【清水利彦コラム】永遠のライバル・シリーズ 「パッカーズvsベアーズ」最終回 ビンス・ロンバルディ秘蔵写真展 2024.08.15

2024/8/15
昭和52年(1977年)卒 清水利彦
shimizu.toshihiko2@gmail.com

永遠のライバル・シリーズ「パッカーズvsベアーズ」の最終回をどのように締めくくろうかと色々悩みました。私はパッカーズ・ファンというよりは、「ビンス・ロンバルディのファン」なので、最終回はロンバルディをテーマとして取り上げたいのですが、もう既にあらゆる点を文章化しております。
考慮の結果、今回は「ロンバルディ秘蔵写真展」と題して、これまであまり紹介する機会のなかったロンバルディの写真画像を一挙に掲載することにしました。ロンバルディに関する名言やエピソードもたくさん盛り込んでいます。

大笑いするロンバルディ(出典:When Pride Still Mattered, by David Maraniss)

彼の写真の中で「一番迫力がある」のはやはりこの作品でしょう。ロンバルディは感情が顔の表情に出やすい性格で、面白ければ大笑いする、腹が立ったら満面の怒りを表す、という非常にわかりやすい人物でした。
一方で鉄面皮と言われ、「何を考えているのか全くわからない」と周囲を困らせたトム・ランドリー(ダラス・カウボーイズの名コーチ)とは正反対です。ロンバルディとランドリーは一時期ニューヨーク・ジャイアンツで共にアシスタントコーチとして働いたことがあるのですが、当然、二人の仲は最悪でした。ロンバルディが攻撃コーチなのに、勝手に守備選手を大声で怒鳴りつけたりすることを、ランドリー守備コーチは極端に嫌っていました。
ロンバルディは歯並びが悪く、前歯に隙間があるのが特徴です。笑い顔ではありますが、「この人が真剣に怒りだしたらどんなに恐ろしいか」が充分に感じられる写真です。

「ロンバルディ・コーチはとても公平な方です。
選手全員、一人の例外もなく、イヌ畜生のごとく扱いますからね。」

マックス・マギー(グリーベイ・パッカーズWR)

聖セシリア高校でバスケットボールを教えるロンバルディ(左端) (出典:When Pride Still Mattered, by David Maraniss)

ロンバルディの祖父母はイタリアからの移民でした。北イタリアにはロンバルディ地方(Lombardy, ミラノを含む地域)という地名があります。両親は敬虔なキリスト教徒で、NYブロンクスで屠殺業・精肉業を営んでおり、繁盛していたため、中流家庭ではありますが比較的裕福な環境で育ちました。中学・高校では野球をやっていた時期もありましたが、強い近眼であったため、途中からフットボール部のラインマンに専念しました。
フォーダム大学で優秀なOGとして活躍しましたが、まだプロフットボールでラインマンが高給を稼げるような時代ではありませんでした。ビンスは両親の家業を継ぐことを嫌っており、一時期は法律学校に通って弁護士を目指しましたが、成績が悪く退学しています。
食い扶持を稼がねばならないビンスは、高校の教師となり、ラテン語と化学を教えるかたわら、バスケットボール部とフットボール部のコーチとなりました。自分がバスケットボールをほとんどやったことがないにもかかわらず、独学でコーチングを勉強し、聖セシリア高校バスケットボール部は州選手権の優勝を狙えるレベルまで強くなりました。この頃、ロンバルディは「正しいプレー理論を習得させ、猛練習で鍛え上げればチームは強くなる」ことを経験したわけです。

1940年、ロンバルディの結婚式(出典:When Pride Still Mattered, by David Maraniss)

ロンバルディは大学時代にルームメイトから親戚の女性メアリ(Miss Marie Planitz)を紹介され、6年間の交際ののち、27歳で結婚して2児をもうけています。
メアリが初めて自宅に彼を案内した後、メアリは父親に「あの人と結婚するつもりよ」と言いました。すると父親が、「何を言っているんだ!あいつはイタリア人じゃないか?!」と叫んだのは有名な逸話です。
ただし結婚当時には、既にロンバルディはフットボールのコーチングにのめりこんでおり、「新婚旅行に出かけたが、すぐ途中で切り上げて練習に参加した」とのことで、この時メアリは「結婚は私の人生で最大の失敗だった」と友人に漏らしています。

ロンバルディの伝記を読んでも、二人の間にほのぼのとした夫婦愛のような記述は見当たらず、「レストランで食事をした後、ロンバルディは『おやすみ』と言って妻にキスしようとしたが、フットボールの事ばかり考えて、前を見ていなかったため、間違えて隣に立っていたオジサンにキスしてしまった」という笑える話が残っています。ロンバルディは夫婦愛ではなく、家族の絆や家庭内の規律ばかりをメアリに求めたようで、しばしば妻を大声で怒鳴りつけており、その結果としてメアリは酒におぼれたという記述もあります。

「ある遠征試合の際に、ロンバルディ・コーチは奥さんのメアリを同行させ、我々選手と一緒にホテルで夕食をとっていた。食事の最後にアップルパイのデザートが出た時、奥さんがウエイターに『私のアップルパイにアイスクリームを添えていただけませんか?』と頼んだ。すると突然コーチが立ち上がって、身体をブルブル震わせながら、こう叫んだんだ。
『メアリ!君は今、チームに同行し、チームと一緒に食事をしている。それならば君はチームの一員だ!チームの一員ならば、チーム全員が食べているものと同じものを食え!!!』
その時に我々が出来たことはただ一つ。下を向いたまま黙って食事を続けることだけさ。」

パッカーズOGジェリー・クレイマー

ビンス・ロンバルディの息子ビンセント・ロンバルディJr.はフットボールをやらず、弁護士になり、父親に関する著書を数冊著しました。一方、孫のジョー・ロンバルディは、空軍士官学校でタイトエンドとしてプレーし、4年間の軍人生活の後、多くのフットボールチームをアシスタントコーチとして渡り歩きました。すでにNFLでも18年間のコーチ歴をもち、現在(53歳)はデンバー・ブロンコスの攻撃コーディネーターをしています。

1952年、陸軍士官学校(アーミー)のコーチングスタッフ(出典:When Pride Still Mattered, by David Maraniss)

ロンバルディは36歳の時から5年間、アーミーでアシスタントコーチを務めました。West Pointとは陸軍の所在地のこと。当時アーミーのコーチ陣はこのようなお揃いの服装をしていました。熟年草野球チームのユニフォームのようで微笑ましいですね。前列中央が伝説の名コーチ、レッド・ブレイク(全米王座獲得3回、166勝48敗14分)。その左隣がロンバルディです。
レッド・ブレイクとの出会いが、ロンバルディのコーチング能力、そして彼の人生を大きく変えました。ロンバルディがのちにパッカーズでおこなったことは、全てレッド・ブレイクから教わったことの模倣であったと言っても過言ではないでしょう。コーチングのABCを教えるかたわら、ブレイクはロンバルディの短気すぎる性格を改めるように諭しています。

「選手達は充分に鍛錬されていなければならず、精神的にも鍛え上げられていなければならない。
わがチームのプレイブックは薄く、プレーの数は限られているが、そのかわり選手はミスをすることを許されない。我々は新規の戦術やトリックプレーで勝つのではなく、常にブロック力とタックル力で相手を上回り、そして試合に勝つのだ。」

レッド・ブレイク 陸軍士官学校コーチ

遠征試合に向かう汽車の中。中央奥に選手達一人一人に声を掛けて回るロンバルディの姿があります。(出典:When Pride Still Mattered, by David Maraniss)

この写真を見ると、選手は遠征の最中にもきちんとシャツにネクタイをして(おそらく上着は網棚の上)汽車に乗っていたことがわかります。ロンバルディはパッカーズに就任して、最初に「選手たちの服装や立ち居振る舞いを、きちんとしたものに改めさせる」ことから始めました。遠征先の夕食は、ホテルのレストランで上着とネクタイを着用の上、定刻に全員揃って食事を始めることを義務付けました。

「チャンピオンになりたかったら、チャンピオンらしく振舞え。
チャンピオンになってから、チャンピオンらしく振舞うのではない。
チャンピオンになりたいと心から願い、
チャンピオンが取るべき正しい行動を取り続けた者達の中から、
真のチャンピオンがひと組だけ選ばれるのである。」

(チームミーティングに遅刻したエースWRマックス・マギーに向かって)
「ミーティングの開始時間や、チームバスの集合時間に遅れてくるような人間が、
正しいパスコースを走り、正しいタイミングでパスをキャッチできるとは、
到底思えない。」

ビンス・ロンバルディ

1965年、ロンバルディと選手の妻たち(出典:When Pride Still Mattered, by David Maraniss)

私の一番お気に入りのユニークな写真です。1965年、ロンバルディが3回目の王座獲得を果たした後、結婚している選手の妻全員に招待状を出し、集まってくれた妻ひとり一人にミンクのショールをプレゼントしました。
<※ミンクとは>北アメリカに多く生息する、イタチ科のカワウソに似た小動物。最高級の毛皮が獲れることから乱獲の対象となりました。1着のミンク・コートに30頭以上のミンクが必要となるため動物愛護団体が保護に乗り出しています。かつてはミンクの毛皮を身にまとう事が上流婦人の証しとされた時代がありました。この写真は「パッカーズが優勝すると、ミンクが大迷惑する」という笑い話の証明でもあります。

ロンバルディは選手達には常に罵声を浴びせ続け、恐れられた存在でしたが、一方で選手の妻や子供たちには常に気を配り、優しさを示し続けていました。パッカーズの練習にはいつも選手の家族を招待し、練習が終わった瞬間に子供達がフィールドに飛び出して父親に抱きつくことを奨励しました。
イタリア人の大家族(母親には兄弟姉妹が12人いた)の中で育ったロンバルディは、常に、家族を大切にするよう選手に命じていたのです。

「君たちにとって、この世で最も大切なものが3つある。
神様と、家族と、フットボールだ。
そして、重要さの順番も、常にこの通りでなければならない。」

ビンス・ロンバルディ

1961年、ブロッキング・スレッドに乗るロンバルディ(出典:The Glory of Titletown, Photo by Vernon J. Biever)

ビンス・ロンバルディについて詳しい人に「練習中のロンバルディと言うと、どんなイメージがありますか?」と問えば、「ブロッキング・スレッド(そり)にまたがって、選手を怒鳴り続けているコーチ」と答える人は多いでしょう。これがその写真です。
2人用、5人用、7人用のブロッキング・スレッドを常に練習場に置き、ロンバルディが自らスレッドの上に乗り、ブロックの強さ、タイミング、当たる角度などをチェックしていました。
「ラン攻撃で圧倒的に敵を凌駕した」チームとしては、ロンバルディ時代のパッカーズがNFL史上最強と確信します。

「ファンダメンタルが試合の勝ち負けを決める。
フットボールとは、突き詰めていけば、たった二つの要素しかない。
それは、ブロッキングとタックリングだ。
ブロックやタックルを相手のチームよりも、
きちんとおこなうことが出来れば、我々は試合に勝つのだ。」

「ファンダメンタルをきちんとやれ。そうすれば
他の事は自然とうまくいくようになる。」

ビンス・ロンバルディ

1970年、ロンバルディの葬式(出典:When Pride Still Mattered, by David Maraniss)

ビンス・ロンバルディはパッカーズで5回の優勝を果たした後、GMの職をたった一年で辞任し、1969年、ワシントン・レッドスキンズ(現コマンダーズ)のヘッドコーチに就任すると電撃発表しました。
レッドスキンズは当時、13年連続で勝ち越しなしという弱体化しきったチームでしたが、ロンバルディは最初のシーズンから7勝5敗2分と勝ち越して地区2位となり、今後はグリーンベイでの栄光を首都ワシントンでも再び築くのではとファンは期待しました。
ところが1970年6月24日に大腸がんと診断され、病状は瞬く間に悪化し、9月3日に57歳の短い生涯を閉じました。実は3年前から消化器官の不調を感じていたのですが、ロンバルディは検査を受けることを拒否していたとのことです。
死の床に訪れた神父に向かって、ロンバルディは「私は死ぬことは少しも怖くない。ただ、人生でやり残したことがたくさん有ることを残念に思う」と語りました。

ロンバルディの葬式は、ニューヨーク五番街にある聖パトリック大聖堂にておこなわれました。NYを訪れたユニコーンズ卒業生の中には、高層ビルや高級ブティックが立ち並ぶ超一等地に、突然荘厳な大聖堂が現れることに気が付いた方は多いでしょう。私も内部を見学したことがあります。葬儀の日に、NY警察は39丁目から50丁目までの交通をすべて閉鎖して、弔問客の警備にあたったとのことです。
米国の共和党が、ビンス・ロンバルディをアメリカ合衆国副大統領候補に担ごうと画策していたが、よく調査してみたらロンバルディは民主党支持者であったという、笑える実話も残されています。

「君の考えが、君の言葉へとつながる。
 君の言葉が、君の行動へとつながる。
 君の行動が、君の習慣へとつながる。
 君の習慣が、君の人格へとつながる。
 君の人格が、君を勝利へと導く。」

ビンス・ロンバルディ

私のブログには、ビンス・ロンバルディの名言が200以上掲載されています。是非一度読んでください。 ビンス・ロンバルディ名言集 – アメフト名言・迷言集 (fc2.net)

(永遠のライバル・シリーズ「パッカーズvsベアーズ」完)


「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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