【清水利彦コラム】連続企画「フットボールの歴史を彩る一枚の写真」第1回:1946年、ノートルダム大vsアーミー atヤンキースタジアム 2022.09.15

2022/9/15
昭和52年(1977年)卒 清水利彦
shimizu.toshihiko2@gmail.com

全米カレッジフットボールが開幕していますが、当初からランク上位校がどんどん負けていく驚きの展開になっています。(カッコ内は試合前までのランキング。勝った方のチームは全てランク外)

<第一週>
フロリダ大 29-26 ユタ大(7)

<第二週>
アパラチアン州立大 17-14 テキサスA&M大(6)
マーシャル大 26-21 ノートルダム大(8) ※初戦に続き2連敗
ブリガムヤング大 26-20 ベイラー大(9)

「マーシャル大学?なんだそりゃ?そんな聞いたことがないような大学にノートルダムが負けたのか?」と信じられない方はYou Tubeにて「Marshall Upsets #8 Notre Dame/2022 College Football」をご確認ください。
マーシャル大学は1837年にウエストバージニア州で創設された由緒ある伝統校です。フットボール部は過去に全米ランク10位が1回だけと、たしかにあまり強くありません。1970年にチームが乗った飛行機が墜落し、部員75名が亡くなるという大惨事が起きたことで広く知られています。今回のノートルダム大戦勝利が同校フットボール部の歴史で最高の瞬間であったことは間違いないでしょう。

マーシャル大学キャンパス内にあるスタジアム。チームカラーは若草色ですが、若草色一色ではかえって目立たなくなるため、スタンドを白と若草色で埋める作戦をとっています。出典:Wikipedia

ユタ大やテキサスA&M大も負け、「清水が応援するチームは、コロコロ負ける」という伝統は今年も引き継がれているようです。

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さて、私がフットボールに関する、名言集・歴史本などの英語原書のコレクターであることはご存じの方が多いと思います。全部で120冊ほどあり、この中には私がかつて金欠の貧乏生活をしていた頃、先輩諸氏のご寄付により購入できた本が何冊もあり、今でも心から感謝しております。

120冊の内、10冊ほどがフットボール写真集です。30年程前、米国出張の際にニューヨークで35ドルにて1冊の写真集を買い求め、非常に重たいので大汗かいて日本に持ち帰りました。先日アマゾンのサイトで何気なくその写真集を検索してみたところ、「絶版につき新品の在庫なし。中古本30,000円以上」と表示されたのでびっくりしました。いつの間にか、本の価値がとても高まっていたのです。

これらの写真集については、私が死ぬまでUnicorns Netに掲載を続けても、全てをご紹介することは出来ないほどのボリュームがあります。そこで今回から、「連続企画:フットボールの歴史を彩る一枚の写真」というシリーズを開始することにいたしました。連続といっても毎回これを続けるのではなく、従来通り「○○物語」「速報○○」などの読み物を普段は掲載します。その合間において「今週は休載」ということはなるべくやめて、様々な写真の紹介を少しでも多くしてゆこうという意図です。

フットボールの歴史を彩る一枚の写真

記念すべき第1回の写真は、「1946年11月9日、ノートルダム大vsアーミー」を選びました。
これがその写真です。

1946年、ノートルダム0-0アーミー。
出典:Rites of Autumn by Richard Whittingham

中央のアーミー#81はただのブロッカーであり、主役ではありません。右端で倒れているアーミーFB#35ドク・ブランチャード(1945年、3年生でハイズマン賞受賞)が一瞬独走となり、TDかと思われました。しかしノートルダムのQB兼DBジョニー・ルージャック(1947年ハイズマン賞受賞)が必死に追いすがり、失点を食い止めたため、両軍0-0の引き分けに終わったのです。

この写真は、写真の出来そのものよりも、試合の歴史的背景にとてつもない価値があります。

  1. 当時の全米王座は、1943年ノートルダム、1944年アーミー、1945年アーミー、1946年ノートルダム、1947年ノートルダム、と5年続けて両校が分け合っていました。そのさなかで1946年11月、全勝同士の両校の対決が実現したのです。最高の2チームの激突が見られるとあって、会場はニューヨークのヤンキースタジアムが選ばれ、超満員74000人が注視する中でおこなわれました。
  2. 1944,1945年に2年続けて全勝でチャンピオンとなったアーミーは、この時点で引き分けも挟まずに25連勝しており、3年連続の王座を狙っていました。一方、ノートルダムは直近2年でアーミーに0-59、0-48と完敗しており、前評判はアーミーが有利でした。試合場観客席にはドワイト・アイゼンハワー将軍(のちの第34代アメリカ合衆国大統領)以下、陸軍の最高幹部がずらりと並び、フィールド上では、なんと2100名の軍服姿の陸軍下士官によるマーチングドリルがおこなわれました。
  3. この試合は、レッド・ブレイク(アーミー)とフランク・リーイ(ノートルダム)という二人の伝説の名コーチの激突でもありました。レッド・ブレイクは25年間で166勝48敗14分 .759 全米王座2回。フランク・リーイは13年間で107勝13敗9分 .864 全米王座4回。レッド・ブレイクはのちにビンス・ロンバルディを攻撃アシスタントコーチとして採用し、名コーチに育てています。また、リーイのコーチ在職期間が短いのは、途中、陸軍士官として戦争に参加していた時期があるからです。
  4. この試合には先述のブランチャードとル―ジャックの他に、1946年ハイズマン賞受賞のグレン・デイビス(HB、アーミー)も出場しており、フィールド上には3人のハイズマン賞受賞者がいたことになり、歴史上、極めて稀な現象です。
  5. 結局この試合は0-0の引き分けに終わりましたが、その後両軍とも残り試合を勝ち続け、アーミー9勝1分、ノートルダム8勝1分の戦績でシーズンを終えました。AP Pollの投票結果は僅差にて、ノートルダム1位(全米王座)、アーミー2位、となり、アーミーは3年連続王座の偉業を達成できませんでした。アーミーは、引き分けを含む連勝記録をその後も続けましたが、1947年10月にコロンビア大学に20-21で敗れ、30連勝でストップしました。

この試合が1946年におこなわれたことにもご注目ください。つまり第二次世界大戦(1939-45年)終戦の翌年です。日本はこの時、焦土・焼け野原となっており、国民は飢えに苦しんでいました。
ところがアーミー(陸軍士官学校)は戦争中の1939-45年も、一度も部活動を停止することなくフットボールに勤しんでいました。「軍人を養成するための学校」なのに戦争が始まっても、選手は前線に送られることなく、フットボールに精を出し、数万人の観衆から熱狂的声援を受けていたわけです。
一方、ノートルダム大では数名の主力選手が徴兵に取られており、戦力が低下していました。更にひどかったのがNFLです。たくさんの選手が徴兵で駆り出され、チームを組むのに必要な人数を割ってしまった球団が出ました。例えばピッツバーグ・スティーラーズは兵役による人数不足のため、1943年の一年間だけはフィラデルフィア・イーグルスと合併し、「スティーグルス」という仮の名称でシーズンを戦っています。

この写真では観客席の様子が克明に映し出されており、「スタジアム観客席フェチの清水」としては、涎が出そうな一枚です。
当時は世の中に「カジュアルウェア」という概念が無く、服装と言えば「仕事や教会に出かけるためのおしゃれ着」と「労働をするための作業着」しかありませんでしたが。したがってスタジアムには皆、スーツ・ネクタイ・コート姿で出かけ、ご婦人もドレスの上にコートを着ています。
サイドラインの選手たちのすぐ側まで観客が座っており、ぐちゃぐちゃですね。チームエリアなどという概念は無かったのでしょう。

シーズン終了後、記者投票の結果により僅差で全米王座に選ばれたノートルダム大ですが、記者たちに「おめでとうございます!」と言われたノートルダムのコーチ、フランク・リーイは次のように答えています。

「わが校が全米チャンピオンになれたのは良いことだが、コーチである私にとっては、負け試合と引き分け試合には何の差もない。勝たなければ全く意味はないのだ。だから私にとってアーミーとの試合は敗北にすぎないのだ。」

ノートルダム大選手に指示を与えるフランク・リーイ・コーチ
出典:Rites of Autumn by Richard Whittingham

このノートルダム0-0アーミーの試合は、その後「The College Football Game of the Century」(20世紀最高のカレッジフットボール試合)と呼ばれるようになりました。

 


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