清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
今年度のスーパーボウルは途中から一方的な試合になってしまい残念でした。
対戦チームが「6年間で5回出場のチーフス」vs「8年間で3回出場のイーグルス」で、しかも2年前と同じカードという新鮮味に欠ける組み合わせでしたね。私は「創部○○年目で悲願の初優勝」とか、「○○年ぶりに涙の王座復活」などという言葉にやたら感激するほうですので、今年はビルズvsライオンズという組み合わせになることを望んでいたのですが、実現しませんでした。
今回は、「ビルズがスーパーボウルに出場したら掲載しよう」と構想を温めていた原稿を、無念ではありますがあえて発表させていただきます。
バッファローという町について
もしも、クイズで「ニューヨーク州にはNFLのチームが一つだけあります。どのチームですか?」と問われたら、皆さんは何と答えますか?
正解はバッファロー・ビルズです。NYジャイアンツとNYジェッツは、本部も本拠地スタジアムもニュージャージー州に存在し、NYマンハッタンから近いのですが両方ともニュージャージー州のチームです。かつてはニューヨーク市内にありましたが、州外に移転しました。
(1976年、ニューヨーク・ジャイアンツが、ニュージャージー州に
本拠地を移すことになって)
「ニューヨーク市は今回の移転を歓迎します。
これからは、勝ったときは、ニューヨーク・ジャイアンツと呼び、
負けたときは、ニュージャージー・ジャイアンツと呼ぶことにします。」マリオ・クオモ (ニューヨーク市長)
ただし、ニューヨーク州内にあるとは言え、バッファローの町はNYマンハッタンから北へ600㎞以上も離れたところにあり、むしろ商圏としてはクリーブランド(300㎞先、オハイオ州)、ピッツバーグ(350km、ペンシルバニア州)、デトロイト(400㎞、ミシガン州)に近い地域です。バッファロー市からナイアガラ滝までわずか40㎞ほどで、その先はカナダのオンタリオ州となります。
この土地の気候の特徴は「極寒と豪雪」の二つが挙げられます。4月~9月は暖かな日が続きますが、12月~2月は平均気温が0℃を下回り、月のうち半分は降雪があります。

バッファロー市の遠景(出典:Wikipedia)
バッファローはニューヨーク州(人口2千万人)の中で6番目に大きな市ですが、人口はわずか30万人足らずです。州内ではニューヨーク市が人口約900万人と断然多く、2位~5位はいずれもニューヨーク市への通勤範囲にある近隣都市ですので、バッファロー&ナイアガラ滝地域(周辺都市を加えると100万を超える)が、ニューヨーク州で2番目の人口集積地と言えます。
バッファロー市はエリー湖のほとりにあり、オンタリオ湖にも近いため、元々は船上輸送の拠点として栄えました。「全米屈指の穀物倉庫の町」と呼ばれた時期もあります。輸送が船から鉄道にシフトされると、「シカゴに次ぐ米国2位の鉄道拠点」として知られるようになります。1900年頃は全米で8番目に人口が多い町でした。
1950年には人口58万人と最高を記録しました。人口増加の主な原因はプエルトリコ系やアフリカ系の人がどんどん移入してきて、過半数を超えたことにあります。1960年にバッファロー・ビルズが設立されるのですが、この頃から白人富裕層などが周辺都市や暖かい南部に逃げ出す傾向が見られ、逆にバッファローの人口は減っていきました。50年後の2010年には26万人まで減り、最盛期の半分以下になりました。
2020年にようやく人口減少に歯止め(28万人)がかかっています。バッファロー市の繁栄と衰退の様子は、過去のコラムで紹介した「デトロイト市の歴史」と重なる部分があります。
【清水利彦コラム】デトロイト・ライオンズの歴史、及び、デトロイト市の歴史 | アメリカンフットボール三田会
バッファロー市は、NFLの本拠地がある都市としては「グリーンベイに次いで二番目に小さい町」であり、小さいがゆえに熱狂的なファンに支えられていると言えましょう。
現在のバッファロー・ビルズは同市における3番目のプロチームですよ!!
「バッファロー市には、ビルズが創設される前にプロチームが二つ存在した」と言うと驚かれる方が多いでしょうね。プロフットボールの歴史は1920年にAPFA(American Pro-Football Association)が設立されたのが起源であり、1922年にNFLと改名されました。APFAは当初14チームで開始(デケイター・ステイリーズ=現在のシカゴ・ベアーズが含まれる)されました。その中に<バッファロー・オールアメリカンズ>というチームがありましたが、9年後に倒産・消滅となっています。バッファロー市は極めて古い時代から「プロフットボールチームを持とう」という機運が強かったと言えましょう。
更に1946年、NFLに対抗する新興リーグとしてAAFC(All American Football Conference)が設立され、8チームが誕生しました。その中に<バッファロー・バイソンズ>というチームがありましたが、わずか4年で消滅しています。この時のAAFCからは、クリーブランド・ブラウンズ、サンフランシスコ49ersの2チームが現在も存続していますので、当時としては真剣な新興リーグ設立でした。
1960年、ラマー・ハント(のちのカンザスシティ・チーフスのオーナー)が、NFLに対抗する新興リーグAFLの発足を企て、各地の富豪に参加を呼びかけました。そのうちの一人がラルフ・ウィルソンでした。ラルフ・ウィルソンはミシガン州デトロイト出身。父の経営する保険会社を継ぎ、優れた商才によりどんどん事業を発展させました。製造業・建設業・テレビ局などを次々に買収して成功を収め、<ラルフ・ウィルソン・インダストリー>という大会社に育てます。

54年間バッファロー・ビルズ・オーナーを続けた、ラルフ・ウィルソン(出典:Ralph Wilson Jr Foundation)
プロフットボール事業に魅力を感じたラルフ・ウィルソンはAFLへの参加を決心しますが、地元ミシガン州にはデトロイト・ライオンズが既に存在していました。当初ウィルソンはマイアミへの進出を企てましたがうまく行かず、バッファローを本拠地に定めます。
バッファローでは過去2回、プロフットボール球団設立が失敗に終わっていますので、3回目の挑戦をおこなうのは勇気が必要だったことでしょう。ビルズ創設以来、ウィルソンは全精力をAFLとビルズの成功のために注ぎ込みました。
AFLに参加したチームの中で、オークランド・レイダースとニューイングランド・ペイトリオッツが当初、経営がうまくゆかず資金不足に陥りました。この2チームが倒産したらAFL全体が消滅すると感じたラルフ・ウィルソンは、多額の資金を提供して両チームを救っています。つまり、現在もレイダースとペイトリオッツが存続しているのは、ラルフ・ウィルソンのおかげと言う事が出来ます。
41歳でビルズのオーナーになったラルフ・ウィルソンは、95歳で亡くなるまで54年間ビルズのオーナーであり続けました。「負けず嫌いの頑固者」として知られ、ビルズがどうしてもスーパーボウルで勝てない事を新聞記者から揶揄された時、彼は「チャンピオンになっても良いことなど一つもない。選手全員が年俸を上げるよう要求して来るからな」と答えています。
バッファロー・ビルってどういう人?
ラルフ・ウィルソンが球団を創設した時、チーム名を一般公募し、選ばれたのが「Buffalo Bills」でした。由来となった実在の人物、バッファロー・ビルがアメリカ西部開拓史時代の英雄の通称(アダ名)であることはご存じの方が多いと思います。一体どんな人物であったのか、今回調べてみました。

1880年、バッファロー・ビルこと、ビル・コーディー(出典:Wikipedia)
本名ウィリアム・コーディー(もしくは、ビル・コーディー)。1846年(江戸時代・弘化3年)生まれ。彼の職業欄には「カウボーイ、騎馬による郵便配達人、幌馬車騎手、軍人、鉄道建設作業員、野牛ハンター、毛皮取引業者、金鉱採掘者、土地開発請負人、ショーマン(興行主 兼 主役)」など極めて多彩な仕事が並びます。
彼の父親、アイザック・コーディーは博識のある人物で、この当時としては少数派である「奴隷制度反対」を唱えていました。様々な土地を回って奴隷制度反対の演説をおこなったため、奴隷制度推進派の者たちから目の敵にされ、ナイフで刺され致命傷を負います。
ビル・コーディーが11歳の時、父親が死去したため一家は困窮に陥りました。生き伸びるため、彼は14歳で手紙を騎馬で運ぶ仕事に就くなど、毎日必死で働きました。17歳で志願して南北戦争の兵隊となります。除隊後は鉄道建設現場の作業員として働きましたが、多くの作業員が栄養のある食べ物を欲していたため、野牛(バッファロー)を撃ち殺しては肉を建設現場に運ぶ仕事を引き受けます。射撃の名手になっていた彼は、18か月間に4282頭の野牛を仕留めたと記録されています。この時代には野生のバッファローが草原に幾らでも生息していたのです。
バッファローという動物(正確にはアメリカンバッファロー。バイソンとも呼ばれる)をあまりご存じない方は下記You Tube動画をご覧ください。(最初の2分だけでOKです)たとえ銃を持っていても、野牛1頭を仕留めるのは大変なことだとよくわかります。
Surprising Facts About Buffalo | The American Buffalo | A Film by Ken Burns | PBS
もう一人、野牛狩りの名人と言われたビル・カムストックという男がいました。ビル・コーディーとビル・カムストックは、「8時間で何頭の野牛を仕留めるか競い、勝利した者が<バッファロー・ビル>を名乗ることにしよう」という勝負をおこないました。(今、こんな事をやったら大問題になりますね)
8時間でカムストックの48頭に対し、コーディーは68頭を倒して圧勝し、その時からビル・コーディーは名誉の称号であるバッファロー・ビルと呼ばれることになります。

1899年、Buffalo Bill’s Wild West ショーの宣伝用ポスター(出典:Wikipedia)
23歳になったビル・コーディーは、文筆家のネッド・バントラインに出会います。バントラインはコーディーから聴いた冒険に満ちた半生の物語を「西部開拓戦線の王者、バッファロー・ビル」と題した小説に描き、ニューヨークやシカゴの出版社に売り込みました。物語はシカゴ・トリビューン誌など一流の新聞のフロントページに連載され、バッファロー・ビルは超有名人となります。
更にこの物語はニューヨークにて舞台劇として上演されました。ニューヨークを訪れたコーディーは、自ら劇に登場し演技を行いました。この舞台でヒントを得たコーディーは、「Buffalo Bill’s Wild West」という題名のショーを自ら興行し、各地をツアーしながら西部開拓史を演じて巡るというアイデアを思い立ちます。西部開拓者や先住民の生活ぶりなど見たことが無い人々から絶大な人気を博したショーは何年も続けられ、米国全土はもちろんのこと、ヨーロッパ遠征ツアーもおこなわれました。

1890年、イタリアで開催された「Buffalo Bill’s Wild West」ショーの風景。ビル・コーディーと先住民の出演者たち(出典:Wikipedia)
コーディーは父親と同様、「人類は皆、平等」という考えの持ち主で、多くのインディアン(先住民)をショーに雇い、本当の仲間として扱いました。女性に自由を与える活動にも参加しています。70歳で亡くなった時は空前の人々が葬儀に参列し、別れを惜しみました。ワイオミング州にはコーディー(Cody)という名前の市が新たに造られ(現在の人口約1万人)、「バッファロー・ビル記念センター」が設置されています。
バッファロー市の人達が、コーディーの通称「バッファロー・ビルを、我がチームの名称にしたい」と願った気持ちがわかるような気がします。

1917年、バッファロー・ビルの葬儀の模様(出典:Wikipedia)
次号では、バッファロー・ビルズというNFLチームが経験した、波乱万丈の歴史をご紹介します。どうぞお楽しみに。
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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