【清水利彦コラム】ジョージア・ローゼンブルーム物語 プロフットボール界、最強の女性 2025.10.03

2025/10/2
昭和52年(1977年)卒 清水利彦
shimizu.toshihiko2@gmail.com

これまで多くのコラムを書いてきましたが、女性に関する記事を書いたのは、女子タッチやユニコーンズ女子部員に関することを除けば殆どありません。

わずかにAFLの創設者ラマー・ハントに関するコラムを書いた際に、二度目の妻ノーマ・ハントを「1976年(第1回スーパーボウル)から、亡くなる2023年まで56回のスーパーボウルをすべて現地で観戦した、世界で唯一人の女性」として紹介したくらいでしょうか。男性顔負けの大のフットボール・ファンでした。(2024/3/22付コラム参照)

カレッジフットボール界の有名な女性というと、オハイオ州立大伝説の名コーチ、ウディ・ヘイズの妻、アン・ヘイズが思い出されます。ものすごく強気な女性で、常に「夫の闘志は私が作り出す」と公言していました。新聞記者から「フットボール漬けで全く家庭を顧みないウディ・ヘイズ・コーチと、離婚しようと考えたことはありませんか?」と質問されて、”Divorce? No!  Murder? Yes!” (別れるくらいなら、殺してやる)と答えたのは有名なエピソードです。笑

しかし、ノーマ・ハントもアン・ヘイズも、あくまで「フットボール界有力者の妻」という立場にとどまっていました。自ら責任者としてフットボール・チームを率いたわけではありません。

自らチームを率いて、プロフットボール界の頂点に立った女性と言えば、ジョージア・ローゼンブルーム唯一人だと確信します。彼女は29年間にわたり、NFLラムズのオーナーとして君臨し、1999年にはスーパーボウル勝利を達成しています。今回は彼女の激動の人生についてお話しします。例によって浅学にて書いていますので、記載内容に誤りがありましたら遠慮なくご指摘ください。

新聞記者やカメラマンの要望に応え、ボールをキックして見せた、ラムズのオーナー、ジョージア。この時72歳でしたが、ピンと伸びた右足にご注目ください。 出典:The Football Book, Sports Illustrated

ジョージア・ローゼンブルーム物語

彼女は生涯で7回結婚しており、そのたびに名字を替えています。

NFLオーナーの頃はジョージア・フロンティア―と名乗っていた時期が長いですが、私はあえて、「彼女に巨額の財産を相続させ、NFLチームのオーナーにさせた6番目の夫、キャロル・ローゼンブルーム」にちなんで、ジョージア・ローゼンブルーム、もしくは単にジョージアと呼ぶことにします。

ジョージアは1927年(昭和2年)ミズーリ州セントルイスにて生まれました。彼女の母親ルシア・パメラは「ミス・セントルイス」に選ばれた美女で、また「全米で唯一つの女性だけによるオーケストラ」のリーダーでもあった、才色兼備な人物として知られていました。

エンターテイナーの家庭で育ったジョージアは、子供の頃からミラノ・オペラ歌劇団に加わって歌唱訓練を受け、母と兄と3人で歌唱グループ「パメラ・トリオ」として舞台に出演していました。

15歳の時、両親が離婚し、一方でジョージアは若い海兵隊員と恋に落ちて結婚しましたが、すぐに離婚しています。その後家族はカリフォルニア州に移り、母と二人でショー舞台に立ちます。19歳で2度目の結婚をしましたが、夫はほどなくして自動車事故により死亡しました。

23歳で3回目の結婚をしましたが、5年後に離婚。その後すぐ、舞台マネジャーと結婚しましたが3年で離婚しました。不思議なことに結婚を繰り返すたびに、彼女の仕事レベルはバージョンアップしてゆきます。30代になってジョージアはマイアミに移り、ナイトクラブのショーガールとして働くかたわら、TVショーにも出演する機会を得ました。31歳でTVプロデューサーと結婚(5回目)してわずか1年で離婚しましたが、次第にTVにおける出演場面を増やしていきます。

マイアミでナイトクラブのショーガールをしていたジョージア(右)

キャロル・ローゼンブルームとの出会い

1958年、ジョージアには人生の大きな転機が起こります。

TV界でかなり知られた歌手になっていたジョージアは、ジョセフ・ケネディと知り合います。ジョセフ・ケネディは、のちのアメリカ大統領ジョン・F・ケネディの父親であり、投資家であり、株の相場師として知られた大富豪でした。ジョセフはTVを見ていてジョージアの大ファンだったのです。

ジョセフ・ケネディは富豪仲間のキャロル・ローゼンブルームをジョージアに引き合わせます。キャロルはその頃、最初の妻と離婚係争中でしたが、すぐにジョージアと親しく付き合うようになりました。

キャロル・ローゼンブルームは、父親が経営する作業服製造工場を引継ぎ、のちに米国軍隊関連の作業服の受注を一手に取り付け、またシアーズやJCペニーへの大手サプライヤーとなって、巨大なアパレルメーカーに育て上げた人物として知られます。若くして大金持ちになったキャロルは、投資家として更に富を増やす一方で、プロフットボール・チームの経営に乗り出すのが夢でした。

キャロルはペンシルバニア大学在学中にフットボール部で活躍した経験のある、大のフットボール・ファンだったのです。大学時代のコーチ、バート・ベルが出世してNFLのコミッショナーになっていたことも追い風でした。当時、経営難に陥っていたボルチモア(現インディアナポリス)・コルツを買収しないかとバート・ベルから持ちかけられて、キャロルは受諾します。ちょうどその頃から、キャロル(当時既婚者)とジョージアは恋仲になっていたわけです。キャロル・ローゼンブルームはコルツを見事な強豪チームに育て上げ、3回NFLの王座に着き、「コルツ黄金時代」を築きます。当時のQBがジョニー・ユナイタスでした。

二人が出会って8年後、キャロルの最初の妻との離婚が成立し、キャロル(当時59歳)とジョージア(39歳)は結婚しました。その時点で、既に二人の間には子供が2人産まれていました。

1972年、キャロル・ローゼンブルームは「ボルチモア・コルツとロサンゼルス・ラムズの株式を無償交換する」という空前の取引を成立させて世間を驚かせ、ラムズのオーナーとなります。

キャロル・ローゼンブルームとジョージア

夫の突然の死、そして女性オーナー誕生

1979年、荒天で波が高い日に、マイアミの海岸でキャロル・ローゼンブルームは水泳中に溺死しました。地元警察はこれを「単なる事故死」と発表しましたが、周囲の人々は「彼は殺されたのではないか」と疑いました。キャロルの先妻の息子が「父は泳ぎがさほど得意ではなく、天気の悪い日に一人で海に入るなど考えられない」と語ったため騒ぎが大きくなります。「ジョージアが催眠術を習っており、夫に催眠術をかけて海に入らせたのであろう」という暴露本まで出版されました。

この事件は世間を猛烈に騒がせましたが、結局ジョージアは証拠不十分で無罪放免となり、キャロル・ローゼンブルームが全株を所有していたロサンゼルス・ラムズの株式の70%をジョージアが相続し、残り30%を5人の子供(うち3人は先妻の子)が取得しました。ジョージア・ローゼンブルームはNFLチーム、ラムズのオーナーとなったのです。

NFL女性オーナーの誕生はジョージアが初めてではありませんでした。1947年シカゴ・カージナルスの男性オーナーが死亡した際に、妻がオーナー職についた実績がありましたが、この時の女性オーナーは「お飾り的存在」であり、実質的経営は男性陣がおこなっていました。

ラムズでも、先妻の息子スティーブ・ローゼンブルームが既に役員に入っていたため、世間は「たぶんジョージアはお飾りオーナーで、スティーブが経営するのだろう」と考えていました。

ところがジョージアが着任して間もなく、スティーブがチームを去り、ジョージアの決定による人事のもとでラムズは運営されてゆくことになります。フットボールとは全く無縁だった女性がNFLチームの真の経営者となった瞬間でした。

当時ジョージアに対する世間の風当たりは実に冷たいものであったろうと、容易に想像できます。ショーガールから幾度もの結婚を経て次第に成り上がり、NFLオーナーの妻になったあと夫が疑惑の死を遂げ、ラムズはジョージアの所有物になったのですから。

夫キャロルの死後、わずか一年後には、作曲家のドミニク・フロンティア―と7度目の結婚をして、ジョージア・フロンティア―と名乗ったことも、世間には嫌悪感として伝わりました。

キャロル・ローゼンブルームはユダヤ人であり、ローゼンブルームは典型的なユダヤ系名字でした。疑惑の死を遂げた夫の名字ローゼンブルームを名乗り続けるのは嫌だったのでしょう。フロンティア―(Frontiere フランス語で「国境、新しい領域の開拓」)という名字が気に入っていたとも思われます。

多くのフットボール・ファンは「どうせ、ラムズの経営はすぐにムチャクチャになるさ」と思ったことでしょう。ところがジョージアは、ここから全身全霊をかけてラムズの運営・強化に乗り出します

亡夫キャロル・ローゼンブルームは非常に優れたオーナーとして知られていました。選手やコーチ陣と密にコミュニケーションをとり、チームが一体となって戦う体制を作っていました。キャロルがコルツを去って、ラムズのオーナーとなった時、コルツの中心選手LBマイク・カーティスは次のように述べています。

「キャロルが居なくなって本当に悲しい。彼は素晴らしいオーナーだった。これまで14年間コルツが勝ち続けたのはコーチ陣の功績ではない。キャロル・ローゼンブルーム・オーナーの功績なのだ。」

キャロルのオーナーとしての勝率.650はNFLの歴代オーナーの中でも最高峰のひとつでした。

ジョージアは、夫のオーナーとしての経営手腕をじっと観察していたと思われます。彼女の目立ちたがり屋の性格は生涯変わりませんでしたが、選手やコーチ陣に対して、威張って命令を下すだけの経営ではなく、チームが一丸となって戦える体制を作ろうと常に努力しました。

彼女はオーナー就任直後の記者会見で次のように述べています。

「ラムズのコーチ陣や選手達には少しも問題はありません。問題があるのは経営陣です。それを私が変えてみせます。」

予想外の彼女の奮闘ぶりを見て、マスコミはジョージアに「マダム・ラム」という称号を与えました。

プロフットボール界の頂点に立った女性

1979年にオーナーに就任したジョージアは、2008年1月に80歳で亡くなるまで、29年間ラムズに君臨し続けました。

最初の11年間で95勝73敗、プレイオフ進出8回という立派な戦績を残しましたが、チャンピオンにはなれませんでした。その後1990年からの5年間、ラムズは23勝57敗という不調に陥ります。不調の原因をジョージアは「ロサンゼルス市当局の協力が得られない」、「地元ファンのサポートが足りない」ためと分析し、ロサンゼルスを去って、自らの生まれ故郷であるセントルイスに移転するという大事業を企て、見事やり遂げます。チームは1995年からセントルイス・ラムズと改名されました。

移転して最初の4年間は勝てませんでしたが、5年目の1999年ラムズは突然開花します。QBカート・ワーナー、RBマーシャル・フォークらの展開するオフェンスが猛威をふるいました。

13勝3敗で地区1位となり、第34回スーパーボウルに進出を果たします。テネシー・タイタンズの最後の攻撃をゴール前1ヤードで止めて、「The Longest Yard」と今も語り継がれる伝説の名勝負に勝利し、ついにセントルイス・ラムズはチャンピオンになりました。この試合の模様は

“The Longest Yard” (Rams vs. Titans, Super Bowl 34) – YouTube でご覧ください。ところどころにジョージアの姿が映っています。

スーパーボウル勝利の後、最初にビンス・ロンバルディ・トロフィーを受け取ったのは、ジョージアでした。女性として初めての快挙でした。その時、彼女は71歳になっていました。

スーパーボウルに勝利し、紙吹雪の舞う中でロンバルディ杯を抱くジョージア

ジョージアが率いるラムズは、2年後の2001年にもスーパーボウルに駒を進めましたが、試合終了寸前のFGによりペイトリオッツに敗れています。(PAT20-17RAM)

ジョージアは2008年1月に80歳で亡くなるまでオーナー職に立ち続けました。29年間のラムズ戦績は221勝235敗、勝率.485。夫キャロルほどの勝率は残せませんでしたが、13回プレイオフに進出、スーパーボウルに3回出て1勝を挙げました。

7番目の夫ドミニク・フロンティア―とは8年後に離婚し、その後アール・ウェザーワックスという男性と同居しましたが、結婚はしていません。彼女はジョージア・フロンティア―という名前を用い続け、彼女が死ぬまでウェザーワックス氏とは19年間添い遂げました。結婚した7人の相手とは、皆、短期間で終わったのに、結婚しなかった相手と長続きしたのは皮肉な結果と言えます。

ジョージアの生き様については賛否両論あると思います。いまだに「彼女は夫を殺した」と信じる人も相当数いるでしょう。ただし、彼女がNFLチームのオーナーという仕事に対し、長期間に渡り、真剣に、必死に取り組んでいたことは紛れもない事実であると、私は受け止めています。

まさに彼女は「プロフットボール界、最強の女性」だったのです。

「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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