清水 利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
追悼、ディック・バトカス
シカゴ・ベアーズのLB、ディック・バトカスが2023年10月5日、80歳でこの世を去りました。
バトカスがNFL選手としてプレーしたのは1965~1973年のわずか9年間。ちょうど50年前、私が高校3年の時に引退していますので、私自身、バトカスの活躍を生放送で観たことは一度もありません。
しかし、あらゆるフットボールの文献にバトカスの名前は出てきますし、たとえ50年が経過しても「私はフットボール通」と自称する米国人でディック・バトカスを知らない人は一人もいないでしょう。
ローレンス・テーラー、レイ・ルイスなど、傑出したLBはその後何人も現れましたが、彼らは常に「バトカスよりもスピードがある」「バトカスよりインターセプト回数が多い」「ディック・バトカス以来のスーパースター」等々、常にバトカスと比較され、評価されてきました。つまりディック・バトカスが「最強のLBのスタンダード(基準)」であったということです。
NFL実働9年間で、プロボウル出場8回、オールプロ一軍選出5回(二軍選出3回)。年間最優秀守備選手賞2回。スポーティングニューズ誌による「NFL歴代最高の選手百人」の中で第9位に選出(LBとしては、ローレンス・テーラーに次いで2位)されています。
数字的な記録よりも、彼が賞賛されるべき最大の理由は、「強烈なタックル」と「フィールドにおけるバトカスの圧倒的存在感」でしょう。
「ディック・バトカスは、金魚鉢に放り込まれた白鯨の如く、
圧倒的なパワーの差で周囲を支配する」
スティーブ・セイボル(NFLフィルム創設者)
という有名な言葉があります。
ディック・バトカスは、「NFL史上、最も恐れられたタックラー」としてその名を轟かせました。バトカスがプレーを終えてサイドラインに戻った後も、激しいヒットを受けてフィールド上でピクリとも動けず、横たわったままの相手チーム選手の姿が何度も目撃されています。
バトカスのプレーぶりについてはたくさんのサイトがありますが、下記の2つのYou Tube画像が優れていると思います。ただし、彼のタックルは現在のルールでは反則になるケースが多々ありますので、その点をご了承の上ご覧ください。
The Legend of Dick Butkus – YouTube 4分
Dick Butkus (Gladiator Mentality) Career Highlights – YouTube 7分半
バトカスには、ファン達からMonster of the Midwayという称号が与えられています。
ディック・バトカスは1942年シカゴ生まれ。生まれた時、体重が6100グラムの巨大な赤ん坊だったというのは有名なエピソードです。父親はリトアニアから移民としてニューヨーク・エリス島にたどり着き、シカゴの鉄鋼工場で作業員をしていた人で、英語を片言しか話せませんでした。母親は洗濯婦として朝から晩まで働いていました。
8人兄弟の末っ子として生まれたバトカスは、貧しい家庭の中で育ち、中学の頃から兄達とともに引っ越し屋のアルバイトをして働きました。重い家具を担いで運んだ日々が、彼に強靭な肉体を与えます。191㎝、111kgの大男になりました。
高校でFB兼ラインバッカーとして活躍。地元の名門イリノイ大学に進み、ここでも攻守両面(センター兼LB)でプレーします。彼の活躍によりイリノイ大学はBIG TENリーグ優勝し、ローズボウルにも勝利。彼はオールアメリカンに2回選ばれ、リーグMVPも受賞。のちにカレッジ殿堂入りも果たしています。野球選手(捕手)としても大活躍しました。イリノイ大学はバトカスの功績を讃え、大学キャンパス内に銅像を建てています。
1965年のドラフトでシカゴ・ベアーズから「第1巡3番目」で指名を受けます。バトカスはすぐに守備チームの中心となりましたが、残念ながら当時ベアーズは低迷期に入っていました。バトカスが入団する2年前、1963年にはNFLチャンピオンとなっているのですが、バトカスが在籍した9年間で、48勝74敗4分、勝率.393と、実は惨憺たる戦績でした。攻撃にRBゲイル・セイヤーズ、守備にバトカスという二人のスーパースターを抱えていたにもかかわらず、ベアーズはプレイオフに残ることさえ出来ませんでした。バトカスは「勝てないチームの中の孤軍奮闘の英雄」だったのです。
バトカスは膝の負傷が悪化し、31歳の若さで引退しています。1985年から「バトカス・アワード」が制定され、「カレッジの最優秀LB」に贈られることになり、のちに対象が「プロの最優秀LB」「高校の最優秀LB」にも広げられ、プロ・大学・高校の3名が同時受賞する珍しいアワードとなっています。彼の付けていた#51は、ベアーズの永久欠番となっています。
(ぶっ壊し屋として知られるディック・バトカスについて)
「あいつは君を『病院送り』にしようとしているのではない。
あいつは君を『墓場送り』にしようとしているのだ。」
ディーコン・ジョーンズ 殿堂入りしたラムズDL
新聞記者「あなたは、相手の選手を故意に負傷させようとしてプレーしているとの噂ですが、、、」
バトカス「そんなことはない。私は特別な試合でない限り、相手を故意に負傷させようと思ったことなど一度もない。」
新聞記者「では、その特別な試合とは、どんな試合を指すのですか?」
バトカス「NFLの公式戦全てだ。」
立教(3勝1敗)21-20早稲田(2勝1敗)
前回のコラムで、立教が法政にあと一歩まで迫ったが3-6で敗れた事に触れましたが、10月15日には、なんと立教が昨年の関東覇者・早稲田を1点差で破りました。しかも、第3Q残り5分の時点で、早稲田17-0立教とリードされていたのに、そこからの大逆転劇です。
第4Q残り5秒で、6点差で負けている立教が、早稲田陣20ydへパスを通しましたがインフィールドでタックルされ、そのまま時間が進み試合は終わりました。しかし、アウトオブバウンズに出たと判断した審判がクロックを止めるシグナルを出していたため、協議の結果、1秒を残して20yd地点からもう1プレーがおこなわれることになりました。その1秒で立教がヘイルメリーとも言えるパスを投げてタッチダウンとなったわけです。勝負が本当にギリギリのところで決まった、際どい試合でした。
この結果、慶應にとって思わぬ事態が生じることになりました。次の慶應vs立教戦が、「立教にとって58年ぶりの甲子園ボウル出場の可能性を残す試合」となってしまったのです。当然、立教は死に物狂いで勝利を目指してくるでしょう。
(法政が3勝0敗なので自力優勝は出来ませんが、法政が今後星を落とすと可能性が生じます。早稲田と明治も優勝の可能性を残しています)
しかし慶應も10月14日の中大戦で7-3の初勝利をあげています。
この試合で慶應は、「我慢して、我慢して、耐え忍んで、守り勝つ」という貴重な経験をしました。
まさに値千金の貴重な勝利だったと思います。この勝利によって、「自信を得て、大きくレベルアップした選手」が何人もいるだろうと確信しています。
立教戦も自信をもって堂々と戦い、「耐え忍んで、守り勝つ」という試合を再び見せてほしいと心から願っています。
慶應のオフェンス力が弱い、と言われていますが、中大戦では攻撃陣の新しい姿を見ることができました。4Q残り5:52、慶應が自陣4ydから攻撃権を得て、5分半を費やし3回のファーストダウンを奪いながら少しずつ前進し、最後にパントでフィールドポジションを回復させた時に、中大にはあと10秒しか残っていませんでした。思わず、「これだ!この攻め方でいいんだ!」と叫んでしまいました。見事な攻撃だったと思っています。攻撃チームも今回の勝利で大きな自信を得たのではないでしょうか。
ちなみに慶應が「7点以下しか取れなかったのに、勝利した試合」は、1950年以降73年間で8回しかありません。(1949年以前はロースコアの試合が多い時代で、幾度も発生しています)今回の中大戦7点勝利は、27年ぶりのこととなります。(データは関東連盟HPとユニコーンズ75周年史より)
1959年 慶應6-0立教 木暮主将の代
1976年 慶應6-0日大 岡本主将の代
1980年 慶應7-0早大 国分主将の代
1982年 慶應7-0東海 宇野主将の代
1987年 慶應7-0桜美林 山同主将の代
1990年 慶應6-0明治 岩崎主将の代
1996年 慶應6-3筑波 豊川主将の代
2023年 慶應7-3中大 鎌田主将の代
「自軍のディフェンス能力に自信がある時は、
オフェンスチームは、『ミスをせず、攻撃権を敵に渡さない』ことだけを考えろ。
しゃにむにタッチダウンを狙って、ファンブルやインターセプトにより
悪いフィールドポジションで、相手に攻撃権を渡すのは最悪だ。
攻撃がうまくゆかなくても、じっと我慢し、
パントでフィールドポジションを回復させ、
あとはディフェンスチームの力を信じて辛抱強く待っていればよいのだ。
そうすれば、今度は相手のチームがミスを犯して、
勝利への流れは自然と我々のものになる。」
「フットボールとは、ディフェンスとフィールドポジションによって
勝ち負けが決まるスポーツである。」
史上最強のディフェンスコーチとして名高い
ロバート・ネイランド テネシー大コーチ
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
https://footballquotes.fc2.net/
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