【清水利彦コラム】永遠のライバル・シリーズ 「パッカーズvsベアーズ」その2ジョージ・ハラス物語

2024/6/13
昭和52年(1977年)卒 清水利彦
shimizu.toshihiko2@gmail.com

斜陽のベアーズ??

最初から過激な見出しで、ベアーズ・ファンの方々には失礼いたします。

NFLにDivision制度が初めて出来たのが1933年です。10チームを東西5チームずつに分けて、同じ地区同士はホーム&アウェイで2試合ずつおこない、東西の首位チームがNFL選手権を争うという、現在の方式に近い制度が始まりました。

この時にベアーズとパッカーズは同じ西地区になり、1970年からはNFCセントラル地区、2002年からはNFC北地区と区分は変わりましたが、両チームは常に同じディビジョンに所属し、毎年2回の激突を繰り返しています。

両者の対戦成績はパッカーズの107勝95敗6分(勝率.530)です。実は2018年度まではパッカーズの97勝95敗6分と全く互角の戦績が残っているのですが、2019年から昨2023年までの5年間、パッカーズが10連勝しており、差が開いてしまいました。

2002年にNFC北地区(ライオンズ、バイキングスを含めた4チーム)となって以来、22シーズンが経過しましたが、地区優勝はパッカーズ12回に対してベアーズ4回と、こちらも差がついています。

球団創設以来の通算戦績でも、

勝利数1位 パッカーズ 799勝598敗38分 勝率.572
勝利数2位 ベアーズ​793勝634敗42分 勝率.556と、パッカーズが上回っています。
(ちなみに勝利数3位はNYジャイアンツの721勝)

特に直近10年間(2014~23年度)だけで比較しますと、

パッカーズ​101勝61敗1分 勝率.623
ベアーズ​63勝100敗   勝率.387と、ベアーズの凋落ぶりが目立っています。

通算勝利数も通算勝率も、この10年間のうちにベアーズがパッカーズに抜かれてしまったわけです。

「かつては非常に拮抗していた両軍の戦力が、ベアーズの近年不調によって差が開き、伝統ある対抗戦が少し色褪せてしまっている」というのが現在の実態ではないでしょうか。

頑張れ、ベアーズ!!

写真挿入 ベアーズのユニフォームに刺繍されているGSHの文字 出典:Football’s Greatest, Sports Illustrated

ジョージ・ハラス物語、そして、ベアーズ誕生の歴史

皆さんはベアーズのユニフォームの袖に、「GSH」という3文字が縫い付けられていることに気が付いていますか?これは、シカゴ・ベアーズの生みの親であり、NFLに今日の繁栄を与えた重要人物であるジョージ・ハラス氏(George Stanley Halas)のイニシャルです。

ジョージ・ハラスは1895年イリノイ州シカゴ生まれ。両親はチェコとハンガリーからの移民であり、父親は洋服の縫製職人をしていました。高校卒業後、地元の名門校イリノイ大学に入学し、運動神経に優れたハラスは、フットボール部、バスケットボール部、野球部の3つで活躍しました。

20歳の時、ハラスは当時の大型客船「S・S・イーストランド号」の船内で臨時雇いの仕事を得ました。ある日、フットボールの練習に入れ込み過ぎて、彼は船内でのアルバイトを休んでしまいます。なんと、その日S・S・イーストランド号が転覆・沈没し、844名が死亡する大惨事となりました。もし、この日ハラスがアルバイトで船内に居たら、プロフットボールの歴史は大きく変わっていたでしょう。

写真挿入 沈没し844人が死んだS・S・イーストランド号 出典:Wikipedia

 

イリノイ大学では、伝説の名コーチと知られるボブ・ザプキの指導を得たことが、ハラスのフットボール理論に大きな影響を与えました。ハラスはエンドとして活躍し、4年生の時イリノイ大学がBIG TENリーグ優勝に輝いています。

当時は第一次世界大戦に連合軍が勝利するわずか前のことであり、ジョージ・ハラスは卒業後、海軍に志願し、グレートレイクス海軍訓練学校に入学します。この学校は当時のフットボール強豪校でもあったため、1919年1月のローズボウル(第5回大会)に招待されます。対戦相手はメア・アイランド海兵隊訓練学校でした。ローズボウルが軍人訓練学校同士の対戦になったのは、国民の士気を鼓舞するための政治的配慮があったのではないかと想像します。

思わぬ成り行きからローズボウルに出場できることになったジョージ・ハラスは、この試合で大活躍しMVPを受賞しました。客船沈没事故から逃れたことと合わせ、ハラスには「強運の持ち主」と感じられる部分が多々あります。

「ローズボウルMVP受賞者」という名誉ある肩書を得たハラスは、次に大リーグ野球ニューヨーク・ヤンキースから入団を誘われ承諾します。1919年彼はヤンキースの一軍外野手として出場しましたが、怪我のためシーズン途中で退団しています。

後年ジョージ・ハラスは、「私が退団したので、代わりに一軍に上がってきた外野手がベーブ・ルースだった」と語ったそうですが、これについては多くの人が「疑わしい」と感じています。笑

写真挿入 1919年、NYヤンキースの選手だったジョージ・ハラス 出典:Wikipedia

野球選手として成功できなかったハラスは、故郷に帰り、ハモンド・プロスというセミプロ・フットボールチームに参加しました。

当時のフットボール界は、アイビーリーグなど基本的には「上流社会のエリート学生だけが競技できるスポーツ」でした。カレッジフットボールは既に大人気を博していましたが、まだプロフットボールは存在せず、各地に「ぶつかり合いが大好きな若者たちが集まる、荒くれ者集団」のクラブチームが点々と設立されていった時代です。クラブチームの中には大学卒の選手など、まだ一人も居ませんでした。荒くれ者たちの中には「観客から観戦料をとって、自分たちの飲み代の足しにしたい」と考える者もいましたが、まだフットボールで生計を立てられるような状態ではなく、「1試合当たり〇〇ドル」の報酬をもらってプレーするのが精いっぱいでした。

そんな中、名門イリノイ大学の卒業生で、ローズボウルMVP受賞者、ヤンキース入団経験もあるジョージ・ハラスは、極めて特異なスター的存在であったろうと想像できます。ハラスは1試合75ドルの報酬でプレーしたそうですが、これは当時のレベルとしては破格の高額だったと思われます。

翌1920年、APFA(American Pro Football Association)というプロフットボール組織が発足されると聞いたジョージ・ハラスは、デケイター(現在の人口7万人)というイリノイ州の小都市にある食材製造会社A・E・ステイリー株式会社に自らを売り込みに行きました。この企業は会社が出資・運営しているアマチュアのフットボールチームを既に持っており、このチームをプロ化し、APFAに参加してはどうかという企画をハラスが持ち込んだのです。

ジョージ・ハラスは、オーナーのステイリー社長に、「自分が選手兼ヘッドコーチ兼営業部長(集客にも責任を持つ)として働くので、APFAに参加する資金を出資してほしい」と熱く語りました。

ハラスの熱意にほだされたステイリー社長は、ジョージ・ハラスに全てを任せる決心をします。こうしてプロフットボール創設と同時に、「デケイター・ステイリーズ」というチームが発足し、APFAに参加することになりました。この時ハラスは25歳でした。

写真挿入 1920年デケイター・ステイリーズ発足時の記念写真 前列中央がジョージ・ハラス 出典:Wikipedia

ステイリーズは初年度10勝1敗2分という好成績でしたが、14チーム中惜しくも2位でした。

ジョージ・ハラスの懸命の努力にもかかわらず、チーム運営としては初年度赤字でした。「チームを強くすることは出来ても、金を払って試合を観てくれる客が田舎の小都市には少なすぎる」ことをハラスは痛感し、今度はステイリー社長に「チームを(デケイターから250km離れた)シカゴに移転させてほしい」と頼み込みます。社長からすれば「当初と話が違う」と驚いたことでしょう。

協議の結果、初年度のチームはA・E・ステイリー株式会社が所有していましたが、二年目からは「チームはハラスを主体として独立し、会社はメインスポンサーとして残る」という形態に変わりました。今後はチームに大赤字が発生した場合、新オーナーであるジョージ・ハラスが全てを被ることになります。ハラスはリスクを自ら背負う体制を作り、自分の退路を断って、ベアーズの運営に乗り出しました。ステイリー社長は、シカゴへの移転費用として(当時としては大金の)5000ドルをハラスに与えていますので、本当に心の広い良い人だったのだろうと推察します。

こうしてシカゴ・ステイリーズと改名・移転し、1921年、21チームに増えたAPFAにおいて9勝1敗1分で初優勝を遂げます。この年、グリーンベイ・パッカーズもAPFAに初めて参加し3勝2敗1分でした。まだ各チームの運営は極めて原始的であったため、チームごとの試合数はバラバラで、「2試合だけやって負けたので、そのまま脱退した」ようなチームも幾つかありました。まだ選手権試合はおこなわれておらず、「年間勝率1位のチームをチャンピオンとする」制度でした。

翌1922年、APFAはNFL(National Football League)と名前を改め、18チームに縮小して再スタートを切ります。二年目の優勝で自信を持ったジョージ・ハラスは、「オーナー 兼 集客責任者(GM?) 兼 ヘッドコーチ 兼 主将 兼 スター選手」として精力的に活動を続けます。ハラスの若さ・情熱・努力がベアーズを一流チームに押し上げたと言えます。A・E・ステイリー株式会社への依存度を下げ、チーム名をシカゴ・ベアーズと改めました。

シカゴの大リーグ野球チームがカブス(小熊)を名乗っていたため、ハラスが「野球選手が小熊なら、フットボール選手は大熊だ!!」と叫んでベアーズに決めたという逸話が残されています。

3年目は9勝3敗で2位。優勝はカントン・ブルドッグスでした。

NFLが創設された初年度にカントン・ブルドッグスが優勝したため、「カントンはNFL発祥の地」と名乗り、後年プロフットボール殿堂がカントンに設立されました。このいきさつは

【清水利彦コラム】連載企画「フットボールの歴史を彩る一枚の写真」第4回:プロフットボール、最古の写真〜NFL初代王者 カントン・ブルドックス〜 2022.11.10 | アメリカンフットボール三田会 (keio-unicorns.com)

のコラムで詳しく述べています。

ただし、NFLの前身であるAPFAも含めて考えるならば、1920年APFA初年度優勝のアクロン・プロス(Akron Pros)がプロフットボール発祥と言えるでしょうし、初年度2位で現在も存続するシカゴ・ベアーズが「我こそがプロフットボールの起源」と名乗っても、誰も反対できないと思っています。そしてベアーズは、ジョージ・ハラスという一人の若者の情熱と献身によって創られたのです。

ジョージ・ハラス物語は次号に続きます。

「多くの人達が、もがき苦しみながら人生を送るのは
彼らが人生における自分の目的をはっきりさせていないからだ。
何かを成し遂げようと思うならば、その前にまず
​『何を成し遂げるか』をはっきりさせることだ。」
​​ジョージ・S・ハラス

※原稿完了後に入手した情報を追記します。

①1920年にAPFAを設立するために、加盟希望者達による初めての会議がおこなわれた場所が、オハイオ州カントンだそうで、カントンが「プロフットボール発祥の地」と名乗る理由がここにもあるようです。

②ジョージ・ハラスがチームをデケイターからシカゴに移転させる際、ハラスはすぐに大リーグ野球シカゴ・カブスのオーナー、ウイリアム・リグレー氏(リグレー・チューインガム創始者)と親しくなり、野球シーズンが終わった後の野球場「リグレー・フィールド」でベアーズの試合を開催することを認めてもらいました。ベアーズは当初から収容能力の非常に大きなスタジアムで試合が出来たわけで、これもベアーズ発展の大きな要因になったと思われます。ジョージ・ハラスの社交能力や営業センスが、チーム経営の成功に大いに役立っています。

「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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