【清水利彦コラム】ナイトトレイン・レイン物語 〜ビンス・ロンバルディから「史上最高のDB」と呼ばれた男〜 2022.09.30

清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

皆さんはナイトトレイン・レインという選手をご存じでしょうか。NFLの歴史上、決して忘れることの出来ない選手ですので、この機会に紹介させてください。
本名をディック・レインと言いますが、歴史書のどれを見ても「Night Train Lane」もしくは単にニックネームの「Night Train」の名前で表記されています。

1962年、ディック・“ナイトトレイン”・レイン 出典:Wikipedia

1928年テキサス州生まれ。ラムズ、カージナルス、ライオンズにてDBとして14年間活躍。
オールプロ一軍選出7回、プロボウル出場7回。シーズン最多インターセプト2回。
1952年、NFL入り最初のシーズンにインターセプト14回の最高記録を樹立。この記録は、その時以来ちょうど70年経過していますがいまだに誰にも破られていません。ちなみに21世紀に入ってからの最多インターセプトは、昨2021年カウボーイズのトレヴォン・ディッグスの11回。ディッグスは17試合で11回インターセプトしましたが、ナイトトレイン・レインは12試合で14回記録しています。

2000年、スポーティングニューズ誌は「20世紀最高のプロ選手100名」を選んでランク付けを発表しました。ナイトトレイン・レインは19位に選ばれており、DBとしては最高の順位でした。
パッカーズ・コーチ、ビンス・ロンバルディは、レインがライバルチーム(ライオンズ)の選手であるにもかかわらず、「ナイトトレインは私の知る限り、NFL史上最高のDB」と讃えました。

Night Train(夜汽車)という優雅なニックネームと、最多インターセプト記録から、技とスピードの選手のようなイメージを私は持っていましたが、今回資料を読んだところ全く違っていました。驚異的な破壊力も兼ね備えており、「ぶっ壊し屋」の異名をとったパワフルな巨漢選手でした。
次の写真を見て下さい。

1961年ナイトトレイン・レインのネクタイ・タックル 出典:Football’s 100 Greatest Players, The Sporting News

相手の首をへし折るような姿を見て「そんなの、ダメだ!!」と叫びたくなる方が多いはずです。今なら一発退場になるでしょう。ところが当時はこのプレーは反則ではありませんでした。
ナイトトレイン・レインがプロ入りした1952年には「フェイスガードをつかむ」という反則がありません。なぜなら「その頃までフェイスガードそのものが、ほとんど存在しなかった」からです。

1948年頃の写真を見ますと、チーム内にフェイスガードを付けた選手がちらほら出現しますが、いずれもラインの選手であり、QB・RB・レシーバー達はフェイスガード無しで戦っていました。1950年、51年頃からバックスにもフェイスガードを付ける選手が少しずつ増えていきますが、一本羽のような簡単なものでした。「バックスは視界を遮るフェイスガードを装着するべきではない」との考え方です。

1952年、ナイトトレインは入団早々から「敵の選手のフェイスガードをつかみ、首からねじり倒す」ようなタックルを頻繁におこないました。敵のボールキャリアーはたまったものではありません。幸い死者は出ませんでしたが、ナイトトレインにタックルされた後、失神状態でピクリとも動かなくなる選手が出たため、問題視されることになりました。ナイトトレインは185cm、88kgと当時のDBとしては破格の巨漢であり、「DBに必要なのはスピードと反射神経であり、サイズはあまり関係ない」という当時の常識を打ち破った第一号選手でもありました。

NFLは1952年のシーズン終了後、「フェイスガードをつかむのは反則」というルールを導入しました。「ナイトトレイン対策」とも言うべきルール変更でした。
それでも「首や頭部に対するタックル」は反則としませんでした。「これを禁じてしまったら、フットボールの勇壮さが失われる」というような古い保守的な考え方がNFLでは強かったのです。
そのため彼は、敵の首や頭に向けてのヒットを続け、「ナイトトレインのネクタイ・タックル」と呼ばれ、恐れられました。「コーナーバックのゴッドファーザー」という異名も持っています。
ナイトトレインの引退とほぼ同時期に、首より上側に向けてのヒットも反則と改められました。彼が違法タックルをしていたのではなく、彼の出現とともにNFLルールが変化していったのです。
次のYou Tube画像をご覧ください。ナイトトレインのネクタイ・タックルとインターセプトがそれぞれ紹介されています。案内役は元ファルコンズ等のヘッドコーチ、ジェリー・グランビルです。

(328) #30: Dick “Night Train” Lane | The Top 100: NFL’s Greatest Players (2010) | NFL Films – YouTube

NFLには、貧乏生活から這い上がってきた名選手がたくさん居ますが、ナイトトレインほど悲惨な生い立ちを持つ選手は少ないでしょう。
彼は、売春婦である母親と、娼婦への客引きを仕事とする父親との間に生まれました。生後3か月の時、生活の苦しさから両親は彼を遺棄してしまいます。大型ごみ処理缶の中に、新聞紙で包んだまま捨てられたのです。通行人が、ドラム缶の中から泣き声がするので猫かと思い開けてみたところ、人間の赤ん坊だったので驚いた、との記述があります。

彼は、既に子供4人を抱える黒人女性に引き取られ、貧しい家庭の中で育てられました。幼い頃から靴磨きの仕事などに就いています。高校に入ると、彼のアスリートとしての才能が芽生え、バスケットボールとフットボールで活躍します。その頃、彼を捨てた実の母親が名乗り出て謝罪したため、二人は和解し、一時期アイオワ州に移り一緒に暮らしました。野球選手としても頭角を現したため、高校を出た後、野球の黒人プロリーグで一年間だけ、安い報酬でプレーしたことがあります。
その後ネブラスカ州のスコッツブラフという短期大学で一年間だけ本格的にフットボール(ポジションはエンド)をやりましたが、この時、彼がチームでただ一人の黒人選手でした。一年後、徴兵制度により招集されてしまい、陸軍に入隊しています。陸軍の地方分隊のチームでもレシーバーとして活躍しました。

4年間兵役を務めた後、退官しましたが、学校に戻ることはなく、陸軍の斡旋により、ロサンゼルス空港の飛行機整備工場で重い荷物を運ぶ労働者として雇われていました。バスで勤務地の空港に通う毎日でしたが、バスの経路の途中にNFLロサンゼルス・ラムズのオフィスがあるのを見つけたことが、彼の人生の転機となりました。ある日、彼はアポもなしにラムズのオフィスを訪れ、「トライアウトを受けさせてほしい」と頼み込みます。
ラムズの職員はさぞ面食らった事でしょう。彼の履歴書には、短期大学の一年間以外はさしたるフットボール部活動歴がなく、あとは「草フットボール」程度の経験しかないのです。強豪大学の元一軍選手がずらりと並ぶ球団ロスターと比べると、いかにも貧弱な経歴でした。しかし、球団側が慧眼であったのは「とにかくこの男にチャンスを与えてみる」という判断をしたことでした。

レシーバーとしてトライアウトに臨んだディック・レインを見て、その運動能力の高さにコーチ陣は目を見張りました。低い金額ではありますが、ただちに契約を結んでいます。当時のラムズはチーム事情から、レインをDBにコンバートすると伝えました。チームに残りたい一心で彼はコンバートを了承し、必死でDBの練習を積みます。
1952年8月、開幕戦を控えてスクリメージ練習がおこなわれ、レインは不慣れなDBのポジションでプロ選手として初めてプレーします。

そこからの4か月は彼にとって夢のような日々だったことでしょう。わずか数日前まで整備工場で荷運びをしていた立場から、ラムズに突撃訪問のすえ契約をもらい、経験のないポジションにて一瞬でスタメンの座をつかみ取り、開幕戦から全ての試合に出場し、年間インターセプト14回という70年後も破られない大記録を達成したのですから。

入団一年目に彼にはNight Trainというニックネームが与えられます。文献には「当時Night Trainという流行歌があり、彼が好きだったから」とありますが、私は、別の意味合いもあるのではと推察しています。彼は「動き出したら誰にも止められない」ので、Locomotive(機関車)と呼ぶ人も居て、「黒い機関車」というイメージを上品にNight Trainと言い換えたのではないかと考えるのです。

ナイトトレインは1952年から14年間に渡り、NFL最高のDBとして君臨し、1965年のデトロイト・ライオンズ在籍を最後に引退しました。引退後、ライオンズの球団職員として雇用されましたが、彼がライオンズの「黒人職員第一号」でした。
1974年にプロフットボール殿堂入りを果たし、2002年1月、73歳で亡くなっています。通算インターセプト数68回は、今でもNFL歴代4位の記録として残っています。
※第1位はポール・クラウス(バイキングス他)の81回

「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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