清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
今回は、ローズボウルで起こった「全米カレッジフットボール史上最悪の過ち」についてご紹介します。
舞台は1929年1月1日のローズボウル。当時、ローズボウルは唯一のボウルゲームでした。(オレンジボウル等は1935年以降の開催)プロフットボールは1921年から既に興行を始めていましたが、まだ極めて原始的なビジネス形態で、カレッジフットボールの方が圧倒的な人気を誇っていました。
つまり、この年、元旦におこなわれたローズボウルは、当日唯一の試合であり全米のフットボールファンの注目をすべて集めて行われていたのです。この頃、TV放送はまだ開始されていませんでしたが、ラジオ・新聞・映画用フィルム撮影などあらゆるメディアの注目を集め、スタジアムは当時のローズ史上最多となる66,604人のファンであふれかえっていました。
出場チームは、地元カリフォルニア州からカリフォルニア大。7年ぶり3回目の出場です。過去1勝1分と、まだローズボウルでの負けを知りません。レギュラーシーズンは6勝1敗2分と苦しみましたが、スタンフォード大(8勝3敗1分)との最終戦に辛うじて引き分け、ローズへの切符を手にしました。
一方、遠路招待されたのは南部の超強豪校ジョージア工科大(10勝0敗)。当時はボウルゲームの前に最終ランキングを決めていたので、同年度のジョージア工科大の全米王座獲得は決定していました。(ジョン・ハイズマン率いる1917年以来、12年ぶりの王座)ジョージア工科大は初めてのローズボウル出場。西海岸にて同校が試合するのも初めてのことで、ファンの注目度は並々ならぬものがありました。
試合は両軍が一歩も譲らぬ接戦となり、0-0のまま第2Qに入りましたが、ここで「史上最悪の方向違い」が発生します。ジョージア工科大の自陣30ydからの攻撃で、QBがボールをファンブル。これを拾い上げたカリフォルニア大のセンター兼DLロイ・リーゲルスがリターンを試みます。(当時のルールでファンブル後はフリーボール)ところがリーゲルスは密集をかいくぐって走るうちに突如方向を変え、後方(自陣)に向けて走り出しました。
驚いたチームメイトのDBベニー・ロムが「止まれ!止まれ!」と叫びながらリーゲルスの後を追いかけましたが、大観衆の叫び声でロムの声は聞こえず、敵の選手に追われていると思ったリーゲルスは必死に70ydを駆け抜け、自陣エンドゾーンを目指します。ついにリーゲルスはロムにつかまり、エンドゾーンの手前に連れ戻されますが、追いかけてきたジョージア工科大選手に自陣1yd地点でタックルされました。
結局、自陣1ydからカリフォルニア大第1ダウンの攻撃となり、苦し紛れにパントを蹴ったところ、ジョージア工科大にブロックされて、ボールはエンドゾーンの外へ。ジョージア工科大にセフティの2点が与えられました。(G2-0C)
逆走の直後、エンドゾーンでうなだれるロイ・リーゲルスです。(ヘルメットに手を当てている)チームメイト達の落胆ぶりもカメラを通して伝わってきます。背景の大観衆にもご注目ください。なお、YOU TUBE で「Wrong Way Roy Riegels 」と検索すると、その瞬間の映像を、ほんの10秒ほどですが見ることが出来ます。
前半終了後、リーゲルスはヘッドコーチのニブス・プライスに、「私を後半のメンバーから外してください。私は母校に泥を塗りましたし、ファンに合わせる顔がありません。」と申し出ましたが、プライス・コーチは「ダメだ!試合はまだ半分終わったばかりではないか!」とりつけています。
後半に入り、カリフォルニア大選手たちはリーゲルスの過ちを帳消しにしようと、素晴らしい闘志でチャンピオンのジョージア工科大に食い下がりました。第3Qにジョージア工科大が追加TDを挙げましたが、コンバージョンを失敗します。(G8-0C)
第4Qに入ってカリフォルニア大が待望のTDを奪いましたが、当時は2ポイントコンバージョンのルールが存在せず、キックの1点に留まりました。(G8-7C)
そのまま試合は終了し、カリフォルニア大はセフティを与えた2点の為、1点差で敗れたのです。大金星が指の間から滑り落ちたような幕切れでした。ローズボウル会場のほとんどが地元カリフォルニア大を応援していた人たちであり、大勢にとって悪夢のような結果となりました。カリフォルニア大が必死に闘い、1点差の大接戦に持ち込んだことによって、皮肉にもリーゲルスの失敗の重みが際立ってしまいました。
当時3年生のリーゲルスは決してダメな選手ではありません。翌年、カリフォルニア大主将に指名され、オールアメリカンにも選出されている名選手なのですが、その時だけは「記憶が飛んだような状態になり、振り向いた方向にゴールポストが見えたので、そちらに向かって走ってしまった。」と本人が述べています。
哀れなリーゲルスは、その日以来、ロイと呼んでもらえることは少なくなりました。“Wrong Way” Riegels (方向違いのリーゲルス)という仇名を背負って彼は生きていくことになります。彼が若い頃は、他人から「おい、Wrong Way」などと話しかけられることをひどく嫌い、逆上したこともあったそうですが、年を経るに従い、次第に自分の運命として受け入れるようになりました。フットボールの歴史に関する書籍で、逆走のエピソードを紹介する際には「Roy “Wrong Way” Riegels 」という仇名の付いた名前で記載されることがほとんどです。
卒業後、彼はカリフォルニア大新人チームのコーチや、いくつかの高校のヘッドコーチを経験しました。社会人となったリーゲルスは自ら会社を興し、肥料販売会社の経営者として残りの人生を過ごしました。過ちを糧にして人間的に成長したリーゲルスは、「ひどい失敗を克服して、人生の勝利者となった好例」として紹介されるようになり、彼の講演会が開かれるほどになりました。「スポーツ選手が自分の失敗によりチームに大きな迷惑をかけた」ような事例を耳にすると、彼はその若者に励ましの手紙を書く事を習慣としました。たくさんの高校生アスリートが彼から激励の手紙を受け取っています。
1964年、ミネソタ・バイキングスのDLジム・マーシャルがファンブルを拾い上げて、逆方向に66yd走って相手にセフティを与えるという、全く同じ事態が発生しました。この時は接戦の末バイキングスが勝利したため、マーシャルが非難されることはなく、リーゲルスは「ようこそ、ジム君!Wrong Way Club への入会を歓迎します!」というジョークの手紙を送っています。
実業界を引退する時、ロイ・リーゲルスは「もしかしたら、反対方向に走った事によって、自分の人生がより良きものになったのかもしれない」と語っています。晩年になって、彼の人生が大いに報われる出来事がありました。1991年、83歳になったリーゲルスが、「ローズボウル殿堂入り表彰」を受けたのです。その年に殿堂入りしたのは7名で、その顔ぶれは、下記のような錚々たるものでした。
- ジョン・マッケイ USCコーチ ローズボウル出場8回で5勝3敗
- レックス・カーン オハイオ州立大QB 1969年MVP ウディ・ヘイズの秘蔵っ子
- ボブ・シュロレット ワシントン大 1960-61年 史上初のローズ2年連続MVP
- ジョン・シアラ UCLA QB 1976年 オハイオ州立大に奇跡の勝利の立役者
- チャーリー・トリッピ ジョージア大 1943年 UCLA戦に勝利の立役者
- ロン・バンダーカレン ウィスコンシン大QB 1963年USC戦にパス401yd獲得
- ロイ・リーゲルス カリフォルニア大
参考文献:LAタイムズ記事 1991.08.09 https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1991-08-09-sp-257-story.html
表彰式の頃、リーゲルスはパーキンソン病にかかっており、車椅子に乗って、息子に付き添われて壇上に上がりましたが、他の6名に全く劣らぬ万雷の拍手で迎えられたとのことです。史上最悪の汚点を残した試合を逆に表彰することによって、彼の一生背負ってきた苦しみを和らげようという、ローズボウル殿堂関係者達の粋な計らいでした。
その2年後、1993年にリーゲルスはこの世を去りました。死後1998年には更に母校カリフォルニア大の殿堂入りも果たしています。2003年にCBS Sports が発表した、「20世紀スポーツ界で起こった忘れられぬ瞬間、ベスト6」にも、「1929年、ローズボウルでの逆走」が選ばれています。カリフォルニア大は、1929年のつらい敗戦の後、9年後の1938年ローズボウルに出場し、アラバマ大に13-0で勝利していますが、それ以来、4回の出場はあるもののすべて敗れ、今日まで83年間、ローズボウルでの勝利がありません。
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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