【清水利彦コラム】 「ザ・スニーカー・ゲーム」マネジャーの機転と行動力がNFL選手権の結末を変えた日 2024.08.29

2024/8/29
昭和52年(1977年)卒 清水利彦
shimizu.toshihiko2@gmail.com

今回の物語「ザ・スニーカー・ゲーム」は、十数年前にUnicorns Netで紹介したことがありますが、今回は、いくつかの新情報と、写真画像を加えて、バージョンアップした形でお届けします。(資料が乏しいため、多少の「清水の推測」を加えて文章化しています)
ユニコーンズの現役マネジャー部員たちが、この物語を読んで何かを感じ取ってくだされば、とても嬉しいです。

「ザ・スニーカー・ゲーム」とは、1934年のNFL選手権(ジャイアンツ30-13ベアーズ)に与えられた名称で、永遠に忘れられない試合として語り継がれています。
NFL Filmが選んだ「NFL史上最も偉大な試合、トップ100」において、ザ・スニーカー・ゲームは62位にランクされています。

1934年はNFLが創設されて15年目のシーズンにあたり、ようやく米国でプロフットボールの人気が定着してきた頃でした。当時のNFLは10チームでレギュラーシーズンの戦績は以下の通りでした。

<東地区>

  • ニューヨーク・ジャイアンツ​8勝5敗
  • ボストン・レッドスキンズ​6勝6敗 (現在のワシントン・コマンダーズ)
  • ブルックリン・ドジャース​4勝7敗 (1944年廃部)
  • フィラデルフィア・イーグルス​4勝7敗
  • ピッツバーグ・パイレーツ​2勝10敗 (1940年スティーラーズと改名)

<西地区>

  • シカゴ・ベアーズ​​13勝0敗
  • デトロイト・ライオンズ​​10勝3敗
  • グリーンベイ・パッカーズ​7勝6敗
  • シカゴ・カージナルス​​5勝6敗  (現在のアリゾナ・カージナルス)
  • シンシナチ・レッズ​   ※1勝10敗

※シンシナチ・レッズは0勝8敗の時点で本拠地を移転したが、結局シーズン終了後に廃部したものと推測されます。翌1935年、NFLは9チームに減らしてリーグ戦を実施しました。

1929年、ミネソタ大学時代のブロンコ・ナガースキ。卒業後ベアーズ入団。(出典:Rites of Autumn, by Richard Whittingham)

西地区はエースFB(DL兼務)ブロンコ・ナガースキを擁するベアーズが無類の強さで勝ち続け、全勝のまま選手権に出場。この時点で前年以来18連勝を記録していました。一方のNYジャイアンツはなんとか東地区の混戦から抜け出して選手権に駒を進めましたが、選手権はシカゴ・ベアーズ圧倒的有利と予想されていました。
ブロンコ・ナガースキの活躍ぶりについては下記You Tubeでどうぞ。(4分)
ベアーズで活躍し、一方プロレスラーとしても人気を博していたという異色の名選手です。スポーティングニューズ誌の「NFL歴代名選手100選」で第35位にランクされています。

#19: Bronko Nagurski | The Top 100: NFL’s Greatest Players (2010) | NFL Films (youtube.com)

「ブロンコ・ナガースキの突進を止める方法はたった一つしかない。
試合場に現れる前に、奴を撃ち殺すのだ。」

​​​スティーブ・オーウェン NYジャイアンツ・コーチ

選手権は1934年12月9日、NYのポロ・グラウンドでおこなわれました。前夜から冷たい雨が降り続いており、夜中に気温が氷点下をかなり下回ったため、雨が凍り付いてィールドがスケートリンクのようにカチカチになりました。当日ポロ・グラウンドでは5万枚のチケットが完売になっていましたが、あまりの寒さのため、入場した観客は3万5千人でした。

当時、フットボール選手達は土や芝生のグラウンドでプレーするため、クリーツのついた革製のスパイクシューズを履いていました。
試合場に到着して、オンスーツに着替えてフィールドに出た選手たちは驚きました。氷のような地面でツルツルに滑り、いきなり尻もちをついたり、つんのめって両手を付くなど、まるで「母親に連れられて初めてアイススケート教室に来た子供」のような状態だったのです。

1934年NFL選手権(ザ・スニーカー・ゲーム)の模様。地面はガチガチに凍り付いています。中央ボールキャリアがベアーズFBブロンコ・ナガースキ。当時はクビをねじり倒すようなタックルが合法でした。(出典:Wikipedia)

そんな様子をジャイアンツの用具担当マネジャー、エイブ・コーヘンは不思議な気持ちで眺めていました。選手とは異なり、自分は滑って転ぶことなど全く無かったのです。コーヘンだけが足にゴム底のバスケットボール・シューズ(スニーカー)を履いていました。

エイブ・コーヘンの本職はテイラー(スーツ仕立て職人)であり、手先が器用で裁縫を得意としていました。コーヘンがジャイアンツのヘッドコーチ、スティーブ・オーウェンの背広を仕立てたことがきっかけで、「週末の試合がある日だけ更衣室で裁縫のアルバイトをしてくれないか」とコーチから頼まれ、快く引き受けていました。
当時はジャージやパンツなどが貴重品であり、プロ選手でも、破れた部分を針と糸と当て布で補修してユニフォームを長く使用するのが当たり前でした。器用なコーヘンは衣類の補修だけでなく、壊れた防具の修理などを瞬く間に仕上げるので、チームにとってかけがえのない存在となりました。
いつの間にかコーヘンには「用具担当マネジャー」という肩書が与えられ、もともとジャイアンツの大ファンであったコーヘンはその肩書を心から誇りに思っていました。

試合開始時間が近づく中、コーヘンは勇気を出してスティーブ・オーウェン・コーチに声を掛けてみました。

「あのう・・・コーチ・・・選手達にスニーカーを履かせた方が良くないでしょうか?今、私の履いているスニーカーは氷の上で全然滑らないのです。」

当時、プロフットボール選手達は上着・ネクタイ・革靴という正装で移動するのが常識であり、試合場にスニーカーでやってくる選手など一人も居ませんでした。つまり全選手がクリーツ付きのスパイクシューズとスーツ用革靴だけしか持っていなかったのです。それはビジターのシカゴ・ベアーズ選手にしても同じことでした。

「すぐにスニーカーを出来るだけ多く揃えてくれ!」

スティーブ・オーウェン・コーチから命令を受けたコーヘンでしたが、すぐに自分が絶望的な状況にいることに気が付きました。当時NFLの試合は「日曜開催」と決まっており、日曜日はキリスト教の安息日となるため、商店などは全て日曜が定休日となっていた時代でした。町中探しても開いている靴屋など一軒もないのは明白だったのです。(当時、大型ショッピングセンター等はまだ存在しない)もし1軒の靴屋を無理やり開けさせたとしても、選手たちの足はみな巨大であり、特大サイズのスニーカーを同時にたくさん揃えることなど到底不可能に思えました。

スーツ仕立て職人、そして「NFL選手権の結末を変えた男」エイブ・コーヘン

途方に暮れたコーヘンの頭に一つの考えが浮かびました。

「バスケットボール部の部室ならば、特大サイズのスニーカーがたくさん有るはずだ!」

コーヘンは、以前マンハッタン・カレッジという大学のバスケットボール部からもユニフォームの補修の依頼を受けたことがあり、部室の所在地がわかっていました。
マンハッタン・カレッジは試合場からクルマで20分ほどの距離でした。大急ぎで大学に駆け付けたコーヘンは再び途方に暮れました。この日はバスケットボール部の練習が休みで、部室には誰もおらず鍵がかかっていたのです。
悩んだ末にコーヘンは大きな決断をします。彼はカギを壊して部室に入り込み、大きな袋に12足分のバスケットボール・シューズを詰め込み、次のような手紙を部室に置いて立ち去りました。

「本日の選手権試合に使用するため、スニーカー12足を拝借しました。カギを壊したのは私です。明日、お詫びと弁償のために参上します。

NYジャイアンツ 用具担当マネジャー、エイブ・コーヘン」

コーヘンが試合場に戻った時には、既に第3クォーターの途中まで試合が進んでいました。
両軍選手とも足元が滑って攻撃が前に進まず膠着状態でしたが、地力に勝るベアーズが前半を10-3でリード。第3クォーター、更にベアーズがFGを追加して13-3となり、ほぼ勝負あったと見られていました。そこに12足のスニーカーを抱えたコーヘンが息せき切って現れたのです。
まず試しにエースRBケン・ストロングにスニーカーを履かせてみたところ、いきなりロングゲインをしたため、他の選手達も争ってスニーカーを欲しがりました。スティーブ・オーウェン・コーチが、バックスの選手12名に限定してスニーカーを与えたところ、その瞬間から試合の様相は劇的に変わりました。この日の試合結果をご覧ください。

1Q 2Q 3Q 4Q
シカゴ・ベアーズ 0 10 3 0 13
NYジャイアンツ 3 0 0 27 30

第4Qに入ってから、ジャイアンツが走力の差を見せつけ、4タッチダウンを連続して奪い、大逆転劇となりました。途中ベアーズのジョージ・ハラス・コーチは、ジャイアンツのバックスがスニーカーを履いていることに気付き、「(自分達のクリーツ・シューズで)奴らの足を踏みつけろ!!!」と叫びましたが、時すでに遅く、試合の流れを変えることは出来ませんでした。
シーズン全体では、ベアーズ13勝1敗、ジャイアンツ9勝5敗でしたが、NFL選手権に勝ったジャイアンツが7年ぶり2回目の王座に着きました。スティーブ・オーウェン・コーチにとっては初優勝で、オーウェンは結局24年間ジャイアンツを率いて、優勝2回、153勝100敗17分、勝率.605の戦績を残しています。

1934年、圧倒的不利の予想を覆してチャンピオンとなったNYジャイアンツ。前列左端のスーツ姿がスティーブ・オーウェン・コーチ。このスーツもエイブ・コーヘンが縫い上げたものと推測されます。(出典:Wikipedia)

この試合は、「NYジャイアンツの勝利」と言うよりも、スニーカーの勝利」であり、「用具担当マネジャーのもたらした勝利」であることは明らかでした

1934年のNFL選手権は、のちに「ザ・スニーカー・ゲーム(The Sneakers Game)」と呼ばれることになりました。この試合は、「天候等に合わせた適正な用具を用いることの重要性」をチーム経営陣・指導陣に自覚させるきっかけとなりました。この日以降、負けたベアーズは極寒の試合のたびに「選手全員分のスニーカーを用意する」ことを習慣にしました。
また、この試合は「本来裏方の存在であるマネジャーの、機転・勇気・行動力が、実際にNFL選手権の結末を変えた試合」として後世に語り伝えられています。

私はこの物語をタッチダウン誌の連載読み物「NFL栄光の試合」で知りました。マネジャー部員であった私は、当時、身体が震えるような思いで、この記事をむさぼり読んだことを覚えています。
そして「ザ・スニーカー・ゲーム」の物語が、のちに私にフットボールの歴史」に対して強い興味を持たせるきっかけとなりました。今は亡き後藤完夫先輩に改めて御礼を申し上げます。

Unicorns Netの次号1899号はコラム掲載のお休みをいただきますが、1900号では記念号として「清水のマネジャー論」を述べたいと考えております。


「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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