描いた小説が、ジョン・スタインベックの名作「怒りの葡萄」(The Grapes of Wrath)です。

1930年代、干ばつと砂嵐により州内の農民は貧困にあえぎました。出典:Wikipedia

その後、州内に油田が発見され、経済的にも発展を遂げました。州の面積は日本の約半分くらいある広大なものですが、今でもオクラホマ州の人口はわずか4百万人です。オクラホマ大学の学生数が33000人ですから、卒業生や教職員を合わせれば「州内で石を投げれば、オクラホマ大学関係者に当たる」ような状態なのでしょうね。
オクラホマ大vsテキサス大対校戦の結果に、州全体が大騒ぎするのも当然です。

次号では、オクラホマ大学の歴史・同校フットボール部の歴史をご紹介いたします。

※この原稿を書き上げた後に知った情報をお届けします。
白人達は最初、インディアンを捕らえて、黒人と同様に、奴隷として労働させようとしました。ところが、なかなかうまくいきませんでした。アフリカ出身の黒人を奴隷にしムチで打てば、嫌々ながらも従い働きました。しかしインディアンを捕らえても、「労働を強いられても断固拒否する。奴隷として生き永らえるくらいならば、自ら死を選ぶ」ので、奴隷として使用・売買するには適さなかったのです。奴隷として扱いにくいので、「一か所にまとめて住まわせる」という発想が出たのでしょう。
「自らの命よりも、わが部族の名誉や誇りを尊ぶ」というインディアンの基本的な考え方が、彼らの立場、そして将来の命運を大きく変えていったことになります。

現在、米国に生存しているインディアンの子孫には、「自分の身体の中にインディアンの血が流れていることを誇りに思っている」人が大勢居ると聞きますが、このような歴史的背景が大きく影響しているのだろうと推察しています。

 

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