【清水利彦コラム】永遠のライバル・シリーズ 「パッカーズvsベアーズ」その4 パッカーズ誕生の歴史[前編]2024.07.18

2024/7/18
昭和52年(1977年)卒 清水利彦
shimizu.toshihiko2@gmail.com

<ウイスコンシン州とは?グリーンベイ市とは?>

パッカーズ誕生の歴史を語るためには、まず、「ウイスコンシン州って、どんな州?」「グリーンベイ市とはどんなところか?」について知らねばなりません。

ウイスコンシン州

17世紀頃からフランス人がカナダ方面からやってきて、五大湖西岸で初めてたどり着いたのが、現在のグリーンベイ市の辺りでした。彼らは主に先住民達と毛皮の取引をおこなっており、当地に砦を築き毛皮の倉庫として機能させていました。宣教師達も次々やって来るようになりました。
その後、英国人が土地の主権を奪い、1848年にアメリカ合衆国の30番目の州として認められました。
当初は農業が中心でしたが、次第に酪農が盛んになり、米国屈指の酪農地帯として知られます。
またビール作りも盛んで、Millerというビールメーカーの本社があります。大リーグ野球チームは、ミルウォーキー・ブリュワーズ(ビール醸造人)と言います。

州の面積は17万㎢で日本(38万㎢)の半分弱。50州の中で30番目に大きい面積の州です。
北はカナダとの国境に接しており、とても寒い地域です。
州人口は590万人で、20位。人口密度は42人/㎢で27位。全米では平均的な規模の州です。
ウイスコンシンとは先住民の言葉で「赤い石の土地」をフランス語風に発音したものです。
2010年の調査で州人口の83%が白人だそうで、まだまだ白人天国です。

グリーンベイ市ダウンタウン風景。ミシガン湖に流れ込むフォックス・リバーのほとりにあり、元は水上交通の要所であったことが偲ばれます。 出典:Wikipedia

グリーンベイ市

シカゴから真北へ300kmほど車を走らせた所にあります。(東京-名古屋とほぼ等距離)ミシガン湖のグリーン湾に面し、古くは水上交通の拠点であり、近年は3本の路線が行き交う鉄道の拠点でもありました。全国的にはほとんど知られていなかった街であり、南部アラバマ州出身のバート・スター(ロンバルディ黄金期のQB)がパッカーズからドラフト指名を受けた際に、妻から「グリーンベイってどこにあるの?」と訊かれ、地図を示すと「妻が悲しそうに溜め息をついた」という記述が残されています。きっと「地の果て、北の果て」のように感じられたのでしょう。

ここの特徴はなんと言っても冬の寒さ。1月の歴代平均最高・最低気温を比較してみましょう。

グリーンベイ      最高 -4℃         最低 -12℃
シカゴ                  最高 0℃            最低 -7℃
東京                      最高 10℃          最低       3℃

シカゴは冬の寒さが厳しいことで有名ですが、グリーンベイの方が更に桁違いに寒いです。1月は一度も氷点下から上回ることはなく、「冷凍庫の中でずっと暮らしている」ような町です。アイスボウルと名付けられた1967年12月31日のNFL選手権(パッカーズ21-17カウボーイズ)では氷点下27℃を記録しました。観客の中から死亡者が出たという、観る方も命がけの試合でした。

グリーンベイ市の現在の人口は10万7千人ですが、パッカーズ創設の頃(1920年)は人口わずか3万2千人ほどでした。とてもプロフットボール球団など持てる規模ではないことは明らかです。通常の考え方ならば、ウイスコンシン州最大の都市ミルウォーキー(人口58万人、グリーンベイから南へ180km)に移転するのが自然でしょう。
※グリーンベイ市の人口10万7千人は少ないように聞こえますが、それでも、ミルウォーキー、マディソン(州都、28万人)に次いで、ウイスコンシン州で3番目に大きな市です。

どうしてこの「極寒の小都市グリーンベイ」にプロフットボールチームが生まれ、NFLが拡大・繫栄していってもパッカーズがこの地に居続けているのか?この疑問がパッカーズの歴史を紐解く上で最大の焦点となります。

「1960年以来、地元開催の試合チケットは一枚も売れ残ったことがない」という超人気チームがどのようにして出来上がったのか、という感動の物語をお読みください。

なお今回の記事は、大部分が「ロンバルディのファーストシーズン」(”That First Season” by John Eisenberg)の前半部分を翻訳したものです。この物語を2010年にUnicorns Netに連載した時、前半ビンス・ロンバルディが登場する前の部分が冗長と判断し、パッカーズ誕生のいきさつを大幅にカットして掲載しました。そのカットされた部分の原稿が14年ぶりに日の目を見ることになり、大変うれしく思っております。

2008年ランボー・フィールドにて、豪雪の中で闘うグリーンベイ・パッカーズ。パッカーズのユニフォームは、雪が降りしきる中で見るのが一番カッコいいと心の底から思っています。実はこの写真の背景には何千人もの観客がいるのですが、降雪が強すぎて全く見えません。出典:The Football Book, Sports Illustrated Photo by Simon Bruty

<カーリー・ランボー物語、そして、パッカーズ誕生の歴史>

グリーンベイ・パッカーズの本拠地球技場は、ランボー・フィールドLambeau Fieldと呼ばれます。
スポーツイラストレイテッド誌の選んだ「歴代NFLベスト・スタジアム」で第1位に輝いた、いわば「NFLの聖地」とも言うべきスタジアムです。このスタジアムの名前の由来となった人物であり、パッカーズの「創始者 兼 初代ヘッドコーチ 兼 スター選手」であったカーリー・ランボーについてお話ししましょう。

女性に人気のあったカーリー・ランボー

カーリー・ランボー Curly Lambeauは1898年にウイスコンシン州グリーンベイ市にて、ベルギー移民の家庭に生まれました。本名はアール・ランボーですが、髪が巻き毛(カールしていた)なので誰もがカーリー・ランボーと呼びます。

グリーンベイ東高校に進学したランボーは、際立った運動能力を持っており、HBとしてフットボール部のスター選手となりました。1918年彼はノートルダム大学に合格し、新米(当時)のフットボールコーチ、ヌート・ロックニのもとでプレーしました。

しかし一年生のシーズン終了後クリスマスに帰省したとき、ランボーは重い病気にかかり、数か月にわたり寝込むことになりました。結局彼は大学に戻ることをあきらめて退学し、回復した後はグリーンベイで月給250ドルのインディアン梱包会社(Indian Packing Company)配送事務員として働き始めました。大学を中退したことは少しも後悔していませんでしたが、フットボールを失った寂しさは彼にとって大きいものでした。

ある日、町を歩いていたランボーは地元新聞プレス・ガゼット紙のスポーツ編集者ジョージ・カルホーンに出会いました。8歳年上のカルホーンは、ランボーが高校で活躍した頃に何度も取材記事を書いていたので知り合いでした。酒場で一杯やりながら、ランボーが「自分がフットボールを出来なくなって如何に寂しい思いをしているか」について話したところ、カルホーンは、「それならば自分達でチームを作ればよいではないか」と言いました。このジョージ・カルホーンこそが、のちにランボーとともにパッカーズの共同創立者となり、チームの広報・宣伝担当役員となる人物です。

ランボーは雇い主であるインディアン梱包会社に頼んで、ジャージを買う金の寄付と、会社の裏の空き地を練習場として使わせてくれるよう申し出て、受け入れてもらいました。1919年8月、プレス・ガゼット紙に選手募集の広告が出され、24名が採用されました。本当にフットボールをやりたいと思っている者も、ただ殴り合いや、ぶつかり合いがしたいだけの者もいましたが、とにかくチームはこの日から始まったのです。

1919 Packers Born.jpg

1919年、セミプロチーム、パッカーズ創設の際の記念写真。左端がカーリー・ランボー。右端はインディアン梱包会社のオーナーと思われます。 出典:Wikipedia

ランボーは「初代コーチ 兼 主将 兼 スター選手」となりました。ノートルダム大学で最新の戦法を学んでいた彼は、チームをめきめきと強くします。これらの点ではシカゴ・ベアーズ創始者のジョージ・ハラスと状況が酷似しています。ランボーは最初、チーム名をオーナー会社にちなんで「インディアンズ」と名付けるつもりでしたが、当時のガールフレンドが「それならパッカーズ(梱包屋たち)の方がいいんじゃない?」と言い出し、その通り命名されました。

のちにスポンサーが、インディアン梱包会社からアクメ(絶頂)梱包会社に変更になりました。もしもランボーが最初にインディアンズを採用していたら、当然アクメズに名称が変わっていたでしょうし、今頃グリーンベイ・アクメズという名前のNFLチームだったかもしれません。ガールフレンドに感謝ですね。笑

第一次世界大戦後、カレッジフットボールは急速に人気を高めていました。試合があまりにも乱暴であるため、多くの大学学長がフットボールに反対しましたが、それでも試合場にはあふれるほどの観客を集め、新聞の一面記事を独占していました。アメリカ中西部では、ミシガン大、イリノイ大、オハイオ州立大、ノートルダム大、ウイスコンシン大、ミネソタ大などが強豪校として人気を集め、試合には7万5千人を超える観客が集まりました。

このような時代背景にもかかわらず、パッカーズの1919年創設当初の足取りは頼りないものでした。寄せ集めのような組織の他チームと、市の東側にあるヘイグマイスター公園で試合をし、まばらな観客の前で10勝1敗の戦績をおさめました。セミプロチームとは言っても、観客は無料の立ち見であり、試合が終わった後、カルホーンが帽子を持って回り、試合内容を気に入った観客からお金を投げ入れてもらうような有様だったのです。それでもグリーンベイの市民たちは、わが町にフットボールチームが出来たことを喜んでくれました。

すごくハンサムで魅力的なカーリー・ランボーの風貌も、ファン、特に女性にとって人気の的でした。

1920年、NFLの前身であるAPFA(American Professional Football Association)が発足となり、デケイター・ステイリーズ(のちシカゴ・ベアーズ)を含む14チームが参加しました。

当初の加盟チームには、デイトン・トライアングルズ、カントン・ブルドッグス、ロックアイランド・インデペンデンツなど、地方の小都市で生まれた球団も含まれていました。この様子に力を得て、グリーンベイ・パッカーズも一年遅れの1921年にAPFAに加盟します。(翌1922年にNFLと改名)チーム数は大幅に増え、21となりました。

加盟早々、パッカーズは許されざる行為をして危機に陥ります。大学の現役選手を、偽名を使ってプレーさせたのです。当時、大学(アマチュア)とプロには厳然とした線引きがあり、大学には「金のためにプレーすることなど、とんでもなく恥ずべきことであり、許されない」という認識がありました。ランボーも当然このことを知っていたわけで、今ならば「コンプライアンスの認識が甘い」と激しく非難されるところです。この件がバレたため、APFAから「退会するか、それとも罰金2500ドルを払うか」と詰め寄られました。当時の2500ドルは大金で、そんな金はチームにはありませんでした。

しかし我が町にフットボールチームがあることを喜んでいたグリーンベイの市民がチームを救済しようと立ち上がったのです。多くの市民が少額の寄付を出し合いました。あるファンは「自分の車を売って、クルマの代金全額を寄付するから、自分に1分間だけパッカーズの試合でプレーさせろ」と名乗り出ました。こうして罰金を払うことが出来たわけで、もしこの時罰金を払えなければ、パッカーズはこの時点で消滅していました。

チームの大変な人気ぶりを見て、プレス・ガゼット紙の経営者アンドリュー・ターンブルは「個人ファンにチームの株式を保有してもらい、組織を非営利団体とする」アイデアを思いつきました。市民球団設立の会議が開かれ400名が参加して、合計千株を一株あたり5ドルで買うことが合意されました。

「グリーンベイの市民全員で、パッカーズを支援する」という気風は、球団創設直後のこの瞬間から出来上がっていたのです。初年度パッカーズはわずか6試合(3勝2敗1分)しか出来ませんでしたが、とにかく翌年以降も存続することができました。パッカーズは市民に救われたのです。

何とか危機を脱したパッカーズとカーリー・ランボーでしたが、彼らの将来にはたくさんの栄光、そして更なる困難や試練が待ち受けていました。(続く)

「NFLで最高のスタジアム」に選出されたランボー・フィールド 出典:Wikipedia

「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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