【清水利彦コラム】ジョニー・ユナイタス物語「黄金の腕を持つ男」中編 2022.06.02

清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

1956年、ユナイタスは控えQBとして雇われ、ボルチモア・コルツの一員になることが出来ました。当時コルツはまだ球団創設4年目で、一度も勝ち越したことがありません。
ユナイタスのチャンスは意外に早くやってきました。一軍QBのジョージ・ショウが6戦目で足を骨折し、フィールドに送り出されたのがユナイタスでした。ところがプロ・デビューは惨憺たる結果に終わっています。プロQBとして最初のプレー(パス)をインターセプトされ、リターンTDされました。次のシリーズでも第1ダウンにユナイタス自らがファンブルし、リカバーされています。

ここで腹を立てずに、じっと我慢しユナイタスを使い続けたのが、ウィーブ・ユーバンク・コーチの慧眼でした。ユナイタスは残り7試合を全て任され、3勝4敗の結果を残しました。パス成功率55.6%は新人QBとしては上出来の結果でした。翌1957年の開幕戦からスタメンQBとなったユナイタスは、ここから16年に渡り、コルツの不動のエースQBとして君臨します。
1957年はコルツを初の勝ち越し(7勝5敗)シーズンに導き、1958年にはNFL選手権に初めて出場し、ユナイタスは「The Greatest Game Ever Played」と呼ばれる、歴史に残る試合の主役を演じ、コルツは初のチャンピオンとなります。

The Greatest Game Ever Played 1958年NFL選手権延長戦、決着の瞬間です。実はこれはUnicorns Net1811号に掲載した写真と全く同じ場面ですが、複数のプロカメラマンが撮影していたため、少しずつアングルを変えて幾つもの写真が存在します。この一枚が、ヤンキースタジアムの満員の様子が一番良く現わされています。(出典:The Football Book, Sports Illustrated)

当時は、パス成功数、TDパス獲得数などのスタッツは、ユナイタスが断トツであり、ユナイタス一人のために存在する数字のように思えました。コルツの二人のチームメイトが、ユナイタスの優れた資質について次のように述べています。

「ユナイタスよりも肩が強いQBならば、NFLにはいくらでも居る。
しかし、パスに関する『タッチの柔らかさ』と『絶妙なタイミング』については
彼の真似を出来る者はいない。」

TEジョン・マッケイ

「ユナイタスが投げたパスを捕るのは実に簡単だ。
定められた場所に走っていって、定められたカウントで振り返れば、
まるで桃の実が木にぶら下がるように、眼の前にボールがぶら下がっているのだ。」

WRジミー・オア

ユナイタスが登場する前の時代、1930年代、1940年代のNFL試合のスタッツを見ますと、ランプレーとパスプレーの比率が、ラン75%:パス25%とか、ラン70%:パス30%などと、極端にラン重視になっている試合が多いことがわかります。「ランで敵のラインをじりじりと後退させ、そこにパスを挟み込んで一発ゲインを狙う」というような戦法が主力だったのです。
しかしユナイタスの出現によって「パスでプレーを組み立て、パスでTDを奪う」ことの醍醐味を、フットボールファン達は知ることになりました。
ユナイタスが現役選手の時の「TDパス回数歴代ランキング」は、下記のようになっていました。

  1. ジョニー・ユナイタス 290回 1956-73年 実働18年
  2. Y.A.ティトル242回 1948-64年 実働17年
  3. ジョージ・ブランダ236回 1949-75年 実働27年
  4. ボビー・レイン196回 1948-62年 実働15年
  5. サミー・ボー187回 1937-52年 実働16年

参考 ジョー・ネイマス 173回 1965-77年 実働13年

現代ではトム・ブレイディの624回を筆頭に、TDパス400回以上だけでも8人いますので比較になりませんが、ユナイタスは「パスをあまり投げない時代の、パスの神様」のような存在であったと言えるでしょう。185cm、88kgと立派な体格になっていたユナイタスは、パスだけでなく、自らキャリアーとして怪我を恐れず突進することもあり、ファンから熱狂的に支持され愛されました。「自分は〇〇チームのファンであり、特にコルツが好きなわけではないが、ジョニー・ユナイタスだけは大好き」というようなファンもたくさん現れました。例えが古くて恐縮ですが、「巨人軍は嫌いだが、長嶋茂雄は大好き」というような人も多くいた頃の現象に似ています。ユナイタスはまさに、国民的英雄だったのです。

1969年、女性に人気絶大のユナイタス プロフットボール選手でありながら、歌手や映画俳優を凌ぐ人気があり国民的英雄となったのは彼が第一号(出典:The Football Book, Sports Illustrated)

コルツは1958、1959年と2年連続でNFL選手権の覇者となりますが、その後はユナイタスが大活躍を続けたにもかかわらず、1960年からは6勝6敗、8勝6敗、7勝7敗と平凡な戦績が3年続きました。するとコルツのオーナーは、それをコーチの責任と考え、ウィーブ・ユーバンク・コーチのクビを切ってしまいます。後任に選ばれたのは33歳のドン・シュラで、当時NFL最年少コーチとなりました。ドン・シュラはコルツとドルフィンズの合計33年間で328勝を挙げて、NFL史上最多勝コーチとなる人物です。2代続けて優秀なコーチに恵まれたのはユナイタスにとって幸運でした。

ドン・シュラのコーチ就任2年目である1964年から67年までの4年間はコルツの好成績が続きましたが、あと一歩及ばず優勝を逃しています。ビンス・ロンバルディ率いるパッカーズがまさに黄金時代を迎えていました。

1968年度はフットボールファンにとって忘れられない、時代の転換期となった年でした。この年、ユナイタスは35歳になっていました。
1966年度からNFLと、新興リーグAFLの優勝チーム同士が決勝を争うことになり、これがスーパーボウルと呼ばれます。第1回、第2回のスーパーボウルはNFLグリーンベイ・パッカーズが圧勝し、「やはり老舗のNFLの方がずっと格上だな」という印象をファンに与えました。
そして第3回スーパーボウルは、NFLボルチモア・コルツと、AFLからは新進QBジョー・ネイマス率いるNYジェッツの組み合わせになりました。コルツをクビになったウィーブ・ユーバンク・コーチが、ジェッツのコーチとなっており、「ユーバンクの復讐戦」という要素が注目を集めました。
圧倒的にコルツ有利の前評判だったのに、試合前からネイマスが「絶対ジェッツが勝つ」と公言して回り、「ほら吹きジョー」と呼ばれ、プロフットボール史上最大の番狂わせでジェッツが勝利した有名な試合です。私はこの試合を「ユナイタスvsネイマスの決戦」であり、「武蔵vs小次郎の一騎討ち」のような真剣勝負であったのだろうと勝手に想像していました。

1969年1月、第3回スーパーボウル 於マイアミ・オレンジボウル ジェッツ16-7コルツ ネイマスからのパスをレシーブするジェッツWRジョージ・サウアー。当時は観客席とフィールドの仕切りがなく、サイドラインに選手・観客・警備員・報道関係者・カメラマンなどがごちゃ混ぜに居た様子がわかります。(出典:The Football Book, Sports Illustrated)

ところが今回、スタッツ等を色々調べてみたところ、全く異なる新事実が見つかりました。実は1968年度はユナイタスのプロキャリアの中で最悪の年でした。開幕直前に右肘を負傷し、彼はレギュラーシーズン14試合にほとんど出場していないのです。ユナイタス欠場にもかかわらずコルツは勝ち続け、控えQBアール・モーラルが立派に代役を務め、その年NFLのMVPを獲得しています。実はユナイタスは数年前から右肘に痛みを抱えていましたが、そのことを隠してプレーしていたのでした。

第3回スーパーボウルもコルツ先発QBはアール・モーラルでしたが、モーラルはインターセプト3回と絶不調。「ユナイタスを出せ!」というファンの声に押されて、完調ではないユナイタスが第3Q途中から起用されましたが、試合の流れを変えることが出来ず、TDパスはゼロ、インターセプト1回に終わりました。
一方、ジョー・ネイマスは「ほら吹き」と言われたわりに、極めて堅実なプレーに終始しました。TDパスが無いがターンオーバーもゼロ。ランによるTD1回とFG3回をコツコツと積み重ね、16-7でジェッツが勝利しました。派手な活躍は何もなかったのにネイマスがMVPに輝いています。
ネイマスは、ほらを吹いたのではなく、「ユナイタスが活躍できないコルツならば、ジェッツが勝てる」という冷静な分析をしただけだったのであろう、という印象を持ちました。初めてAFLのチームがNFLの王者を倒し、その事実が1970年の両者の合併に繋がってゆきます。

35歳にして黄金の右腕を負傷していることが明らかになり、多くの人が「ジョニー・ユナイタスはもう終わった」と感じました。しかし彼は、ここから奇跡のような復活を果たすのです。
(ジョニー・ユナイタス物語 後編に続く)


<追記> 前号にて、「ジョニー・ユナイタスへの憧れが強すぎたあまりに、生まれた息子に『ゆないたす』と命名した日本人フットボールファン」の話を書きましたところ、昭和45年卒、高木晴彦さん(元監督)から次のような貴重な情報をいただきました。感謝して掲載します。

息子に「ユナイタス」と名付けたのは、森龍彦さんです。
ユナイタス君の漢字表記はたしか「勇奈威太(汰)須」だったような気がします。最初の3文字は間違いないと思いますが、後の2文字は自信がありません。
森龍彦さんは京都大学ボクシング部出身ですが、卒業後アメリカンフットボールにのめりこみ、ご自身はプレーをしませんでしたが、京大の水野彌一さん(元監督)や早稲田の久保田薫さん(QBクラブ社長)等を巻き込んで、社会人チーム「サイドワインダーズ」を作り上げ、当初は監督の肩書でした。中心選手は立命の平井君(元監督)や早稲田の二木君(元総監督)等、当時のそうそうたる東西の選手が、森さんのフットボールに対する情熱に惹かれて集まり、私もその一員でした。
このチームは関西の絶対王者であった関学を打倒することがひとつの目標であり、大変モラルの高いチームとなり、結果的に当時の日本最強チームとなりました。このサイドワインダーズの活動を通じて、京都大学や立命館大学が強豪チームへと成長し、関西におけるアメリカンフットボールのレベル向上、人気拡大に繋がりました。この意味で森さんは日本フットボール界にとって隠れた功労者であると思います。
森龍彦さんは残念ながら数年前に亡くなられたと伺っています。森さんの情熱と功績に感謝し、ご冥福をお祈りいたします。参考まで、森さんの手書きによる「サイドワインダーズの理念」を添付します。

森龍彦氏作成によるサイドワインダーズ理念(提供:高木晴彦さん)

 

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