【清水利彦コラム】3人の名QBのサインボール〈前篇〉Y.A.ティトル「NFLのイメージを変えた、一枚の写真」 2022.07.15

清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

皆さんは「開運!なんでも鑑定団」というTV番組をご存じですか?
家の中にある「お宝」を専門家が鑑定し値付けをする番組です。大したことがないと思っていた品がとんでもない高値をつけたり、先祖から大事にしていた「宝物」が実は偽物で無価値とわかったり、という落差が面白く、よく見ています。
本日は我が家に存在する、たった一つのフットボールのお宝である、「3人の名QBのサインボール」についてお話しします。

1967年、カナダのモントリオールで万国博覧会(Expo 1967 World Fair)が開催され、私の父が業界団体の一員として視察旅行をしました。だだっ広い会場の中で、ひときわ人だかりがしていたので父が近寄ってみると「プロフットボールの名QBが3名来場している」とのことでした。その3名とは、

  • Y.A. Tittle (Y.A.ティトル)
  • Earl Morrall (アール・モーラル)
  • Fran Tarkenton  (フラン・ターケントン)でした。

おそらく、博覧会の集客促進のための役割を担っていたのでしょう。

3名は防具をつけていたわけではなく、スーツ・ネクタイ姿で、トークショーとサイン会が主なイベントでした。しかし父が釘付けになったのは、サイン会の前におこなわれた、簡単なプレーのパフォーマンスでした。
会場にワイヤーで古タイヤを3本並べて吊るします。そして20mほど離れた場所から3人が同時にパスを投げ、タイヤの真ん中を3個のボールが同時に通過する、というショーでした。
3人が成功すると、25m、30mと距離を拡げてゆき、最長40mほど先から投げましたが、3人はネクタイ姿のまま、事もなげにタイヤのど真ん中にボールを投げ続けました。「すごかった、びっくりした」という父の感想を今でも覚えています。

ラグビー出身の父(慶應蹴球部)は「ラグビー以外のスポーツには何の関心もない」と公言するような人でしたが、この時以来アメリカンフットボールには興味を示すようになり、当時中学(慶應普通部)2年生だった私が慶應義塾高校入学後に「アメリカンフットボール部に入部したい」と言い出した時も、何も反対はありませんでした。

サイン会では、3名のサインを求めて長蛇の列が出来ていたそうですが、父は我慢強く順番を待って、3名のサインが書かれたプラスチック製のサインボールを手に入れました。目の前で本人たちがサインをしてくれたので、本物であることは間違いありません。

清水所蔵の名QB達のサインボール。上からY.A.ティトル、アール・モーラル、フラン・ターケントン

父はこのサインボールを「米国出張の土産」として私にくれたのですが、問題は、当時の私が3人のQBを知らず、何の興味も価値も感じていなかったことでした。「ふうん」という感じで土産を受け取り、机の引き出しに仕舞ってそのまま忘れていました。
大学卒業後、ずっと後になって備品整理の際にボールを見つけ、3人のQBの名前を見て、その価値の大きさに仰天した次第です。保管状況が悪かったため、ボールは茶色く煤け、署名は薄く消えかかっているので、お宝としての値打ちは全くありません。

そこで今回は3人のQBがいかに偉大であるかを皆様にご紹介することで、お宝を大事にしなかったことへの罪滅ぼしとさせていただきます。

Y.A.ティトル

本名はイェルバートン・エイブラハム・ティトル・ジュニアという長い名前ですので、「Y.A.」という仇名で呼ばれたのも必然だったのでしょう。1926年テキサス州生まれ。2017年、90歳にて没。
ルイジアナ州立大にてQBとして活躍。オール・カンファレンス代表に2回選ばれ、コットンボウルでのMVPも獲得しています。

1961年Y.A.ティトルのトレーディング・カード。34歳当時の写真ですが、この頃から毛髪とは縁が薄かったようです。(出典:Wikipedia)

1947年、NFLデトロイト・ライオンズからドラフト1位の指名を受けますが、ティトルはこれを断り、当時の新興リーグAAFCのボルチモア・コルツに入団して、新人王を獲得します。しかしAAFCは財政難のため程なくして閉鎖され、一部のチーム(49ers、ビルズ等)がNFLに吸収されます。
1951年ティトルはNFLの一員となったサンフランシスコ49ersに参加します。49ersは優秀なバックスを揃えていたため、QBティトルを含む4名は「百万ドルのバックス陣」と呼ばれていました。この4名が、スポーツイラストレイテッド誌の表紙を飾った最初のプロフットボール選手となります。当時はまだプロよりもカレッジフットボールの人気が高く、NFLはカレッジよりも低い扱いを受けており、有名スポーツ誌の表紙になるなど夢のような事だったのです。4名とも後年NFL殿堂入りしています。

ティトルはプロボウル出場7回。オールプロ一軍選出4回。当時のNFL最高のQBでした。
ティトルの「TDパス通算212回」「パス通算獲得距離28339yd」は、のちにジョニー・ユナイタスに抜かれるまでプロフットボールの最高記録でした。1963年の「シーズン最多TDパス36回」の記録は21年後にダン・マリーノに抜かれるまで、ティトルが保持していました。
1962年に樹立した「1試合TDパス7回」は、ペイトン・マニング、ドリュー・ブリーズ等7名とともに、60年後の現在もNFL最多タイ記録として残っています。

当時、NFLパサーとして最高の記録を多々作ったティトルですが、彼のパスの投げ方は横手投げ気味で、美しい投げ方としては評価されていませんでした。(You Tube画像「Y A Tittle」を検索してご覧ください)彼が賞賛された点は、パス能力よりも「鬼気迫るほどの闘争心」と「卓越したリーダーシップ」だったのです。

1951年から10年間を49ersで過ごし、「そこそこの好成績は残すのだが、どうしても49ersは優勝に手が届かない」という状態が続きました。そして1960年には新鋭QBジョン・ブロディにスタメンの座を奪われ、ティトルはドラフト権と引き換えに、NYジャイアンツにトレードされてしまいます。この時ティトルは35歳でした。

「もうティトルの時代は終わった」と多くのファンは感じましたが、彼はジャイアンツで自らの黄金時代を築くのです。35,36,37歳の3年間でティトルが先発出場した試合には、31勝5敗1分と勝ちまくり、NYジャイアンツのファン達は熱狂的にティトルを愛しました。(※NYジェッツのジョー・ネイマスが愛されたのはティトル引退後のこと)わずか4年間しか在籍しなかったにもかかわらず、ジャイアンツは彼の背番号14を永久欠番としています。

そして38歳になった彼の一枚の写真が、NFLの歴史を変え、ティトルを「伝説のQB」に変えます。

1964年、敗戦の責任をすべて負い、流血のままエンドゾーンに座り込む38歳のY.A.ティトル。Photo by Morris Berman(出典:“Best Shots” by DK Publishing Inc.)

1962,1963年にティトルの活躍によりNFL選手権に駒を進めたジャイアンツでしたが、1964年は開幕から2連敗という最悪のスタートを切りました。そして9月20日の第3戦、ピッツバーグでのスティーラーズ戦の出来事でした。

24-20とリードしていたジャイアンツは、終盤QBティトルがパスを投げようとしますが、スティーラーズの巨漢DLジョン・ベイカーにより頭部に強烈なタックルを食らいます。当時はヘルメットに向けたタックルは反則行為ではありませんでした。
強烈なヒットにより、ヘルメットは脱げて弾け飛び、ティトルは頭に裂傷を負います。彼は脳震盪となり、肋骨にはひびが入りました。フラフラと浮き上がった球はスティーラーズにインターセプトされ、リターンTDで24-27と逆転される最悪の結果となりました。

ティトルの頭から血が流れるのを見たコーチは、彼をベンチに呼び戻し治療を受けさせようとしますが、試合時間があと僅かのため、ティトルはそれを拒否し、血が流れるままプレーを続けることを望みます。彼の懸命の努力もむなしくそのまま試合終了となり、血まみれのティトルは敗北の責任をすべて自分一人で背負うかのようにエンドゾーンに両膝をつきました。

その瞬間をプロカメラマンMorris Berman が捉えていました。この写真は後世あらゆる場面で紹介され、プロフットボールがいかに壮絶で苛酷なスポーツであるかを証明する代表作となりました。

当時はプロフットボールよりカレッジフットボールの方がずっと人気・知名度ともに高かったのですが、その主な理由は「カレッジフットボールは大学同士の誇りと名誉をかけた真剣勝負だが、プロフットボールは金儲けのための興行であり、ショーのようなもの」と信じていた人がたくさん居たことでした。世間には「プロ=賞金稼ぎ」という軽蔑感があり、オリンピック大会は純然としたアマチュアのみ参加を許された時代がありました。

しかし、ティトルの写真が紹介されて以来、「プロの試合はショーのようなもの」などという声は消え去り、「プロフットボールとは、最高の技術、最高の運動能力を持つ選手達による、壮絶なる真剣勝負」であると認知されたのです。一枚の写真によってNFLのイメージが大きく変わりました。

米国で、一枚の写真が世の中の流れを大きく変えた事例としては、「硫黄島に掲げられた星条旗」が有名ですが、スポーツ界においては「流血のティトルの写真」が同等の価値があるものと考えられています。

1945年2月23日、硫黄島に掲げられた星条旗 Photo by Joe Rosenthal of the Associated Press:硫黄島に掲げられた星条旗のエピソードは、映画「父親たちの星条旗」(2006年、監督クリント・イーストウッド)にて詳しく描かれています。

肋骨にひびが入ったティトルは、その後も試合に出続けますが、1964年は2勝10敗2分の惨めな戦績に終わり、シーズン終了後38歳で引退しています。ティトルはNFL選手権に4回出場しましたが、すべて敗れ、優勝を一度も経験できませんでした。

1967年のモントリオール万国博覧会の際は、アール・モーラルとフラン・ターケントンがまだ現役選手だったのに対し、Y.A.ティトルだけが引退後の参加でした。既に「流血のティトル」の写真が世に出た後でしたので、博覧会会場では万雷の拍手で迎えられたことと確信します。
私はY.A.ティトルのサインボールを所持している事を、心から誇りに思っています。

次回はあと二人、アール・モーラルとフラン・ターケントンについてご紹介します。

 

「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
https://footballquotes.fc2.net/
「今週の名言・迷言」を木曜日ごとに更新しています
左下の「三田会コラム」という黒い小さなバーをクリックして
いただくと、これまでのコラムのアーカイブがご覧いただけます