【清水利彦コラム】「慶應高野球部、107年ぶり優勝」に想う 2023.09.14

清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

慶應高が夏の甲子園で優勝しましたね!
まさか、こんなシーンを自分が生きているうちに観ることができるとは、正直思っていませんでした。

まずは、私が三田会事務局長時代から長年ご指導をいただいた、慶應義塾高等学校校長の阿久沢武史先生(慶應高アメリカンフットボール部 前部長)に心からお祝いの言葉を送りたいと思います。
そして次に慶應高野球部歴代の指導者・部員・関係者、全ての方々に、お祝いの言葉と、私どもに感動を与えていただいたことの感謝を申し上げたいです。本当に有難うございました。このコラム読者の中にも、慶應高野球部出身者の方がたくさん居られますよね。おめでとうございます!!

「107年ぶり優勝」の価値

「107年ぶり優勝」という事実には、どのような意味、そしてどの位の価値があるのでしょうか?
いっぺん調べてみようと思い立ちました。野球は全くの門外漢で、私に調べる資格があるかどうかもわかりません。もし記載内容に誤りがありましたら、遠慮なくご指摘ください。

毎日新聞は「107年ぶり優勝」の価値を示すために、「選手権での優勝のブランク期間」というリストを掲載しており、慶應高の優勝ブランク期間の長さが際立っていることを示しています。

1位 慶應    107年ぶり 1916年~2023年
2位 作新学院  54年ぶり  1962年~2016年
3位 東海大相模 45年ぶり  1970年~2015年

夏の甲子園は正式名称を「全国高等学校野球選手権大会」と言い、春の選抜は「選抜高等学校野球大会」が正式名称です。春の選抜について同様のリストを私が作ると下記のようになりました。

1位 広陵    65年ぶり 1926年~1991年
2位 東邦    48年ぶり 1941年~1989年
3位 高松商   36年ぶり 1924年~1960年

つまり春・夏通じて、慶應高は断トツのブランクの長さ1位ということになります。
ちなみに慶應高は、春の選抜では優勝・準優勝ともに経験がありません。

もし将来、慶應高の優勝ブランク記録(107年)が抜かれる可能性があるとすれば、下記の伝統高校あたりでしょうか。

<夏>   関西学院高 1920年優勝以来 現在まで103年優勝なし
静岡高校  1926年優勝以来 現在まで97年優勝なし

<春>   関西学院高 1928年優勝以来 現在まで95年優勝なし
松山商業  1932年優勝以来 現在まで91年優勝なし

これらの学校が県大会で優勝して甲子園に出場するだけでも大変ですので、甲子園優勝となると本当に難しいです。もしかしたら、慶應高の107年ぶり優勝は永遠に破られない記録となるのかもしれません。
関学高が春・夏ともに甲子園優勝経験がある(当時は関学中)ことは知りませんでした。近年、関学高は古豪復活の兆しありと伺っています。今回の慶應高優勝で、最も刺激を受けたのは関学高野球部と言えるのではないでしょうか。

107年前にプレイバック!

では、107年前に慶應普通部が優勝した頃の様子を振り返ってみましょう。
慶應高は第2回大会の優勝校で、1916年(大正5年)8月に12校が参加しておこなわれた「全国中等学校優勝野球大会」にて、関東代表校・慶應普通部(東京)として参加し王者となりました。

その時の12校の顔ぶれは下記の通りです。

近畿4校 市岡中(大阪)、関学中(兵庫)、京都二中(京都)、和歌山中(和歌山)
東北1校 一関中(岩手)
関東1校 慶應普通部(東京)
東海1校 愛知四中(愛知)
北陸1校 長野師範(長野)
山陽1校 広島商(広島)
山陰1校 鳥取中(鳥取)
四国1校 香川商(香川)
九州1校 中学明善(福岡)

なんだか近畿に偏重しているように思えるかもしれませんが、当時近畿以外の地域からくまなく代表校を揃えるのは大変なことでした。
大正5年に岩手県の中学生チームが大阪までやってきて試合するのは、想像を絶する苦労と負担があったことと思います。当時、東京-大阪間の特急列車が11時間程かかっていましたので、岩手県一関市から大阪までは、24時間以上の長旅だったはずです。
おそらく「たかが野球のために、子供たちにそんな負担を強いる必要があるのか」という批判も出ていたことでしょう。それでも「全国各地域の代表校を一堂に集めて、日本一を決めよう」という意志のもと、大会を企画したのは素晴らしい決断でした。岩手の一関中は見事一回戦に勝利しています。
当時は12校からベスト4を公平に選ぶため「敗者復活戦制度」が導入されていました。
慶應普通部は1回戦6-2愛知四中、2回戦9-3香川商、準決勝7-3和歌山中と順調に勝ち上がり、決勝戦で大阪市の市岡中学と対決し、6-2で勝利しました。

決勝戦のスコア(毎日新聞に記載あり)を見て気付くこととしては、

  1. 両チームともスタメンの9名だけで試合を終えており交代出場選手はいません。
  2. 慶應の出場選手の中には「ジョン(2番・一塁手)」という名前があり、日系米人か駐留米人の子息が参加していたのではと想像します。WBCのヌートバー選手のような存在だったのでしょうか。
  3. 安打数が慶應4、市岡2と貧打戦でした。奪四死球は慶應4に対し、市岡0。当時は硬球の品質が劣り「飛ばないボール」の時代であったのだろうと推察できます。
  4. 慶應の山口投手は、被安打2、与四死球0、奪三振11と素晴らしい出来の完投でした。それなのに2点取られています。
  5. 慶應は4安打と4四死球だけで6点も奪ったことになり、最初は不思議に思いましたが、失策数を見て理解しました。なんと失策の数が、慶應9・市岡6と両軍合わせて15個のエラー合戦でした。
  6. 「慶應が9失策をしながらも、山口投手の踏ん張りでなんとか2失点に抑えたのに対し、市岡中は要所での6失策が響いて6点を失って負けた」というような試合ぶりが想像できます。

慶應が優勝した第2回大会は豊中グラウンドでおこなわれ、第3回~第9回は兵庫県の鳴尾球場での開催でした。第10回大会(1924年)の前に甲子園球場が完成し、それ以来開催地となりました。つまり今回の慶應優勝は甲子園球場での初めての優勝となります。

旧制中学(中学が5年制であり、中学から大学に直接入学する)の制度が続いた第29回大会(1947年=昭和22年)まで「全国中等学校優勝野球大会」がおこなわれ、第30回大会(1948年)から「全国高等学校野球選手権大会」という現在の名称に変更されました。

1917年ノートルダム大。左端ボールキャリアが伝説の名HBジョージ・ギップ。まだスタンドが満席にならない時代でした。(出典:Rites of Autumn, by Richard Whittingham)

慶應普通部が優勝した1916年がどんな状況かを示すために、同年の全米カレッジ写真を探したところ1917年のものが一枚だけ見つかりました。ノートルダム大のエースHBで、4年生最終戦の3週間後に肺炎のためこの世を去った伝説の名選手、George Gipp(通称ギッパー)が1年生デビューした時の姿です。
この当時の写真は、まだカメラの性能が低かったため、ほとんど全てが集合記念撮影のような静止画像で、私が所蔵する中では、これが最古の「動く姿を映した写真」です。当時これを見た人達は「走っている人間の姿がそのまま写真に映っている!」とさぞかし驚いたことでしょう。米国でこの状態ですから、日本でも「慶應普通部選手がヒットを打った瞬間の写真」とか「優勝の瞬間、抱き合って喜ぶ慶應選手」などの動く姿は、残されていないものと推察します。

「107年ぶり優勝」の価値を、他のスポーツ競技と比較する

他のスポーツ(チーム競技)において、「107年ぶり優勝」があるのかどうか確認してみました。

サッカーでは、「全国高等学校サッカー選手権大会」があり、これまで101回開催されています。慶應高は優勝経験がありません。
第1回は1918年1月に豊中グラウンド(なんと慶應が野球で優勝したのと同じ場所!)で行われました。ラグビーとの共同開催で、「日本フートボール優勝大会」という名称でした。(フットボールではなくフートボール!)つまりサッカーとラグビーは同じ年に始まっています。
ところが当時、関西には10以上の中学サッカーチームがありましたが、日本の他の地域にはサッカー部のある中学がほとんど存在せず、「参加申し込みさえすれば、すぐに出場できる」ような状態でした。「各地域の代表(優勝校)が集まって真の日本一を争う形態になったのは1934年頃から」との記述がWikipediaにあります。

ラグビーもサッカーと同じ1918年が起源ですが、こちらは現在「全国高等学校ラグビーフットボール大会」という名称で102回開催されています。サッカーよりも早く全国規模に展開していたようで、歴代優勝校の中に、京城師範(朝鮮)・台北一中(台湾)・撫順中(満州)など、現在は日本領土ではなくなった地域の代表校の名前があります。サッカーもラグビーも開催が107回に達していないのですから、慶應高野球部の記録を超えるブランク期間のものはありません。
ラグビーにおいては、1929年(昭和4年)慶應普通部、1954年(昭和29年)慶應高が優勝していますので、現在「慶應は68年間優勝なし」の状態です。

野球・サッカー・ラグビーに次いで歴史が長いのは相撲(全国高校総合体育大会相撲競技大会)の団体戦です。1919年からおこなわれており、慶應高は優勝経験がありません。

「全国高等学校総合体育大会バスケットボール競技大会」(インターハイ)はずっと遅く1948年に開始されています。インターハイのバレーボールも同じく1948年からです。どちらも慶應高の優勝はありません。

アメリカンフットボールは、全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会が1970年(昭和45年)からスタートしており、慶應高は1978年、1983年、2005年に優勝しています。

ついでに大学スポーツにも目を向けますと、あらゆる大学スポーツで100年以上前から日本一を決める大学選手権をおこなっていた競技は存在しないものと考えます。多くの大学選手権は、第二次世界大戦後に開始されており、一般的には「高校選手権の方が、大学選手権より長い歴史を持つ」ようです。

《慶應義塾大学の優勝》

  • 全国学生相撲選手権大会団体戦[1919年開始]:1923、1927、1928、1939(83年間優勝なし)
  • 全日本バレーボール大学男女選手権大会[1948年開始]:1951、1954、1964(58年間優勝なし)※女子の部は優勝なし
  • 全日本大学バスケットボール選手権大会[1949年開始]:1949、1950、1951、1957、1959、2004(45年ぶり優勝)、2008
  • 全日本学生柔道優勝大会団体戦[1952年開始]:なし
  • 全日本大学野球選手権大会[1952年開始]:1952,1963,1987,2021
  • 全日本大学サッカー選手権大会[1952年開始]:1961,1963,1969(53年間優勝なし)
  • 全国大学ラグビーフットボール選手権大会[1964年開始]:1968、1985、1999
  • 甲子園ボウル1947年開始]:1947、1949(73年間優勝なし)

※甲子園ボウルの歴史が、相撲以外のスポーツの大学選手権の歴史より長いことにご注目ください。ただし、甲子園ボウルはかつて「東西大学王座決定戦」であり、関西が関東の大学を招いておこなう招待試合であり日本選手権ではありません。全日本大学選手権を名乗ったのは2009年からです。

オマケの話ですが、米国には「全米高校フットボール選手権大会」は存在しません。「州ごとの高校選手権大会」があるだけです。「USA Today紙(1982年~)」など幾つかの機関が「数値的に見て、この高校が一番強いであろう」と思われる高校を選んで発表し、選ばれた高校が「我々が全米王者である」と名乗る習慣があります。複数機関が選ぶので、一年に複数の高校が王座となることが頻繁に起きています。(2012,2015年は6校が王座を名乗る)

全米カレッジフットボールも、「全米カレッジ選手権」がおこなわれるようになったのは、ごく最近の話で、かつてはAP(Associated Press)が1936年から始めた「記者投票により全米一を決める制度」であることは皆様ご存じでしょう。AP投票制度が出来てから最長のブランクは、オーバーン大(1957~2010年)の「53年ぶり優勝」です。

米国大学で最も歴史が長いと思われるのは、全米大学バスケットボール選手権で、1939年からおこなわれています。現在は68チームが参加する、超人気で大規模なトーナメント形式で王座が争われています。カンザス大(1952~1988)の「36年ぶり優勝」が最も長いブランクです。

全米大学野球選手権(College World Series)は、ネブラスカ州オマハで1947年から毎年開催されています。ただし使用している球場(Charles Schwab Field)が収容能力25000人ですから、甲子園球場(42600人収容)でおこなう日本の高校野球よりも注目度が低く、小規模のイベントなのであろうと推察します。オクラホマ大(1951~1994)の「43年ぶり優勝」が最も長いブランクです。

ネブラスカ州オマハで1947年から毎年開催されているカレッジ・ワールドシリーズ(全米大学野球選手権)出典:Wikipedia

「107年ぶり優勝」を果たすための条件

「107年ぶり優勝」が実現するためには、下記の条件が全て揃うという難しいハードルがあります。

  1. そのスポーツにおいて、「日本一を決める仕組み(選手権大会)」が107年以上前から実在していること。私が調べた範囲では、日本でこの条件を満たすのは「高校野球における夏の全国大会」しかありません。
  2. 107年前、その大会の発足時から、強豪校であり優勝できる力が無ければ実現できません。「歴史も、実力もあるチーム」のみが達成可能なわけです。
  3. 大昔に優勝したチームが、その後「107年間ずっと優勝できない状態が続いていた」場合のみ、実現可能です。「100年以上に渡り、挑戦し続けたが、負け続けた」という、つらい敗北の歴史を味わい続けた学校のみが実現可能な快挙だったのです。「すごく強い学校で、その後何度も優勝した」というチームには決して成し遂げられない記録でした。

「107年ぶりの優勝」に関する筆者の結論

今回の慶應高野球部の107年ぶり優勝は、日本のあらゆるスポーツにおいて、高校・大学・社会人を合わせても、「最長優勝ブランク期間日本一」の記録である可能性が極めて高い、と私は考えています。

6時間ほどネットで調べただけですので、まだ確認していない競技団体は山ほどあり、断定するのは拙速ですが、私には「高校野球より古くから、日本一決定戦(National Championship)をやっていた競技団体が他にあるとは、どうしても考えられない」のです。
どのテレビや新聞を見ても、「慶應高、107年ぶりの優勝」とは提示されていますが、「慶應高の優勝ブランク期間107年は、日本のスポーツ史上最長記録」と表示したメディアはありません。はたしてこれが、「快挙に気が付いていないだけか、あるいは、記録の裏付けが出来ていない」のか「もっと長いブランク期間の優勝が他にあると考えている」のか、興味深いところです。私は前者だと睨んでいます。

もしかしたら、「107年ぶりのNational Championship in Any Sports」は世界中を探しても見つからない、ギネスブック記録の可能性さえある、と私は思っているのです。

前述のとおり、米国には107年を超える全米選手権制度は存在しないようですのであり得ません。そうなると例えば、英国のサッカー選手権はどうか、などと考えます。
英国では「British International Championship」と名乗る4か国対抗(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド)のサッカー選手権が1884年(139年前、明治17年)からおこなわれていました。さすがに歴史がありますね。(※各チームが何度も優勝しているので長いブランクはない)

それならば英国の大学や高校で、107年を超える優勝ブランク記録が存在する可能性はありますが、Wikipedia等、平素私が使用している検索方法では見つけられませんでした。

慶應義塾で、「107年ぶりのNational Championship」について、他にそのような例があるか、手間をかけてでも一度調査をしてみるべきではないか、というのが今回の私の結論・主張です。もしかしたら、とんでもない価値のあることかもしれませんよ。

1903年、第1回早慶戦(大学)の記念写真(出典:ベースボールマガジン社)

さて、今回「107年前の慶應普通部野球部の写真」も探してみましたが、こちらも私には見つけられませんでした。唯一見つかったのは、「1903年(明治36年、120年前)第1回大学早慶戦」の写真です。
慶應と早稲田の選手が9名ずつ互い違いに座る、なかなかカッコいい構図の記念撮影です。よく見ると選手たちの足元は全員、地下足袋!まだスパイクシューズは存在しなかったのですね。右下の慶應選手のグローブも、革製というよりは手作りの布製グローブのように見えます。
この写真から13年後に、慶應普通部が中学選手権で優勝したわけです。この時はスパイクシューズや革製グローブは存在したのでしょうか。優勝した試合に失策が両軍で15回発生したのは、グローブやシューズ等の野球用具が未発達だったからかもしれませんね。

「107年前の慶應普通部野球部の写真」をお持ちの方がおられましたら是非ご一報ください!


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