清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
私が所蔵する写真の中で、「やっている本人は大マジメなのに、思わず笑ってしまう一枚の写真」を選ぶとなると、やはりこの写真でしょう。
1930年、当時シカゴ大学の伝説的名コーチであった、エイモス・アロンゾ・スタッグ氏の練習でのコーチング風景です。彼が68歳の時の写真です。
クルマの中からメガホンで(たぶん大声で怒鳴りながら)指導をおこなう様子は、微笑ましくもありますが、当時の自動車がフロントガラスを跳ね上げることが出来たことに驚きます。後部座席にいるご婦人はスタッグ・コーチの奥様とのことですが、どう見ても「楽しんで一緒に座っている」ようには見えません。最初は「68歳と高齢のコーチを気遣って、夫人が付き添っている」のかと思いましたが、スタッグ・コーチはなんと102歳まで生きた超長寿命の人物であり、84歳まで現役のコーチを続けていますので、当時健康の懸念があったとも思えず、謎に包まれています。昔は米国の男性も亭主関白が多かったと聞いており、「お前も一緒に来い」と言われたら断れなかったのだろう、というのが私の推理です。笑
いきなり脱線しましたが、エイモス・アロンゾ・スタッグはカレッジフットボールの歴史の中で決して忘れることの出来ない人物ですので、今回ご紹介します。
エイモス・アロンゾ・スタッグは、南北戦争(1861-65)の真最中であった1862年生まれ。
1884年、22歳でエール大学に入学し、強豪として知られるフットボール部に入部しました。1888年、エール大は史上最強と言われ、13勝0敗、総得点694,失点0(全て完封勝ち)で全米王座と認められましたが、このチームでE(エンド)として活躍。1889年にオール・アメリカンという栄誉の選出が初めておこなわれた時にEで選出されています。ちなみにこの時は、選出された11名全員がアイビーリーグ出身でした。
フットボール部と同時に野球部でも投手として活躍。卒業の時にプロ野球の6球団から勧誘されましたがすべて断り、実業界にも進まず、フットボール部コーチとしての人生を選びました。
2年間スモールカレッジでコーチした後、名門シカゴ大学が1892年にフットボール部を設立し、スタッグはその初代ヘッドコーチに就任します。
シカゴ大学(University of Chicago)は現在も世界の大学学力ランキング(Academic Ranking of World Universities)で毎年10位以内に入るという、超優秀な学生の集まる大学として有名です。卒業生の中にノーベル賞受賞者が97名(経済学者ミルトン・フリードマン等)、ピューリツァー賞受賞者が27名います。学生数16000名と小ぶりな少数精鋭の私立大学です。
シカゴ大学をエイモス・アロンゾ・スタッグが率いたことにより一気に強くなり、ファン達は熱狂しました。Western Conference(のちのBig Tenリーグ)に所属し、ミシガン大やイリノイ大等強豪校をなぎ倒し、リーグ優勝7回、1905年と1913年には全勝で全米チャンピオンと認められました。
スタッグはシカゴ大でなんと41年間コーチを続け、輝かしい戦績を残し続けました。しかし70歳になった1932年、シカゴ大のロバート・メイナード・ハッチンス学長は、スタッグが高齢であることを理由に無理やり退任させてしまいます。
実はハッチンス学長は、フットボール部に人気が集中しすぎて、学生が勉強を疎かにすることを良く思っていませんでした。シカゴ大は勉学優先の方針を明らかにし、スタッグ退任7年後の1939年にBig Tenリーグを脱退し、1946年にはフットボール部を廃部にしています。(23年後の1969年に部活動を復活させましたが、今はNCAAのDivision Ⅲに所属しています)
不本意な退任をさせられたエイモス・アロンゾ・スタッグは、引退を拒否し、カリフォルニア州のパシフィック大学に新設されたフットボール部の初代コーチに70歳で就任します。シカゴ大での快進撃のような戦績は残せませんでしたが、80歳の時に7勝2敗で全米ランク19位に入るなどの実績をあげ、14年間パシフィック大コーチを務めて、1946年に84歳でついに引退しました。全部で57年間のコーチ歴を誇り、通算戦績は314勝199敗35分、勝率.605でした。もちろん彼が当時の全米カレッジ最多勝コーチでした。
エイモス・アロンゾ・スタッグは、フットボール近代化の父と言われており、彼が考案・発明した事はたくさんあります。ボールを持った選手が激しく敵とぶつかるだけのプレーを延々と繰り返していた時代から、スタッグがフットボールのやり方・戦い方を大きく進化させ、現代のフットボールに近づけていったことがわかります。彼が発明・考案した事柄を列記します。(※但しこれらの中には、複数のコーチが「初めて考案したのは私だ」と主張しているケースが含まれています)
- フォワード・パス
- Tフォーメーション
- アンバランス・フォーメーション
- リバース・プレー
- 〇とVで両軍選手達の動きを示すフォーメーション・ブック
- オンサイド・キック
- ハドル(をして次のプレーを決めること)
- ラトラル・パス
- マン・イン・モーション
- ダミーを用いたタックル練習
- ゴールポストの柱をクッションでくるみ危険回避すること(当時はゴールポストがゴールライン上にあった)
- ユニフォームに番号を入れて試合すること
- プレーに番号をつけてシステム化し覚えやすくすること
エイモス・アロンゾ・スタッグは引退後も長寿を続け、1965年に当時としては驚異的な102歳まで生きて寿命を終えています。
エイモス・アロンゾ・スタッグが挙げた314勝という金字塔は、のちの時代のフットボールコーチ達にとって「永遠に超えられそうにない目標」となりました。しかし、この記録に敢然と立ち向かったのがアラバマ大のポール・ベア・ブライアントでした。ブライアントは64歳の時に「自分はエイモス・アロンゾ・スタッグの314勝を超えるまではコーチを続ける」と宣言し、68歳の時に315勝に到達しました。1982年に勝ち星を323勝まで伸ばして引退し、辞任した28日後に心臓発作のため亡くなっています。
ポール・ベア・ブライアントの「エイモス・アロンゾ・スタッグの通算勝利数への挑戦」は、カレッジフットボール史の中でも非常に有名な逸話です。
まだご存じでない方は 清水ブログhttps://footballquotes.fc2.net/ の長編物語→「ポール・ベア・ブライアントの生涯」→第10章「人生最後の賭け」 を是非読んでください。
ポール・ベア・ブライアントの最多勝記録は、のちにフロリダ州立大のボビー・ボーデン(377勝)、ペンシルバニア州立大のジョー・パターノ(409勝)によって抜かれました。いま現役の最多勝コーチはアラバマ大のニック・セイバン(280勝)ですが、セイバンは既に71歳になっており、エイモス・アロンゾ・スタッグの記録を抜く事も難しいのではないかと思われます。
皆さんに知っていただきたいのは、年間試合数の変遷です。エイモス・アロンゾ・スタッグの時代は、年間に7試合以下しかおこなわない年が16回もありました。(9試合以下の年が26回)それに対し、ポール・ベア・ブライアントの時代は年間11または12試合。ニック・セイバンは過去8年間で平均14.1試合おこなっての勝利数ですので、「ベースとなる試合数が違うので、価値も全く違う」ことを申し添えます。
「私はフットボールコーチという仕事を、
若者たちの人間形成に役立つ、
最も崇高な職業であると感じている。
運動部活動を通じて、若者たちを育て上げることほど
素晴らしいことは他にない。」
エイモス・アロンゾ・スタッグ(シカゴ大コーチ)
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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