【清水利彦コラム】<ハーバート・フーバー物語> アメリカ合衆国大統領になったフットボール部マネジャー 2025.06.26

清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

1905年のBig Game (12-5でスタンフォード大の勝利)

上の写真は1905年にスタンフォード大スタジアムで開催されたBig Gameの模様です。120年前の写真ですが、当時から大観衆を集めて行われています。こんな昔に「スタンフォード応援団が人文字でSを描く」ことが既に始められていたことに驚きます。審判員がワイシャツにネクタイ姿なのが微笑ましいですね。

さて、私は前号コラムで「1891年、スタンフォード大が創設された際に第一期の入学生となり、フットボール部マネジャーとなった、フーバーという名の若者こそが、のちの第31代アメリカ合衆国大統領ハーバート・フーバーである。」と書きました。マネジャー出身の私は「アメリカ合衆国大統領になったフットボール部マネジャーがいる」という事実を知り、身体が震えました。

ハーバート・フーバーという大統領の事を何も知らなかったので今回調べてみました。特に彼が政治家となる前の、痺れるような波瀾万丈の人生に焦点を当てましたので是非読んでください。浅学にて書いていますので、記述に誤りがありましたら遠慮なくご指摘ください。

※名字が「フーヴァー」と記載されている資料も多く見られます。

ハーバート・フーバー物語 Herbert Hoover

ハーバート・フーバーは1874年(明治7年)アイオワ州東部のウエストブランチという小村で生まれました。誕生当時は村の人口が500人足らず(現在は2500人)で、クエーカー教徒の集落でした。幼い頃から喘息持ちで、死にかけたことがあり、危うく蘇生したとのことです。6歳の時に父親(鍛冶屋)が心臓発作で急死、10歳の時には母親が腸チフスで死に、フーバーは孤児となりました。

アイオワ州ウエストブランチにあるフーバーの小さな生家。現在は復元され保存されています。 出典:Wikipedia

オレゴン州に住む医師の叔父ジョン・ミンソーンが、前の年に息子を病気で亡くしていたため、フーバーはオレゴン州に移り、叔父に育てられることになりました。叔父はフーバーを厳しく躾け、家事を覚えさせ、良い教育を受けさせようとしましたが、フーバーは反抗的な子供で、事あるごとに叔父に逆らっていました。ハーバート・フーバーの「自分のことは自分で決め、自分で金を稼いで生きる」という姿勢はこの頃に備わったと思われます。

結局フーバーは13歳で学校を辞め、働きながら夜間学校で簿記や数学を学びました。

1891年17歳の時、スタンフォード大学という新しい学校が開設されると聞き、彼は入学試験を受けました。数学以外の科目で全て不合格点であったにもかかわらず、フーバーは入学を認められています。なぜ入学が認められたかについての記述が見当たりませんが、開校したての大学で「科目によっては定員割れの状態」が発生していたのではないかと推察します。フーバーの専攻は地質学でした。

学業成績に関しては、フーバーは平凡な点数しか残せませんでしたが、学外活動やアルバイトには精を出しました。裕福な育ちではなかったフーバーは、上流階級意識の強い、金持ちの子息である学生たちとの交遊を嫌い、独立心の強い生き方をしていました。「クリーニング取次業や、講義仲介業をおこなって金を稼いでいた」との記述がありますが、講義仲介業って一体何なのでしょうね?授業の代返をして金を儲けていたのではないかと私は想像しています(笑)学生自治会の役員としても活躍していました。

もう一つ、フーバーが力を注いでいたのが「フットボール部と野球部のマネジャーを兼務する」ことでした。大学創設と同時に創部となった二つの部のマネジャーを兼務することなど、現在の感覚ですとあり得ないように思いますが、米国においては、野球とフットボールでは活動する季節が全く異なるため可能だったのでしょう。

当初からライバル意識の高かったカリフォルニア大との間で、「フットボールの試合をやろうではないか」という話が出たのは当然のことと思います。スタンフォード大学が1981年に創設され、翌1982年の3月には第1回対校戦が開催されています。(14-10でスタンフォード大の勝利)この時たまたま、フーバーの友人がカリフォルニア大のフットボール部マネジャーだったため、マネジャー同士の話し合いがとんとん拍子に進みました。フーバーはBig Gameの創設に大いに貢献したことになります。

第1回対校戦は大変注目を集め、「一万枚のチケットを用意したが、二万人の観客が集まり、大混乱になった」との記述が残されています。チケットが足りないので、フーバーが大きなヤカンを用意し、「ヤカンに金を投げ入れた人は、チケットが無くても入場させた」とのことです。機転の利く、行動力にあふれたマネジャーだったのでしょう。

地質学専攻のフーバーは、1985年にスタンフォード大学を卒業しました。鉱山関連の仕事に就くことを希望していましたが、当時米国は経済不況の真最中で、低い報酬の仕事しか見つかりませんでした。彼は米国での就職をあきらめ、ロンドンにあるビーウィックという会社で鉱山技師の職を得ました。ビーウィックはオーストラリア西部において金鉱を掘る事業をおこなっており、フーバーも豪州で働くことになります。

西オーストラリアの砂漠地帯を掘り続けたビーウィック社は、大金脈を掘り当てて巨額の利益を得て、フーバーも若くして年収5000ドル(現在の価値で約20万ドル)の高給取りとなりました。更に彼は採掘現場でのコストカットにも貢献しました。イタリアからの移民を大量に雇って働かせることで人件費を大幅に抑制したのです。このあたりは鉱山技師というより経営者としての才覚を既に発揮していたことになります。

オーストラリアで鉱山技師となった24歳のフーバー 出典:Wikipedia

1898年、弱冠25歳でフーバーは準共同経営者の立場を得ます。次に彼が命じられた仕事は、清の国(現在の中国)天津市における鉱山の発掘でした。フーバーは清政府との合弁による鉱山開発会社の設立に成功して、ここでも27歳で共同経営者となり手腕を発揮します。また、ずっと清にとどまるのではなく、各国の鉱山視察という名目で世界中を渡り歩いて見聞を広めています。当時としては飛び抜けた国際感覚と情報収集能力を持っていたと言えるでしょう。

各地に鉱山開発会社を作っては、その株を保有することでフーバーは資産を増やしていきました。豪州での亜鉛の採掘にも乗り出し、成功させています。

1904年(30歳)ビーウィック社の労務管理体制に問題があると英国政府から調査が入った際には、フーバーはビーウィック社に見切りをつけ、さっさと経営陣から退き、所有株式を売り抜けています。

その後ロンドンで独立した鉱山コンサルタント兼投資家となり、彼は大金持ちとなりました。40歳の時、フーバーの個人資産は4百万ドル(現在の価値で約1億3千万ドル=200億円弱)あったと言われています。

1914年(40歳)8月、ドイツがフランス側連合国に対して戦争を仕掛け、ベルギーに侵攻しました。第一次世界大戦の始まりです。ヨーロッパ中が大混乱となり、当時中立国であった米国のビジネスマンとその家族約10万人が欧州各地に居たため、彼らは逃げ場所を失い孤立してしまいました。

英国をベースとして実業を行っていた米国人たちが立ち上がり、自主的に「在欧州米国人救済委員会」を設立し、フーバーが委員長に選出されます。フーバーは直ちに船便のチャーター等で行動力を発揮し、孤立した米国人をアメリカ本土に送還することに奔走します。わずか2か月後には4万人を超えるアメリカ人が祖国に戻りました。

ドイツによって侵略された事により、輸出入や物資輸送が完全に遮断され、ベルギーをはじめヨーロッパ各地は深刻な食糧危機に見舞われました。それを見たフーバーは、次に「ベルギー食糧危機救済委員会」を自ら立ち上げ、戦争難民に食糧を配る仕事を先頭に立っておこないました。200万トンの食糧が運び込まれ、飢餓から救われた人々の数は900万人を超えました。このような事業には莫大な資金が必要ですが、交渉の上、各国の資金提供を取り付けたのもフーバーの功績でした。

フーバーが救った900万人の中には多くのロシア人が含まれていたため、「アメリカとは主義・思想の全く異なるロシア人達を、何故助けなければならないのか」という批判を口にする人もいました。しかし、フーバーは「困っている人を救うのに、国籍や主義・思想など関係ない」と答えています。

在欧州アメリカ大使ウォルター・ペイジは、フーバーのことを「たかが一商売人でありながら、英国・フランス・ドイツ等の政府高官と、自らの意志で直談判し、折衝・取引をおこなえる能力のある、世界で唯一の人物」と評価しています。

これらの活躍により、フーバーは「人道主義者、博愛の人」として広く知られるようになりました。ニューヨーク・タイムズ紙が当時「現在生存している10人の最も重要なアメリカ人」リストを発表し、フーバーがその一人に選ばれています。

フーバーの「自らの意志・機転・行動力で、問題を次々に解決していく能力」や、「金を稼ぎ、その金を活かして使う能力」は、スタンフォード大学フットボール部マネジャー時代の経験を起点として、彼の激動の人生の中で次第に培われていったものと、私は考えています。コラム「マネジャーとは何者か?」については下記の文章を参照してください。
【清水利彦コラム】Unicorns Net1900号記念特別編「マネジャーって、何をする人?」2024.09.12 | アメリカンフットボール三田会

ヨーロッパ全体が食糧危機に陥ったのに対して、アメリカは農産物・畜産物を豊富に抱えていました。つまり「米国の食糧をどの国に送って支援するか」によって欧州の戦況が著しく変化する状況だったのです。当時のアメリカ大統領ウッドロー・ウイルソンは、フーバーを食糧庁長官に任命しました。

米国が英国・フランスなどの連合国側に付くことによって、一気に形勢が傾き、1918年に第一次世界大戦は終了しました。

その頃、欧州全体で4億人の人達が食糧危機の状態にあるとフーバーは推測しており、特に中央と東ヨーロッパの飢餓を救うことが大切と考えて、次々に実行していきました。ウイルソン大統領(民主党)は常にフーバーを側に置き、懐刀・知恵袋として活用しました。

のちに大統領が共和党のウォーレン・ハーディング(在任中に病死)、カルビン・クーリッジと変わっても、彼らはフーバーを商務長官(Secretary of Commerce)として更に重用しました。民主党、共和党の両党大統領から要職に指名され、また、両党から「将来の大統領候補になってほしい」と頼まれており、それはフーバーの実務能力がいかに高かったかの証拠と考えます。

1927年、ミシシッピ川が氾濫して大きな被害が出た時も、フーバーが中心となって人々を救い、多くの国民から「非常時の救済はフーバーに任せろ」と言われるようになりました。

1930年、大統領になったフーバー 出典:Herbert Hoover Presidential Library

そしてクーリッジの後を継いで共和党から出馬し、1929年3月、フーバーは第31代アメリカ大統領に指名されました。この時彼は54歳でした。国会議員や州知事などの政治家経験を持たない、民間ビジネスマンから大統領に駆け上がったレアケースでした。

ところが、フーバーの大統領としての評価は決して芳しくありません。着任直後の1929年10月24日に「暗黒の木曜日」と呼ばれる株式の大暴落があり、そこから長期にわたる世界大恐慌(The Great Depression)へと突入します。期待されていたのに「金融危機・経済危機に対しては、効果のある対策を取れなかった大統領」というのが、フーバーに対する一般的な評価です。

1期4年のみ務め、次の大統領選挙で民主党のフランクリン・ルーズベルトに大敗しています。

ネバダ州とアリゾナ州にまたがって建設されたフーバー・ダム

フーバーは大恐慌に際し、何もせず手をこまねいていたのではありません。大規模公共事業を推し進め、失業者たちに雇用を与えようと努力しました。その一例が、のちに彼の名前を冠された、コロラド川の「フーバー・ダム」建設です。ダムによってカリフォルニア州を含む広域に電力が供給されました。また、ラジオ産業・航空産業を急速に成長・発展させたのは彼の功績と言われています。

1920年から始まっていた禁酒法も彼の任期中に終結させています。「政府でも手が出せない」と恐れられたシカゴ・ギャングのアル・カポネと真正面から戦い、逮捕・投獄したのもフーバー政権です。

1931年にはフーバーが「星条旗(The Star-Spangled Banner)」という歌をアメリカ国歌と定めています。彼が決めるまで、94年前まではアメリカには国歌が存在しなかったのです。
※「君が代」は1880年(明治13年)に事実上の日本の国歌となりましたが、法律により正式に日本国国歌と定められたのは1999年(平成11年)と、つい最近のことです。

大統領着任中はあまり評価が高くありませんでしたが、大統領退任後、フーバーは歴代大統領から頼りにされる存在となりました。第33代大統領ハリー・トルーマンは「フーバー委員会」と呼ばれる組織を設置し、フーバーの意見を聞くことにより、政府機関内の無駄や非効率を改善しました。

第35代大統領ジョン・F・ケネディも、既に87歳になっていたフーバーに、何らかの政府の役職を与えようと腐心していたと伝えられています。有事に際してはどうしてもフーバーの意見を聞きたかったのでしょう。(この時はフーバーが固辞しています)

1964年、ハーバート・フーバーは90歳で亡くなりましたが、大統領退任後31年も生き続けたのは、当時の最長記録でした。(のちに100歳まで生きたジミー・カーターによって記録更新されました)

ケネディ大統領から高く評価されていたフーバー 出典:Wikipedia

1895年スタンフォード大学第1期卒業生となったフーバーがアメリカ合衆国大統領になりましたが、その後130年間、スタンフォード大学卒業生から大統領になった者はいません。

やはりスタンフォード大学は、政治家を育てる学校ではなく、実業家や研究開発者を育てる学校なのでしょう。そして「スタンフォード大フットボール部には、初代マネジャー、ハーバート・フーバーを超えるマネジャーがその後現れていない」という言い方も出来るかもしれませんね。

フーバーはスタンフォード大学に、膨大な量の書籍や貴重な資料を寄付しました。これらを保存するため、スタンフォード大学は1941年(創立50周年)、キャンパスの中心に「フーバー・タワー」を建設し、塔の下層部は図書館として現在も使用されています。

スタンフォード大学キャンパスの中心にそびえるフーバー・タワー 出典:Wikipedia

ユニコーンズの選手達、そしてマネジャー等のスタッフ部員達の中から、将来日本の国を背負って立つ人物が育つ日が来ることを心から願っています。

 


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