【清水利彦コラム】永遠のライバル・シリーズ 「パッカーズvsベアーズ」その5 パッカーズ誕生の歴史[後編]2024.08.02

2024/8/1
昭和52年(1977年)卒 清水利彦
shimizu.toshihiko2@gmail.com

パッカーズ誕生の歴史(前号から続く)

創設期のNFLは、シカゴ・ベアーズやニューヨーク・ジャイアンツなどの大都市チームと、グリーンベイ、デイトン、フランクフォード、ポッツビルなどの地方小都市チームが混在している状態でした。組織としても競技としても未熟でした。パスプレーは少なく毎回中央突破の激突が繰り返され、大騒ぎする観客の前で殴り合いのケンカが起こるのが当たり前だったのです。今では信じがたいことですが、観客席や選手の更衣室では、試合結果や得点差に金を賭けるギャンブルが公然と行われていました。

他の小都市チームでは創設と廃部が頻繁に繰り返されていましたが、ランボーは常勝軍団を作り上げ、グリーンベイのファン達はチームを持てることを心から誇りに思っていました。1925年には本拠地をグリーンベイ東高校に接するシティ・スタジアムに移し、1920年代後半にはシカゴ・ベアーズとの対戦が当時最高の観客7千人を集めるようになりました。
ただしシカゴ・ベアーズは野球場であるリグレー・フィールドを既に本拠地としており、毎試合1万人を超える観客を集めるようになっており、両軍の経営力にはかなり差がついていました。

ランボーは30歳で選手を引退しましたが、コーチ専任となった1929年はディフェンスが13試合でわずか20点しか許さず、全勝でNFLでの初優勝を遂げました。シカゴでの遠征試合で優勝を決めたパッカーズが汽車でグリーンベイ駅に帰ったとき、一万人のファンが出迎えてチームを歓迎しました。当時の市の総人口は4万人程度ですから、一万人が駅で出迎えたのは大変な事でした。その夜グリーンベイ市内の酒場は全て明け方まで営業し、市民たちは乾杯を繰り返しました。
この時から「アウェイの試合で優勝を決める、あるいは重要な試合に勝つ、等が起こった時は、市民たちが駅や飛行場で選手たちを出迎え、祝福する」のが、グリーンベイ市の習慣となりました。

その翌年、パス攻撃を好んだランボーは、チームのタオルボーイを務めていた地元生まれの少年アーニー・ハーバーの才能を見いだし、トライアウトを受けさせてパッシングQBに起用しました。1930年と31年にはハーバーがパスを投げまくる大活躍で優勝を繰り返し、3連覇となりました。

1930年、2年連続2回目の優勝をとげたパッカーズ。胸の真ん中に小さく番号が記されていますが、これでは観客からは見えませんね(笑)

1929年に世界的大恐慌が起こり、経済が平常に戻るまで10年ほどかかりました。
1931年シティ・スタジアムでベアーズを破ったときには1万3千人が詰めかけ、パッカーズの財政は今後安泰かと思われました。しかし一人の観客がスタンドから墜落して負傷し、チームを訴えて勝訴したため、パッカーズは再び株式を発行して1万5千ドルを集めなければならなくなりました。大恐慌が小都市のチームの財政を圧迫し、廃部するチームが続出しました。財力豊かなシカゴやニューヨークのチームと競い合うのは非常に難しくなってきたのです。

そんな中でもパッカーズは強運を持っていました。ランボーがアラバマ大卒のエースWRドン・ハトソンを獲得したのです。ハトソンは当時NFL史上最高のプレーヤーと賞賛されました。
パスの多用を促進するルールに変更されて、「アラバマの鹿」と異名をとったハトソンの走力とレシーブ力は脅威の存在となりました。パッカーズは1936年、39年、44年と優勝を積み重ね、ハトソンは年間パスレシーブ50回を超えた最初の選手となりました。

「私はコーチとしてパス攻撃を得意とし、優秀なレシーバーを持つことを夢見ていた。そして、パサディナでおこなわれたローズボウルの大学試合(アラバマ34-14USC、観客9万3千人)を観に行ったところ、夢の中で見た理想的なレシーバーが目の前に現れたのだ。それがドン・ハトソンだ。」
    カーリー・ランボー グリーンベイ・パッカーズ・コーチ

ハトソンのプレーぶりをご覧になりたい方は下記You Tube画像でどうぞ。(5分)在りし日のカーリー・ランボーの姿もご覧いただけます。
Don Hutson – Poetry in motion (youtube.com)

1945年、「アラバマの鹿」と呼ばれたWRドン・ハトソン。スポーティングニューズ誌が選んだ「NFL歴代最高の選手100人」の第6位に輝きました。WRとしてはジェリー・ライス(49ers)に次いで第2位でした。 出典:The Football Book, Sports Illustrated

1929年からの16年間で6回NFL王座に着き、パッカーズの第一期黄金時代となりました。

日曜の試合にはシティ・スタジアムが超満員となり、グリーンベイ市民にとってパッカーズの試合が最高の社交舞台となりました。日曜朝には仲間が集まってパーティーをしてからスタジアムに向かうのが習慣となり、男性はスーツ、女性はドレスを着てハイヒールを履き帽子をかぶって毛皮のショールを羽織るのが常でした。着飾った人々は試合前に優雅に散歩し、試合後にはサパークラブで食事を楽しんだのです。

市民たちはチームの勝利を心から願っており、たとえ負けたときでさえもシカゴやニューヨークのチームに対しては胸を張っていました。しかしながらチームを11年間に渡って勝利に導いたドン・ハトソンは1945年に引退し、その後パッカーズは急速に下降をたどりました。

当時、高まったプロフットボールの人気は大都市に集中していました。ライバルリーグであるAAFC(All-America Football Conference=ブラウンズ、49ers、コルツが現在も存続 )が発足し、金に糸目をつけずに好選手を引き抜いており給料は高騰しました。優秀選手を大都市のチームに引き抜かれたパッカーズは、1948年3勝9敗、1949年2勝10敗となりました。パッカーズはあっという間に時代遅れのチームとなってしまっていたのです。

ジャイアンツがヤンキースタジアムで試合をし、ラムズがロサンゼルス・コロシアムで試合をするのに対し、パッカーズは依然としてグリーンベイ東高校隣の古く狭い球技場でプレーしていました。優勝どころか強豪チームと対等の試合をすることさえ困難になっていました。

中年となったランボーは依然ハンサムで、プレイボーイのように振舞っていました。彼はシーズンオフになるとカリフォルニアに移ってハリウッドの映画スター達と遊び呆けていましたが、そんなランボーに対しファンは次第に嫌気がさしていたのです。負けが込んできて彼とパッカーズ理事会との関係は芳しくないものとなってきました。理事会はランボーの持つ権限をしだいに縮小しようと画策し、選手との契約交渉などの重要事項は執行委員会にゆだねられるようになりました。1949年、ついにランボーは30年前に自分が創設したチームを退任し、シカゴ・カージナルスのコーチに転出しました。
カーリー・ランボーは、パッカーズのコーチとしては29年間で209勝104敗21分、勝率.668、優勝6回という輝かしい戦績を築きましたが、他チームに移ってからは4年間で17勝28敗1分と低迷したあげく、引退しています。プレイボーイの名をほしいままにし、3回の離婚を繰り返したランボーは、1965年67歳で心臓麻痺のため急死しました。死亡時に付き合っていたガールフレンドは、パッカーズのチアガールだったと言われています。

ランボーが去った後、執行委員会の権限はさらに増えましたが、財政困窮から脱せず1950年には再び12万ドルの株式増資をおこないました。唯一の救いは、戦績低迷にもかかわらず、ファンがチームを見捨てようとはしなかった事です。
ある日、一人の老女が球団事務所にやってきて、100枚の25セント硬貨を差しだし、「愛するパッカーズを助けたいので、これでチームの株(25ドル)を一株だけ売ってください」と申し出た、という泣ける逸話が残されています。

テレビの人気と重要性が飛躍的に増して、今や国中の数百万の家庭にNFLの中継が放送されるようになりました。ファン達は日曜ごとに繰り広げられるフットボール試合に釘付けとなりました。観客数はうなぎ登りとなり数十年の苦闘の後ついにプロフットボールは一流の人気スポーツとなったのです。
しかしこれらの繁栄からパッカーズは取り残されていました。アウェイのラムズ戦で7万5千人、49ers戦では5万9千人、ライオンズ戦で5万4千人の観客を集めるのに、シティ・スタジアムでのパッカーズの試合にはわずか1万人しか来なかったのです。

パッカーズの評判が余りにも惨憺たるものだったため、他のチームでは給与面で文句を言う選手がいると、「グリーンベイにトレードするぞ。NFLのシベリアに行きたいのか。」と言って脅すのが当たり前になっていました。いつの間にかパッカーズは安物の二流チームに成り下がっていたのです。

彼らの強化合宿は人里離れた田舎町の高校グラウンドを借りておこなわれたため、夜間照明が暗く、夕方の練習でパントを蹴ると球がどこかに消えてしまう有様でした。他のチームが遠征で一流ホテルに泊まるのに対し、パッカーズは路地裏の安モーテルに泊まり、球団が配るサンドイッチで腹を膨らせていました。他チームが新型飛行機で移動するのに対し、パッカーズは小型で旧式のプロペラ機2機を借りて、ポジションごとに選手を2機に振り分けて乗っていました。ボロボロの飛行機なので、いつ墜落しても不思議ではなく、万一1機が墜落しても、戦力の半分を失うだけで済ますという配慮に基づくものでした。

1955年になるとチームは呆れるようなコスト削減をおこないました。カリフォルニアへの遠征に飛行機を使わず、なんと片道2泊3日かかる汽車で行けと命じたのです。途中ユタ州にて停車時間中に練習をおこなったりして何とか選手の体調を維持しようとしましたが、三日間食べ続け・飲み続けでトランプゲームに耽っていた選手たちは生気を失い、試合には大敗しました。

1956年、クリーブランド・ブラウンズからパッカーズにトレードされたOLジョン・サンダスキーは空港から外の景色を見て、「ああ、ここが地の果てグリーンベイか」とため息をつきました。デトロイト・ライオンズのOTノーム・マスターズがパッカーズにトレードされたと聞いて、地元デトロイトで生まれ育った妻が思わず泣き出してしまいました。

1974年、パッカーズvsバイキングス。パッカーズは豪雪の中で闘っている姿が一番美しいと思います。撮影者は伝説のパッカーズ専属カメラマン、バーノン・ビーバーの長男、ジョン・ビーバーです。 出典:The Football Book, Sports Illustrated. Photo by John Biever

1950年代半ば、パッカーズは財政の状態も戦績も非常に悪く、ついに本拠地をグリーンベイからミルウォーキーに移す計画をしているとの噂がたちました。ミルウォーキーには5万4千人収容できる新しいスタジアムがあり、1953年大リーグ野球の本拠地として、ボストン・ブレーブスを誘致し、ミルウォーキー・ブレーブスとしてリーグ優勝2回、ワールドシリーズ制覇を1回成し遂げ、集客最高記録を更新するという成功例を持っていました。(※現在のアトランタ・ブレーブス。今のミルウォーキー・ブリュワーズとは異なるチーム)
パッカーズもシーズン中のホームゲーム6試合のうち2試合をミルウォーキーで開催していましたが、ブレーブスほどは観客を集めていませんでした。グリーンベイを完全に引き払って大都市ミルウォーキーに移れば再び勝利の栄光を得られるのではないかと、経営陣は秘かに考えていたのです。

NFLの他チームのオーナー達は、パッカーズの移転説に反対しませんでした。彼らにとって、「小都市グリーンベイにチームを持つことのロマン」などどうでもよかったのです。当時NFLのルールでは、入場収入の40%を対戦相手チームが得ることになっており、パッカーズはロードゲームにおいて、超満員の観衆の恩恵を得ていましたが、客の少ないホームゲームでは相手チームに恩恵を与えることは出来ませんでした。他球団のオーナー達は、パッカーズが自分たちの足を引っ張っていることに不満を抱いていました。

しかし結局、パッカーズがミルウォーキーに移転することはありませんでした。シティ・スタジアムがあまりにも老朽化していたため、市の西側に新しいスタジアムの建設を着手したばかりだったのです。1956年春、住民投票の決定により建設基金募集が開始され、1957年9月には32,500名収容できる新しいシティ・スタジアムが完成しました。グリーンベイ市民が大株主であるパッカーズが、市民の基金で建てた新スタジアムを捨てて出ていく事など出来るわけがありませんでした。

新スタジアム完成のタイミングが、今思えばグリーンベイ市民にとって最高の幸運でした。建設プランが出る前に移転の話が進んでいたら、今頃はミルウォーキー・パッカーズと呼ばれていると思われます。
驚くべきことに、この新スタジアムが当時はNFLで唯一つの「フットボール専用スタジアム」でした。他の11チームの多くは野球場と兼用のスタジアムを使用していました。

しかし、どんどんチームの状況が悪くなるのを目の前にして、パッカーズファンには、一体どのようなプロフットボールチームを持つべきかさえ見えていませんでした。大都市チームをライバルとして戦い、長年にわたり優勝を重ねて、田舎の町を「全米有数の有名なフットボールの町」にしたパッカーズをファンは心から愛していました。本当に素晴らしい過去の歴史があったのです。
だが、現実には、もう二度とチームは勝てないように思えました。
そんな時、最後の望みを託されてグリーンベイにやってきたのが、ビンス・ロンバルディでした。

※この後、ロンバルディが弱体化したパッカーズをどのように立て直すかは、私のブログの中の長編物語「ロンバルディのファースト・シーズン」に詳しく描かれていますのでお読みください。
ビンス・ロンバルディのファースト・シーズン – アメフト名言・迷言集 (fc2.net)

ランボー・フィールドについて

1957年に新しく建設されたスタジアムは、当初ニュー・シティ・スタジアムと呼ばれていましたが、1967年カーリー・ランボーの死去の2か月後、ランボー・フィールドと命名されました。晩年はパッカーズから追い出されるようにチームを去ったランボーではありますが、創始者であり、初代コーチとして29年間で6回チャンピオンになった彼の功績を、ファン達は忘れていなかったわけです。
スタジアムの住所は、ビンス・ロンバルディの死後、グリーンベイ市ロンバルディ通り1265番地と呼ばれることになりました。スタジアムの入り口には、ランボーとロンバルディ、二人の銅像が設置されています。

ランボー・フィールド入り口に置かれた、カーリー・ランボー(奥)とビンス・ロンバルディの銅像。  出典:Wikipedia

上の写真をご覧ください。ランボーがロンバルディに向かって指をさして何か言っているのに、ロンバルディはランボーに視線を合わすことなく、無視したような姿です。ちょっと珍しい組み合わせの銅像ですね。ランボーは何と言っているのでしょうか?私の推測は、「おいっ、ロンバルディ!お前はパッカーズのOB会費をちゃんと払っているのか?!俺は払っているぞ!」です。(笑)

スポーツイラストレイテッド誌は、「NFLのベストスタジアム歴代第1位」にランボー・フィールドを選びました。選出の理由は、「プロフットボール・ファンに対し、最高の試合観戦環境を提供しているから」とのことです。

その収容能力は、最初の32500人から度重なる拡張工事を経て、今では81,441人となり、NFL専用球技場としては二番目に大きなスタジアムとなりました。1960年(ロンバルディ就任2年目)以来、現在まで64年間にわたり、ランボー・フィールドのパッカーズ戦でチケットが完売にならなかったことは一度もありません。また、パッカーズのシーズンチケットは「購入希望者の順番待ちリスト」に少なくとも14万人の名前があると言われます。新たにシーズンチケットを入手できる人数は、多い年で600人程度、少ない年はわずか100人強しかなく、入手するためには「何百年も待たねばならない」という異常事態が起きているのです。

今では最高の人気を誇るグリーンベイ・パッカーズですが、過去には廃部・消滅・移転の危機が幾度もあり、そのたびにファン達の大きな愛情によって乗り越えてきたことを、どうか忘れないでください。
私たちも大きな、大きな愛情を注いで、ユニコーンズへの支援を続けましょう!

(パッカーズ誕生の歴史 完)
※次回が「パッカーズvsベアーズ」シリーズの最終回となります。

「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
https://footballquotes.fc2.net/
「今週の名言・迷言」を木曜日ごとに更新しています
左下の「三田会コラム」という黒い小さなバーをクリックして
いただくと、これまでのコラムのアーカイブがご覧いただけます