【清水利彦コラム】ローズボウルの歴史 2021.5.28

清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

前回のコラムで「米国東部で実施されたローズボウル」をご紹介しましたので、今回は「ローズボウルの歴史」を紐解いてみましょう。

筆者が現役部員の頃は、毎年正月元旦(日本時間では2日朝)ローズボウルがTVで長時間枠にて放映されていました。当時、四大ボウル(ローズ、コットン、オレンジ、シュガー)がありましたが、ローズボウルが知名度・人気で他の3つを圧倒しており、「カレッジフットボールにおけるスーパーボウル」のような特別な扱いを受けていた感があります。

元旦の午前中にローズパレードがあり、午後からフットボール試合が始まるので、私は「ローズパレードは、ローズボウルを盛り上げるためのアトラクション」なのだと勝手に思い込んでいましたが、歴史を調べてみると全く逆であることがわかりました。

かつてカリフォルニア州ロサンゼルス周辺は、アメリカ先住民(インディアン)だけが住む無限の荒野でした。しかし16世紀になってスペインの艦隊がこの地に上陸し、先住民を追い出して植民地化してゆきます。1821年、スペイン人はこの一帯をメキシコ国の一部と定めますが、1848年アメリカvsメキシコの戦争にアメリカが勝利し、この土地をアメリカのものとし、1850年にはカリフォルニアが合衆国の州として認定されています。ちょうどこの頃、アメリカ西部で金が採れるとの噂を聞き、東海岸や北西部から多くの人々が移り住んできました。
1890年頃には次々と油田が発見され、カリフォルニアの経済発展は揺るぎないものとなりました。

当時南カリフォルニアに移ってきた人々は、次のように考えました。
「ニューヨークやシカゴでは、冬には雪に埋もれ、人々は厳しい寒さに耐えている。しかしロサンゼルスは正月でも花が咲く天国のような土地だ。皆で元旦にフェスティバルを開催して、この土地の素晴らしさを全米に誇示しようではないか。『花と音楽とスポーツの祭典』というテーマにしよう。」
1890年に初回の祭典が2000人の参加者を集めておこなわれ、このイベントは「Tournament of Roses」と呼ばれるようになりました。その後、フロート(山車)やマーチングバンドが次第に大がかりで、きらびやかなものになり、数十万人が集まる大イベントに発展しました。

パレードの巨大化に伴い、主催者は費用捻出のための企画を考える必要に迫られました。
それが、「Tournament East-West Football Game」だったのです。西海岸のフットボール強豪校と、東部地域の強豪校を招待して試合をおこなえば注目を集めるだろうという狙いでした。(まだローズボウルという名称はありません)

1902年元旦、スタンフォード大とミシガン大を招いて最初の試合を行いました。これが全米初のボウルゲームとなります。前回のコラムで、「1942年に5日間かけて大陸横断したオレゴン州立大」を紹介しましたが、今回はその時から更に40年前の出来事ですから、ミシガン大が参加するために片道だけでも一週間以上かかっていたのではないでしょうか。

1902年、カリフォルニアに向けて出発するミシガン大チームを送り出した時の記念写真です。まさか、このまま馬車で西部に向かったわけではないと思いますが、まだ、鉄道がようやく西海岸に到達した頃の時代でした。出典:Rites of Autumn by Richard Whittingham

その日の入場券は50セント席と、1ドル席の2種類。馬車で試合場に来た人は、駐馬料金として別途1ドル払ったと記録されています。(自動車の普及は翌1903年のフォード社創設以降のことです)観客数は8000名でした。

当時の試合ルールは、
・フォワードパスの禁止
・3回の攻撃で5ヤード進むとファーストダウン獲得
・前半/後半各30分 クォーターの概念なし
・TD5点(その後のコンバージョン1点)、FG5点
・1チーム11名で、原則交代なし
ですから、むしろラグビーに近い競技であったと推察します。

第1回大会における主催者の誤算は、ミシガン大の強さを甘く見たことでした。この年、ミシガンはフィールディング・ヨストという名コーチに率いられ、11戦全勝、総得点550、失点0という恐ろしく強いチームでした。試合は一方的なものとなり、後半残り8分、ミシガン大がスタンフォード大を49-0とリードした時点で、スタンフォード大主将が敗北宣言して試合を放棄しました。

カリフォルニアの人たちは地元チームの惨めな敗北に大層落胆し、一回限りで「Tournament East-West Football Game」を中止してしまいます。
その後10年以上にわたり、祭典にてフットボールは行われず、「二輪馬車レース」「ダチョウの競走」などがアトラクションとしておこなわれていました。「象とラクダが競走して、象が勝利した」という微笑ましい記録も残っています。

13年間の空白の後、1916年にTournament East-West Football Gameはワシントン州立大vsブラウン大にて復活しました。ただしワシントン州立大が6戦全勝での出場だったのに対し、ブラウン大は5勝3敗1分と、東部の代表校としては寂しい戦績での出場でした。14年前の惨敗がよほどショックだったので、「勝てそうな相手を選んだ」のではないかと推測します。1万人を集めて、ワシントン州立大が14-0で勝利しています。

この年から一度も途切れずに現在まで1月1日に開催されています。ただし元旦が日曜日となった年は、「ローズパレードの参加者達によって、教会へ日曜朝、礼拝に行く人々の妨げにならないように」との配慮から2日の月曜に変更してローズボウル開催と定められ、現在もその伝統は引き継がれています。

Tournament East-West Football Gameは次第に人気を増し、3万人程の観客を集めるようになったため、それまでの会場Tournament Park の収容能力は限界でした。そこで1922年10月、新会場が建設され、巨大な美しいスタジアムは「ローズボウル」と名付けられ、試合も「ローズボウル・ゲーム」と呼ばれるようになりました。

1921年(ちょうど100年前)、建設中のローズボウル・スタジアム。ここで初めてローズボウルの試合がおこなわれたのは1923年元旦(USC14-3ペンシルバニア州立大)で43000人が入場しました。こんな古い時代に豪華なフットボール専用スタジアムが作られたことに驚かされます。スタジアムは幾度も拡張され、現在の収容能力は約95000名です。 出典:Wikipedia(English)

1946年までローズボウルは、「太平洋岸の王者が、他の地域の強豪校と対戦する」というコンセプトの大会でしたが、1947年からは「Pac8(今はPac12)リーグの優勝校が、BIG10リーグの優勝校と対戦する」方式になりました。10万人を超える観客を集め、カレッジ最大のイベントとして人気を博しました。ローズ出場回数はUSCの34回が最多で、2位ミシガン大20回、3位オハイオ州立大・ワシントン大15回と続きます。1902年開始のローズボウルは、オレンジボウルとシュガーボウル(1935年開始)、コットンボウル(1937年)より歴史的に見ると格上の試合となります。

「Pac12 vs BIG10」の図式は現在も続けられているのですが、1998年にBCS(Bowl Championship Series)という制度が発足し、ローズボウルが全米チャンピオンを決めるための試合と定められるケースが発生し、2002年のマイアミ大(フロリダ)vsネブラスカ大のように全く地域性の異なる組み合わせが実現することになりました。
更に2014年からはBCSが、CFP(College Football Playoff)制度となり、3年に一度はローズボウルが全米王座を決めるための準決勝のような扱いをされることになりました。本年元旦のローズボウル(アラバマ大31-14ノートルダム大)がそれに当たります。ちょっと複雑でわかりにくいですね。

「誰にも文句を言われない方法で、カレッジ全米王座を決める」ために発足したCFPですが、そのために伝統あるボウルゲームがいささか格下扱いとなった感は否めませんが、「試合日の寸前に戦争が始まった年でも、予定通りの日程でローズボウルをおこなった」という過去の人々の心意気を忘れず、素晴らしい試合を続けてもらいたいものです。

<清水利彦の名言・迷言集>

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