清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
日本シリーズで阪神タイガースがあっさり負けてしまったので、意気消沈で観ることになったワールドシリーズでしたが、第7戦、痺れる試合でしたね!久々に野球の醍醐味を堪能しました。
ロサンゼルス・ドジャースが2年連続チャンピオンとなって、大谷・山本・佐々木の日本人選手トリオがやたら脚光を浴びていますが、私は監督のテイブ・ロバーツに注目しました。「日本人の血が流れている」とは聞いていましたが、どんな方か全く知りませんでした。
調べてみると、すごい経歴をもち、鳥肌が立つような人生を送ってきておられる方ですので、紹介いたします。読者から「フットボールシーズンの真っ最中に、のんびり野球のコラムなんか書くな!」とのお叱りを受けそうですが、デイブ・ロバーツはかつて「オプションプレーからのランが得意な俊足のQB」だったのですよ!!

2025年、ダッグアウトから戦況を見つめるデイブ・ロバーツ監督
俊足QBが選んだ野球人生
ロバーツ監督の父親、ウェイマン・ロバーツはアフリカ系アメリカ人で、軍人(海兵隊、US Marine)です。そのため各地の米軍基地を数年ごとに転々とする生活でした。
ウェイマンが日本の沖縄米軍基地に配属された時、沖縄(宮古島)出身の日本人女性、池原栄子と出会い、結婚しました。1972年に那覇市にてデイブ・ロバーツが誕生しています。
つまりロバーツ監督には半分、日本人の血が入っており、「池原 礼」という日本名を持っています。(ロバーツ監督のフルネームは、Dave Ray Roberts)子供の頃、一年間沖縄で生活した経験があり、彼の人間形成に大きな影響を与えたとの事。
デイブは子供のころから足が速く、運動能力に優れていました。カリフォルニア州の高校に入学し、フットボール部、野球部、バスケットボール部でプレーしました。一番活躍したのがフットボール部で、オプションプレーを多用するチームの俊足ランニングQBとして3年間スターターとなり、最終学年でサンディエゴ地区のチャンピオンとなっています。
高校卒業の時、空軍士官学校(Air Force Academy)から「わが校で君をオプションQBとして迎えたい」と誘われました。父親が軍人であることも勧誘理由の一つだったのでしょう。デイブは大変悩みましたが、結局この誘いを断り、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の野球部にウォークオン部員(スポーツ奨学金をもらわず、一般受験で入学した部員)として入部しました。
この時、彼は「フットボールを続けても、大学では通用するかもしれないが、自分の体格(178cm、75kg)ではプロのQBになるのは不可能だ。しかし野球ならばプロ選手になれるかもしれない」と考えたものと推察します。ここが彼の人生の大きな分かれ目でした。大学でフットボールを選んでいたら、「ドジャースの名監督ロバーツ」は存在しませんでした。
UCLA野球部で彼は俊足堅守の外野手として大活躍しました。4年生の時には打率.353、45盗塁を記録しました。デイブはいまだにUCLAの最多盗塁記録(通算109回)を保持しています。

UCLA時代のデイブ・ロバーツ(出典:UCLA Website)
1994年、デトロイト・タイガースからドラフト第28巡という低い順位ながら指名を受けました。しかしメジャーリーグではプレーさせてもらえず、傘下のマイナーリーグを転々とします。
マイナーリーグで良い成績を出してもメジャーには上がれず、デイブ・ロバーツは次第に自分の状況に失望してゆきます。マイナー暮らしが3年経過した時点で彼は「もう野球をやめようか」と考えましたが、父親に戒められて思い直しました。
その後、メキシコやプエルトリコのリーグでもプレーしています。5年間の苦しい下積み時代の経験が、彼の人間性を成長させることになります。
1998年8月、27歳の彼はついに大リーグ、クリーブランド・インディアンズにて試合デビューしました。それでもメジャーに定着は出来ず、マイナーとの間を行き来する日々でした。通算9年間マイナーリーグでプレーしたことになります。
2002年デイブ・ロバーツはロサンゼルス・ドジャースにトレードされ、この時から彼に陽の光が差し込みます。外野手としてスタメンに定着し、2年連続で40盗塁以上を記録します。ただしこの頃から幾度もケガをして負傷者リストに名前が挙がるようになりました。
ケガに苦しんだデイブ・ロバーツは、2004年7月末レッドソックスにトレードされます。まさか彼がその年内に奇跡の盗塁「The Steal」を成し遂げるとは、誰も想像していませんでした。
“The Steal” 大リーグ史上、最も価値ある盗塁
ボストン・レッドソックスは名門チームですが、当時、1918年以来ワールドシリーズ優勝から86年遠ざかっていました。最後に優勝した直後に、成長著しいベーブ・ルースをヤンキースにトレードしてしまうという愚挙をおこなったため、「バンビーノ(ベーブ・ルースの仇名)の呪いがかかって、レッドソックスは優勝出来なくなった」と多くの人が信じていました。バンビーノの呪いについては、過去に私のコラムで詳しく述べています。
【清水利彦コラム】ベーブ・ルースって、どんな人? 2021.07.15 | アメリカンフットボール三田会
しかし2004年、レッドソックスは好調で、ア・リーグ東地区ではヤンキースに次ぐ2位となりプレイオフに進出します。デイブ・ロバーツは代走または守備固め要員としてベンチ入りしていました。プレイオフでエンゼルスを3勝0敗で下し、レッドソックスはALCS(アメリカン・リーグ優勝決定戦)で宿敵ヤンキースと対戦し、勝者がワールドシリーズに駒を進めることになります。
2004年ALCSの試合結果は次の通りです。(左が勝者)
- 第一戦 ヤンキース 10-7 レッドソックス
- 第二戦 ヤンキース 3-1 レッドソックス
- 第三戦 ヤンキース 19-8 レッドソックス
- 第四戦 レッドソックス 6-4 ヤンキース (延長12回)
- 第五戦 レッドソックス 5-4 ヤンキース (延長14回)
- 第六戦 レッドソックス 4-2 ヤンキース
- 第七戦 レッドソックス 10-3 ヤンキース
3試合を続けて落としたレッドソックスは崖っぷちに追い込まれ、地元ボストンでの第4戦も9回表までヤンキースが4-3でリードしていました。9回裏レッドソックスは先頭打者が四球を選びノーアウト一塁。デイブ・ロバーツ(32歳)が代走に起用されます。
当然レッドソックスは盗塁が欲しいところですが、もし盗塁死となると、その瞬間ALCS敗退が濃厚となってしまいます。盗塁を試みるならば絶対に成功させなければなりません。
ヤンキースの投手は史上最高のクローザーと言われたマリアーノ・リベラ。リベラはロバーツのリードを許すまいと何度も牽制球を投げます。捕手は強肩で知られるホルヘ・ポサーダでした。
それでも初球からデイブ・ロバーツは果敢に盗塁を試み、間一髪セーフとなります。

2004年「The Steal」奇跡の盗塁を成功させた直後のデイブ・ロバーツ
続く打者が中前打を放ち、デイブ・ロバーツが2塁から一気にホームに帰り同点。レッドソックスは九死に一生を得て、息を吹き返しました。延長12回裏、レッドソックスがサヨナラホームランで1勝3敗とします。この盗塁の模様を90秒のYou Tube画像でご覧ください。
現在はいささかずんぐりした体形で、いつも柔和な表情を浮かべるロバーツ監督ですが、「The Steal」の時の彼は、まるで精悍な黒ヒョウの疾走でした。
(12) 2004 ALCS Gm 4: Roberts sets up, scores tying run – YouTube
第5戦もレッドソックスが延長サヨナラ勝ちし、シリーズの流れは一気にレッドソックスに転じます。
敵地ニューヨークでの第6戦、第7戦も勝利し、レッドソックスが宿敵ヤンキースに大逆転勝利し、ワールドシリーズに進出しました。ALCSで3連敗から4連勝したのは、この時のレッドソックスが初めてでした。
ワールドシリーズでは勢いのついたレッドソックスが、セントルイス・カージナルスに4連勝し、歓喜と涙の87年ぶりの優勝が達成されました。すべてはロバーツの盗塁から始まった事でした。
デイブ・ロバーツの盗塁は、「The Steal」(大リーグ史上、最も価値ある盗塁)と名付けられ、今も語り継がれています。
ロバーツ監督、故郷沖縄に錦を飾る
幾度もケガに泣かされたデイブ・ロバーツは36歳で引退しました。メジャーでの10年間で打率.266、23本塁打、213打点、243盗塁という記録を残しています。2010年に悪性リンパ腫と診断されましたが、努力により病気を克服したという経験も持っています。
サンディエゴ・パドレスの一塁ベースコーチを5年間経験した後、2016年からロサンゼルス・ドジャース監督に就任しました。非白人でドジャースの監督になったのはロバーツが初めて。そして日本人系アメリカ人が大リーグの監督になったのも初めてでした。
デイブ・ロバーツ監督はこれまでドジャースの10年間で944勝575敗、勝率.621(負け越した年は一度も無し)という驚異的勝率をあげ、ナ・リーグ西地区優勝9回(1回だけ2位)、全ての年にプレイオフ進出。ワールドシリーズに5回出場して優勝3回(2020、2024、2025年)という、栄光に満ちた戦績を残しています。既に大リーグ屈指の名監督としての地位を築いたと言えましょう。2028年までドジャースと年俸800万ドル(約12億円)で契約を結んでおり、これは大リーグ監督としての現在最高値です。
※ロバーツ監督の勝率.621がどれほど凄いかと言いますと、例えば、日本で一番強かったのが1965~1973年、読売ジャイアンツ(巨人)の川上哲治監督が達成したV9(9年連続日本一)がありますが、優勝した9年間で703勝449敗40分、勝率.610しかありません。

母 栄子ロバーツさん(出典:沖縄タイムス2016.10.28号)
監督の母親、栄子ロバーツさんは2016年10月、久々に故郷沖縄を訪れた際に、「大リーグ初の日本人系監督の母親、故郷に帰る」と沖縄タイムスの記事になりました。ただし、まだこの時は、デイブが監督就任直後で、まさかその後、息子がワールドシリーズを3回も制する監督になるとは、栄子さんは夢にも思っていなかったでしょう。
そしてデイブ・ロバーツ監督自身、2024年優勝の後、自分のルーツ沖縄に家族と共に凱旋し、地元民から大歓迎を受け、那覇市特別栄誉賞を受賞しました。ロバーツは受賞を大変喜び、「この賞状は、ワールドシリーズ優勝トロフィーの隣に置いて、一緒に飾る」と約束しています。
その時の日本語版You Tube画像があります。
(13) 「沖縄生まれの世界一監督」デーブ・ロバーツについての雑学 #野球 #野球雑学 #mlb – YouTube
日本を心から愛し、日本人の気持ちをしっかりと理解する監督の下で、ドジャースの日本人選手達が生き生きと躍動しているのだろうと想像します。
私の希望としては、NHKの「個人歴史探訪番組・ファミリーヒストリー」でデイブ・ロバーツ監督を是非、題材に取り上げて欲しいですね。彼の父や母の人生模様や発言を詳しく聴きたいし、両親のなれそめや、そのまた祖先がどのような方達なのか、調べて教えてほしいです。
これからも頑張れ、デイブ・ロバーツ監督!!
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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