昭和52年(1977年)卒 清水利彦
shimizu.toshihiko2@gmail.com
前号のコラム「ブランドン・バールスワース物語」で、「バールスはアーカンソー州北端の田舎町ハリソン(人口1万3千人)で生まれ育った」と書きました。
「アーカンソー州北端の田舎町で生まれ育つ」という事が、この物語において非常に重要な意味を持っていたと私は考えています。これがもし「カリフォルニア州ロサンゼルス近郊の小さな町で育った」ということであれば、物語の持つ意味合いは全く違ったものになると思うのです。
この違いを知っていただくために、今回は「アーカンソー州の歴史」および「アーカンソー大学の歴史」について述べることにします。「ブランドン・バールスワース物語」の後編とご理解ください。
アーカンソー州って、どんなところ?
米国の白地図を渡されて、「アーカンソー州(Arkansas)はどこにある?」と質問されたら、皆さんは正しく答えることが出来ますか?私はアーカンソー州の位置をわかっていませんでした。観光名所は無いし、ビジネスも日本との関連が薄いので、ユニコーンズ卒業生でアーカンソー州を訪れた事のある人は多分おられないだろうと推察します。おられましたら是非ご一報ください。
下の米国南部の地図をご覧ください。赤丸●がアーカンソー大学のあるファイアットビルです。オクラホマ州の東隣であり、ルイジアナ州の北隣となります。東側の州境には延々とミシシッピ川が流れていますが、川沿いにアーカンソー州の大きな町は見当たりません。過去にミシシッピ川が氾濫し、大きな洪水被害を受けた歴史があることが、その理由と推察します。

アーカンソー州の位置
アーカンソー州の面積(14万㎢)は、日本の国土面積(38万㎢)の4割弱ある、かなり広い州ですが、総人口わずか300万人ほどで、人口密度の低い州です。州都であり最大の町はリトルロックですが、人口わずか20万人足らず。アーカンソー大学のあるファイアットビルは人口85,000人(州内第3位)です。他に比較的大きな町としては、フォート・スミスやスプリングデールがありますが、日本では多分誰も聞いたことがありませんよね。
州民一人当たりの平均年収は、歴史上ずっと全米50州のうち47~50番目あたりで、ウエストバージニア州やミシシッピ州等とともに「アメリカで最も貧しい州のひとつ」と言う事が出来ます。
アーカンソー州の歴史
米国中央部の広大な土地はもともとフランスの領地であり、それを1803年に当時の金で1500万ドルにて、米国がフランスから買い取りました。この買取りをLouisiana Purchaseと言います。
私はLouisiana Purchaseの範囲を、ルイジアナ州(ニューオリンズの町とその周辺)だけだと思っていましたが、調べてみるととんでもなく広い領域でした。下の地図をご覧ください。

白い色の範囲がLouisiana Purchaseによりフランスからアメリカに売り渡された領域 出典:Wikipedia
この取引でアメリカが取得した総面積が214万㎢で、日本の総面積(38万㎢)の6倍弱の土地を一気に手に入れたことになります。とは言え、フランスもこれだけの土地を実質支配(コントロール)していたわけではなく、先住民が点々と散らばって住んでいた広大な地域を「ここはフランス領」と勝手に宣言し、それをアメリカに売り渡したことになります。先住民にとっては迷惑な話ですね。
アーカンソーも1803年、アメリカの領土になりました。1836年には合衆国の25番目の州となっています。Arkansasは、先住民の言葉で「南の方に住む人々」をフランス語風に発音したものです。
ミシシッピ川に接する広大な土地はコットン農場に適しており、アフリカから連れてきた奴隷を労働力とすることにより、コットン産業は大変栄えました。
1861年に北軍(奴隷制度反対派)と南軍(奴隷制度推進派)に分かれて南北戦争が始まりました。アーカンソー州は当然南軍に加わりましたが、南軍は敗れ、奴隷制度は崩壊しました。コットン産業は大打撃を受け、その他の工業を発展させることが出来なかったため、アーカンソー州の人々は貧困にあえぐ事になります。下の写真は、貧しい南部の人達の生活を示すものです。

南部の貧しい家(イメージ) 出典:Wikipedia
日本との太平洋戦争が始まった時には、全米に散らばって住んでいた16,000人の日本人が、ルーズベルト大統領の命令で、強制的にアーカンソー州など数か所の収容所に移されていた時期があります。そういう「厄介者をまとめて住まわせておく」ための場所に利用されてきた州であるということです。アーカンソー州には常に「貧乏州」のイメージが付きまといます。
私が書いた「アラバマ大伝説の名コーチ、ポール・ベア・ブライアントの生涯」は、下記のような書き出しで始まっています。
「ポール・ベア・ブライアントの生涯」第1章 – アメフト名言・迷言集
ポール・ブライアントは1913年(大正2年)9月11日にアーカンソー州で生まれた。
父親のウイルソン・モンロー・ブライアントはジョージア州の百姓だったが、1900年頃故郷を離れ、安い土地を求めてアーカンソー州にやってきた。モロ・ボトムという名の荒れた狭い土地を数名の仲間達とともに開墾し、野菜を作り、家畜を育てて食いつないでいた。
彼らの生活は極めて貧しく、家の中には電気も水道も電話もなく、ランプをともして生活していた。生きるのが精一杯という暮らしの中で信仰だけが彼らの心の支えだった。(中略)
ポールはいつも靴を履かず裸足で歩いていた。子供達全員に靴を買い与える金など無かったのだ。
このようにアーカンソー州は、19世紀後半から20世紀前半にかけて、常に「貧乏人が住む、最果ての州」というイメージがつきまとっていた場所であるという事をご理解ください。
名将ルー・ホルツは、ノートルダム大のコーチになる前に、1977年40歳から7年間アーカンソー大学のヘッドコーチを務め、好成績を残しています(60勝21敗2分)が、ド田舎であるファイアットビルの大学コーチに就任した途端、次のような傑作迷言を残しています。
「ここファイアットビルが、地の果てとは言わないが、
大学校舎の屋上に登ると、そこからは地の果てが見える。」
ルー・ホルツ アーカンソー大学コーチ
最貧州に生まれた世界最大の企業

ウォルマートの創業者サム・ウォルトン
1950年頃から次第にアーカンソー州の経済は復興していきました。
その象徴となったのがウォルマート(Walmart Inc.)です。1945年、J.C.ペニーの従業員であったサム・ウォルトンが、義父から借りた2万ドルを元手に、アーカンソー州ロジャースという当時人口1万人ほどの田舎町で小さな安売りストアを始めました。店舗を繁盛させたウォルトンは、スーパー、ディスカウントストア、安売り百貨店など次々と業態を広げてゆき、「ウォルマート」というハイパーマーケットの店舗形態を確立して大成功を収めます。
現在の総売上高は約7000億ドル(100兆円超え)で、「世界最大の売上を誇る会社」となりました。(2023年米国内ランクでは2位アマゾン、3位エクソンモービル、4位アップル)従業員総数も210万人で世界最大です。
世界最大の企業となった現在も、ウォルマートはアーカンソー州ベントンビルという人口わずか6万人足らずの田舎町に本社を置き、大都会に移転しようとはしません。「アーカンソー州のド田舎が発祥地であることを心の底から誇りに思っている会社」であると感じます。ブランドン・バールスワース基金財団が設立された時、ウォルマートが直ちに協力を申し出たことも理解できますね。
「経営者の役割とは、社員の中から『善き人間』『正しい人間』を見つけ出し、
その者達に最大の権限と責任を与えてやることだ。」
サム・ウォルトン ウォルマート創業者

アーカンソー州にあるサム・ウォルトンの第一号店舗(1962年)。現在はウォルマート博物館になっています。 出典:Wikipedia
アーカンソー大学について
アーカンソー大学(University of Arkansas)は1871年に設立された州立大学(学生数32000)です。
州内には、他にアーカンソー州立大学(Arkansas State University)など幾つかの大学がありますが、これらは全て小規模で学力レベルもさほど高くなく、アーカンソー大学だけが飛び抜けた存在です。
フォーブス誌の全米大学学力ランキングで158位と、上位10%に入る「勉学に優れた大学」です。
SECリーグのライバル校、テネシー大144位、アラバマ大182位、ミシシッピ大231位等と比べても遜色のない名門校と言えます。
人口300万人ほどの州に、32,000人アーカンソー大の学生が居るわけで、卒業生とその家族を合わせれば州内でのシェアはかなり高いのでしょう。「アーカンソー大学卒」というステイタスやプライドは、州内で相当なものであろうと想像できます。

アーカンソー大学のレイザーバックス・スタジアム(7万6千人収容)。スタンドの傾斜がすごく急なので、どの席からでもフィールドに近く、本当に観やすそうです。
アーカンソー州にはメジャーなプロスポーツチームが一つもないので、アーカンソー大学の体育会各部だけが全米王座を争うレベルのスポーツであると言えます。フットボール部、バスケットボール部に加えて野球部も非常に高い人気を誇ります。州全体で彼らを必死に応援するわけで、7万6千人収容できるレイザーバック・スタジアムがいつも満員になります。アーカンソー州民にとって、この大学チームが誇りなのです。ブランドン・バールスワースが他の大学からの勧誘を断り、ウォーク・オン部員(自費入学)としてでもアーカンソー大学でプレーしたかった気持ちが理解できます。
チーム名はレイザーバックス(Razorbacks)。背中にRazor(カミソリ)のような鋭い突起がある野生の豚で、猪に近い動物です。

アーカンソー大ヘルメットに描かれるレイザーバックのロゴマーク
「アーカンソー大は全米チャンピオンになったことがあるか?」と問われると、私の答えは「微妙」となります。大学側は「我々は1964年に全米王座に着いている」と主張していますが、APが発表したランクでは1964年のチャンピオンはアラバマ大なのです。
これは当時のAPランキングが「ボウルゲームの前に決められていた」ことによる混乱です。この年、アラバマ大、ノートルダム大、アーカンソー大の3校が全勝でシーズン終盤を迎えました。レギュラーシーズンの最終戦でノートルダム大がUSCに17-20で敗れ脱落。この時点でAPは「アラバマ大が全米チャンピオン。アーカンソー大は2位」と発表しました。
ところがアラバマ大はオレンジボウルで、テキサス大に17-21の負け。一方、テキサス大に勝っているアーカンソー大はコットンボウルで、ネブラスカ大に10-7で勝利しました。
一部強豪校の中で全勝はアーカンソー大だけになったため、スポーツ紙など幾つかの機関が「チャンピオンはアラバマ大ではなく、アーカンソー大であるべき」との自説を掲載し、同大学も当然それに倣い王座を主張しました。当時この混乱は大きな話題となり、のちにAPはボウルゲーム終了後に最終ランクを発表するよう改めています。
アーカンソー大は1915年~1991年、テキサス大やオクラホマ大とともにSWC(Southwestern Conference)リーグに所属し、77年間に13回優勝しています。ところが1992年にSECに転入し、アラバマ大やテネシー大とライバルになってから、33年間一度もリーグ優勝がありません。唯一、限りなく全米王座に近づいたのが、ブランドン・バールスワースが最終学年の1999年、8連勝した瞬間だったのです。
1906年のフットボール部創部以来、119年間で勝率.575(713勝522敗37分)。SWCやSECというレベルの高いリーグで戦い続けているアーカンソー大としては極めて高い勝率と言えましょう。最終ランキングで10位以内に入ったことが過去14回もあります。ただし近年はSECがあまりにも強豪集団になってしまい、リーグ内で勝てなくなってきました。
私は、アーカンソー大に対して「ユニフォームがアラバマ大やオクラホマ大にそっくりの、南部の強豪校」という程度の認識しかありませんでしたが、今回歴史的背景や事実を知り、ブランドン・バールスワースの存在を知って、アーカンソー大を応援したくなりました。
頑張れ!アーカンソー大学!!
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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