【清水利彦コラム】パッカーズ主将、レイ・ニティキ物語  相手チームから最も恐れられたMLB 2023.5.25

清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

ユニコーンズの元チームカメラマン秋本宗一さんとは、慶應同期でもあり、長年に渡り親しい交際をさせていただいておりますが、今回、秋本さんから素晴らしい贈り物を頂戴しました。

それは「Football’s Greatest, Sports Illustrated」というタイトルの写真集です。NFLの「ベストQB」「ベストコーチ」「ベストスタジアム」など多岐にわたる部門において、スポーツイラストレイテッド誌の編集者たちが1位から10位までランク付けし、見事な写真とともに紹介しています。

この本だけで、今後コラムを100本くらい書けそうです。秋本さんには心から感謝をしております。

秋本さんから贈られた本の表紙。縦35cm 横27cm 重さ2.2kgの巨大な写真集です。

 

「Football’s Greatest, Sports Illustrated」の中から、記念すべき第1作として選んだのが、ロンバルディ黄金時代のグリーンベイ・パッカーズ主将、MLBレイ・ニティキです。「ベスト・ラインバッカー部門の第9位」に選出されています。(1位はローレンス・テーラー、2位がディック・バトカス)

かつて、スポーツイラストレイテッド誌の記事で、「NFL史上、相手チームから最も恐れられたラインバッカーのTOP3は、レイ・ニティキ、ディック・バトカス、ローレンス・テーラーである」というコメントを読んだことがありまして、私は全く同感です。

レイ・ニティキの選手としての力量は、バトカスやテーラーほど高く評価されていなかったと思われます。ニティキのプロボウル出場1回、オールプロ選出2回は、バトカス(PB8回、AP5回)やテーラー(PB10回、AP8回)と比べるとずっと少ない記録です。しかしレイ・ニティキが他の二人よりも圧倒的に優れているのは、「優勝回数5回」(NFL選手権優勝3回、スーパーボウル優勝2回)です。ローレンス・テーラーはスーパーボウル優勝2回、ディック・バトカスは一度も優勝経験がありません。しかもレイ・ニティキは、このチャンピオンチームで主将を務めていたのです。ロンバルディがパッカーズを率いた9年間で、98勝30敗3分 勝率.765 優勝5回はニティキが中心となって作り上げた数字と言えます。

秋本さん寄贈の写真集に掲載されていた、次の写真をご覧ください。

1962年 対ベアーズ戦 パッカーズ守備陣の指揮をとるレイ・ニティキ
出典:Football’s Greatest, Sports Illustrated

相手を威嚇するように仁王立ちし、右手を大きく上げて守備陣を指揮するニティキ独特のポーズです。彼のショルダーパッドがやたら大きく、跳ね上がって肩を怒らせているように見えるのは、レイ・ニティキの意図的な演出であろうと感じます。

この写真の最大の価値は、ユニフォームに付着した数多くの血痕でしょう。この血はニティキのものだけではなく、ベアーズの(たぶん複数の)選手のものでもあったろうと推察します。パッカーズvsベアーズの試合は「泥まみれ・血まみれのライバルリー」と呼ばれ、敵愾心むき出しでぶつかり合っていた様子がありありと伝わってきます。

レイ・ニティキは1936年にイリノイ州で生まれました。彼が3歳の時に父親が交通事故で死に、11歳の時に母親が脳血栓で死にました。母の死亡当時、彼には21歳と17歳の兄がいましたので、兄たちに養われる形となりましたが、実際には、全く放置され、何も躾けられていない子供でした。貧しい不遇の生い立ちにより、レイは「怒りに満ちた少年」となり、近所の少年たちと殴り合いのケンカをするのが日常となりました。

高校生になって身長191cmまで伸びた彼はフットボール部に入りFBとして活躍しますが、全く勉強をしていなかったため、高校2年時に部活動停止処分を受けています。

野球部やバスケットボール部でも目覚ましい活躍をしたため、プロ野球からも誘いを受けました。しかし、フットボール部のコーチは彼をあえてQBに転向させ、「勉強もなんとか頑張って、部活動を続けろ。高校を卒業したら、奨学金をオファーしてくれる大学に進んでフットボールをやれ。」と勧めます。

不幸な生い立ちに対する怒りをフットボールに向け、練習に励んだことがレイの人生を大きく変えることになります。彼は「BIG TENリーグの大学から奨学金をもらい、QBとしてチームを優勝させてローズボウルに出場する」ことを夢見て、1954年、地元の名門校であるイリノイ大学に入学します。

フットボールの練習を熱心に励んだレイ・ニティキでしたが、彼の獰猛で乱暴な性格は大学でも変わりませんでした。大酒を飲んでケンカをするなどのトラブルが絶えなかったため、イリノイ大コーチは、彼をQBとして使うのは適切でないと判断し、FBとLBの兼務に転向させます。LBへのコンバートが見事に彼にフィットしました。類稀なるスピードを持つハードタックラーとして活躍します。大学3年のオハイオ州立大戦でキックオフカバーに出たレイは、相手から顔面に強烈なヒットを受け、一度に前歯4本を失っていますが、顔面血だらけになりながらも、その試合にLBとして最後まで出続けました。当時クリーブランド・ブラウンズのヘッドコーチであったポール・ブラウンは、「現在のカレッジでナンバーワンのLBは、イリノイ大のレイ・ニティキだと思う」と述べています。

1958年のNFLドラフトで、レイ・ニティキはグリーンベイ・パッカーズから第3巡で指名を受けます。入団の年、パッカーズは1勝10敗1分と絶不調でしたが、そのおかげでヘッドコーチのレイ・マクリーンが1年でクビになり、後任コーチとなったのがビンス・ロンバルディでした。

当初パッカーズのアシスタントコーチ達はレイ・ニティキを高く評価してはいませんでした。「頭が悪くて、いつもカッカしてプレーするので、プロのLBとしては使い物にならない。トレードに出すべきです。」と進言しましたが、ロンバルディは「ニティキのような恐れを知らない獰猛な男は、感情をコントロールすることさえ教え込めば、きっと大きな戦力になるはずだ。」と考えていました。

最初の3年間、ロンバルディはレイ・ニティキにスタメンの座を与えていません。そのかわり練習でディフェンスのABCから教え直しました。規律を守ることの大切さも彼に理解させました。獰猛な性格と強烈なタックルだけ残し、あとは全ての面でニティキを別人のような選手に鍛え直したのです。敵の攻撃を冷静に分析し、仲間の守備選手達の士気を引き上げることも出来るようになりました。試合で活躍できるようになってから彼は自ら酒を断っています。

1962年にスタメンの座を獲得したレイ・ニティキは、いきなりその年のNFL選手権試合でMVPに輝いています。ロンバルディはニティキをチームの主将に指名し、「パッカーズ黄金期の守備選手と言えば、誰もがまずレイ・ニティキの名前を思い浮かべる」ような存在になりました。そして相手チームの選手からは「最も恐ろしいMLB」として嫌われることになります。

通算で出場190試合、インターセプト25回、ファンブルリカバー23回という記録が残っています。

スポーティングニューズ誌が発行した「NFL歴代最高の選手100人」という本で、レイ・ニティキは百人のうち第18位に選出されています。

ユニコーンズ昭和31年卒の中村務先輩(故人)がレイ・ニティキの大ファンで、「乱暴者だったけど、いい選手だったなあ」と懐かしがっておられたことを思い出します。

レイ・ニティキのプレーぶりについては、下記のYou Tube画像をご覧ください。(4分強)案内役はパッカーズ黄金期のOGジェリー・クレイマーです。
(141) #47: Ray Nitschke | The Top 100: NFL’s Greatest Players (2010) | NFL Films – YouTube

レイ・ニティキに関するエピソードは枚挙にいとまがありません。入団3年目の時、コーチが登るためにサイドラインに設置された鉄製のヤグラ(重さ450㎏)が、練習中に強風のため突然倒れ、ヘルメットを被って立っていたニティキの頭部を直撃しました。ヘルメットの頭頂部に穴が開くほどの衝撃でしたが、幸いニティキは無事でした。騒ぎを聞いてロンバルディ・コーチが駆け付け、「ケガをしたのは誰だ!?」と叫びました。誰かが「レイ・ニティキです」と答えると、ロンバルディは「ああ、あいつか、それなら大丈夫だ。皆、早く練習に戻れ!」と言ったとのことです。
この時の、穴の開いたニティキのヘルメットは、グリーンベイ・パッカーズ殿堂に今でも展示されています。

ヤグラが直撃したのは事実ですが、他にも「レイ・ニティキはいつも鉄製のワイヤーをガリガリかじって歯を鍛えている」とか、「レイ・ニティキは生きているカタツムリを殻ごとバリバリ食う」などという記事を読んだことがあります。これらはレイ・ニティキが如何に恐ろしい人間であるかを示すために創られたデマであり、ジョークであると考えます。

1963年、サイドラインのレイ・ニティキ(左から二人目#66)
出典:”Best Shots” by DK Publishing

彼がどんなに恐ろしいMLBであったかを示す、最もわかりやすい例は次の言葉でしょう。

「私はNFL選手を引退して既に10年以上経つが、いまだに夜中に恐ろしい悪夢を見て、うなされて、汗びっしょりになって目が覚めることがある。全身を包帯でぐるぐる巻きにした、血まみれのレイ・ニティキが、夢の中で私の事を、どこまでも、どこまでも、追いかけてくるのだ。」
ニック・ピエトロサンテ デトロイト・ライオンズRB

ビンス・ロンバルディの退任後も、レイ・ニティキはグリーンベイ・パッカーズに残り、36歳で身体がボロボロになるまでプレーを続けました。彼は殿堂入りを果たし背番号#66は永久欠番となりました。引退後もニティキはグリーンベイの町を心から愛し、グリーンベイに住み続けました。61歳でニティキはこの世を去りましたが、グリーンベイの市民も心からレイ・ニティキを愛していました。死後、町の中心部を流れる河に新しく架けられた橋が、「レイ・ニティキ・メモリアル・ブリッジ」と命名されました。また、パッカーズは練習用のグラウンドを2面所有していますが、一つは「レイ・ニティキ・フィールド」と名付けられています。

 

「スタンドで観ている人たちがなんと言おうが、フットボールは、体力を競うスポーツではなく、精神力を競うスポーツである。」
レイ・ニティキ グリーンベイ・パッカーズLB、主将

「ハード・タックルの秘訣を知りたいって?簡単さ、ボールキャリアーが自分にぶつかるよりも強く、自分がボールキャリアーにぶつかればよいのだ。」
レイ・ニティキ

 


 「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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