清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com
前号コラム「ピート・キャロルのジェットコースター人生」で「カレッジとNFLの両方でチャンピオンになったコーチは歴史上3人しか居ない」と述べました。彼らの功績を再掲します。
ジミー・ジョンソン 現在83歳
1987年 マイアミ大で全米王座獲得
1992年 ダラス・カウボーイズでスーパーボウル優勝
1993年 ダラス・カウボーイズでスーパーボウル優勝
カレッジ通算10年 81勝34敗3分(.704)
NFL通算9年 80勝64敗(.555)
バリー・スィッツアー 現在88歳
1974年 オクラホマ大で全米王座獲得
1975年 オクラホマ大で全米王座獲得
1985年 オクラホマ大で全米王座獲得
1995年 ダラス・カウボーイズでスーパーボウル優勝
カレッジ通算16年 157勝29敗4分(勝率.844)
NFL通算4年 40勝24敗(勝率.625)
ピート・キャロル 現在74歳
2003年 USCで全米王座獲得
2004年 USCで全米王座獲得(但しNCAA規則違反により、のちに王座剥奪)
2013年 シアトル・シーホークスでスーパーボウル優勝
カレッジ通算8年 97勝19敗(.836)
NFL通算19年 173勝134敗1分(.564)
今回ジミー・ジョンソンとバリー・スィッツアーの履歴を調べてみましたところ、この二人の間には強烈なライバル関係があり、「二人だけのコーチ戦争」を展開していたことがわかりましたので紹介します。

カウボーイズ・コーチ時代のジミー・ジョンソン。 彼の古典的とも言える、ビシッと分け目の入った髪型が特徴で、「ジミー・ジョンソンは、フットボールの練習時間よりも長い時間をかけて、ドライヤーで髪型をセットしている」と記者から揶揄されていました。笑
若き日のジミー・ジョンソン
1943年テキサス州生まれ。アーカンソー大学でDLとして活躍しました。
ジミー・ジョンソンは、プレーヤーとして優秀なだけでなく、ディフェンスの理論に長けた頭脳派の部員として知られました。大学4年時にコーチから頼まれ、高校フットボール部ヘッドコーチ達のために開催されたフットボールクリニックに講師として派遣されています。つまり30代~50代の多くの高校コーチが参加したであろうクリニックにおいて、22歳の現役学生ジョンソンが講師を務めたわけです。
この様子を見たルイジアナ工科大のスタッフが、ジミー・ジョンソンに「うちでアシスタントコーチをやらないか」と誘い、35年に渡るコーチ人生が始まります。ルイジアナ工科大でのリクルーティング活動に参加したジョンソンが獲得した高校生QBが、のちにスティーラーズ伝説の名QBとなるテリー・ブラッドショーでした。
14年間で7つのチームを渡り歩き、そのうち1970年からの3年間、オクラホマ大でDLアシスタントコーチを務めました。その時オクラホマ大の攻撃コーディネーターはなんとバリー・スィッツアーでした。ジョンソンとスィッツアーはこの時初めて出会ったと推察します。スィッツアーの方が6歳年上で指導陣の肩書も上でした。スィッツアーは後にオクラホマ大のヘッドコーチに昇格します。
ここからはバリー・スィッツアーの履歴をご紹介します。

オクラホマ大コーチ時代のバリー・スィッツアー。コワモテで、コーチというより「暗黒街の支配者」のような雰囲気が漂います。笑
悲惨な若き日々を乗り越えたバリー・スィッツアー
バリー・スィッツアーは、ジョンソンより6年早い1937年アーカンソー州生まれ。ジミー・ジョンソンがごく普通の青年時代を送ったのに対し、バリー・スィッツアーの若き日々は悲惨でした。
17歳の時、家族全員が自宅に居たところ、警察が踏み込んできて父親が目の前で逮捕され、酒の密造・密売の罪により5年間の刑務所生活を送っています。
父親の投獄中である21歳の時、自宅にバリーと弟が居たにもかかわらず、母親が裏庭でピストル自殺しました。出所してきた父親は、その後、別の女性との痴話げんかの際に射殺されています。
若き日の地獄のような経験がバリー・スィッツアーに「不屈の精神、強靭な忍耐力」を与えたのでしょう。高校で優秀な選手(センターとLB兼務)だったバリーはアーカンソー大学から体育奨学金を得てフットボールを続け、主将に選ばれました。つまりスィッツアーとジョンソンは同じ大学で6年違いの先輩後輩の間柄でした。当時アーカンソー大のHCは知将として有名なフランク・ブロイルズで、バリー・スィッツアーにコーチングの才能を見出したブロイルズは、卒業と同時にアシスタントコーチに任命します。
5年間ブロイルズの下で働いたスィッツアーは、チャック・フェアバンクスHCが率いる強豪オクラホマ大に移り、攻撃コーディネーターとして迎えられます。この頃にジミー・ジョンソンもオクラホマ大コーチ陣の一角となったわけです。
フェアバンクス・コーチは6年間で52勝15敗1分という素晴らしい戦績を残してNFLペイトリオッツに引き抜かれ、オクラホマ大の後任HCには弱冠36歳のバリー・スィッツアーが指名されました。ジミー・ジョンソンはスィッツアーの組閣には選ばれず、他大学に移っています。
前任者チャック・フェアバンクスが好戦績を残して去ったため、「後任のバリー・スィッツアーがそれ以上の戦績をあげるのは難しい」と多くの人が考えていました。ところが初年度から1973年10勝1分(全米3位)、1974年11勝0敗(全米王座獲得)、1975年10勝1敗(全米王座獲得)と凄まじい勢いでオクラホマ大は勝ち続けました。HC初就任から3年間で31勝1敗1分は、ペンシルバニア州立大ジョー・パターノの30勝2敗1分を抜き、歴代最高記録です。
バリー・スィッツアーは30代のうちに既に2回全米王座を獲得し、「伝説の名コーチ」の領域に入っていきました。(1985年に3回目の王座獲得)
スィッツアー率いるオクラホマ大の強さの原因は色々ありますが、最大の魅力は「ウイッシュボーン隊形から繰り出す圧倒的攻撃力」でした。実際の様子を2つのYou Tube画像でご確認ください。
College Football History: The Wishbone – Part 2 – YouTube
HISTORY: Barry Switzer’s 1974 Oklahoma Sooners Wishbone Highlights – YouTube
スィッツアーvsジョンソンのコーチ戦争
1979年、ジミー・ジョンソンは36歳でオクラホマ州立大のHC(ヘッドコーチ)に就任します。オクラホマ大とオクラホマ州立大は同じリーグのライバル同士で、スィッツアーと5年間毎年対戦しましたが5戦全敗。5試合の総得点53、総失点176と惨敗しました。この頃、ジョンソンは強烈なライバル意識をスィッツアーに対して抱いたものと想像します。
スィッツアーから見れば、ジョンソンはまだ「ヒヨッコ小僧」のような存在だったでしょう。

1988年、マイアミ大が全米王座を獲得した後、ホワイトハウスに招かれて、レーガン大統領にユニフォームを贈るジミー・ジョンソン 出典:Wikipedia
オクラホマ州立大での5年間で29勝25敗と特筆すべき戦績をあげていませんでしたが、1984年、ジミー・ジョンソンはマイアミ大のHCに就任します。
実はその前年、1983年マイアミ大はHCハワード・シュネレンバーガーが率いて、初めての全米王座に輝いているのです。ところが優勝した途端、シュネレンバーガーは新興プロリーグであるUSFLに引き抜かれてマイアミ大を去ってしまいます。突然コーチ不在となり、急いで決めた後任がジミー・ジョンソンだったわけで、「ジョンソンって一体何者だ?」という声がマイアミ大ファンの間で出ていたことでしょう。
ところがジミー・ジョンソンはマイアミ大での5年間で52勝9敗と猛烈に勝ちまくりました。
この5年間でマイアミ大は、バリー・スィッツアー率いるオクラホマ大と3回対戦しています。
1985年 マイアミ大 27-24 オクラホマ大(当時全米3位)最終王座はオクラホマ大
1986年 マイアミ大 28-16 オクラホマ大(当時全米1位)最終王座はペンシルバニア州立大
1987年 マイアミ大 20-14 オクラホマ大(当時全米1位)最終王座はマイアミ大
1987年にはマイアミ大が12勝0敗で全米王座を獲得します。バリー・スィッツアーにとってみれば腹の煮えくりかえる状況でした。かつてはヒヨッコのように扱い、相手にしなかったジミー・ジョンソンに3連敗し、86年・87年はオクラホマ大が王座争いの先頭にいたのにマイアミ大に野望を打ち砕かれたのです。
敗れて疲れ果てたバリー・スィッツアーは1988年を最後に、オクラホマ大コーチを引退します。

2017年ダラス・カウボーイズ・オーナー、ジェリー・ジョーンズ。こちらも「暗黒街の顔役」的な雰囲気が漂います。現在83歳ですが、今もカウボーイズのオーナー兼GMを続けています。出典:Wikipedia
一方、ジミー・ジョンソンはマイアミ大で栄冠を手にした後も、野望が尽きることはありませんでした。彼のもとにはNFLから誘いが来ていたのでした。
アーカンソー大選手時代のチームメイトには、ジェリー・ジョーンズがいました。ジョーンズは優れた選手でしたが、卒業後はフットボールの道を歩まず、実業界に入り、父親の生命保険会社を飛躍的に大きくして大富豪となっていました。
ジェリー・ジョーンズは1989年にNFLダラス・カウボーイズを1億4千万ドル(約220億円)で買収していました。商売上手なジョーンズは、のちにカウボーイズの価値を125億ドル(約2兆円、90倍!)まで引き上げたと言われています。
買収直後、ジョーンズが取った最初の行動は、「HCトム・ランドリーと辣腕GMテックス・シュラムをクビにして、ジミー・ジョンソンをHCにする」ことでした。
トム・ランドリーは、1960年のカウボーイズ創設以来、29年間一人でHCを務め、2回スーパーボウルで優勝して黄金期(250勝162敗6分)を築いた立役者で、ダラスでは神様のような存在でした。
そのランドリーをクビにしたため、GMジョーンズとHCジョンソンにはファンからの強烈な批判がでました。更に1989年、HCジミー・ジョンソンの初年度は1勝15敗とボロボロに負けたため、批判の声は最高潮に達しました。
しかしGMジョーンズとHCジョンソンのコンビは、ここでくじけるような事はありませんでした。
QBトロイ・エイクマン、WRマイケル・アーヴィン(マイアミ大の時のジョンソンの教え子)、RBエミット・スミス等の攻撃陣が機能し始めて、二年目7勝9敗、三年目11勝5敗と戦績を伸ばし、4年目の1992年13勝3敗となり、スーパーボウル優勝を果たします。
この時点で、ジミー・ジョンソンはフットボール史上初の「カレッジとNFLの両方で優勝したコーチ」になりました。バリー・スィッツアーの輝かしい業績を凌ぐ領域に到達したのです。
その翌年、1993年もカウボーイズはスーパーボウルで優勝し、ジミー・ジョンソンは、ビンス・ロンバルディ他に並ぶ「スーパーボウルで2連覇を達成したコーチ」となりました。(現在でも7人のみ)
ところが2連覇の後、ジェリー・ジョーンズ・オーナーとジミー・ジョンソンHCの不仲が明らかになりました。チーム内のことに口を出したいオーナーと、そうさせたくないコーチとの間で亀裂が生じたのです。結局ジミー・ジョンソンは多額のボーナスを受け取る代わりにカウボーイズから離れます。
そしてジェリー・ジョーンズ・オーナーが後任HCとして選んだのが、バリー・スィッツアーだったのです。ジミー・ジョンソンからすると「一番なってほしくない人物が、自分の後釜に座った」ように感じたことでしょう。
バリー・スィッツアーには6年間の引退ブランクがあり、プロチームで指揮を執るのも初めてでしたが、猛烈な勢いでチーム強化に進みます。ジミー・ジョンソンが育てたQB・WR等攻撃陣の要はそのまま起用し、更に大金を投じてトレードで新戦力を獲得しました。
初年度(1994年)は12勝4敗のあとNFC決勝で敗れましたが、翌年はスーパーボウル優勝を果たしました。ジミー・ジョンソンが達成した、わずか3年後にバリー・スィッツアーも「カレッジとNFLの両方で優勝したコーチ」になったのです。
大目標を達成して、多少意欲を失ったのか、4年目(1997年)に6勝10敗となった時点でバリー・スィッツアーは2度目の引退を宣言します。
2年間の休養の後、1996年ジミー・ジョンソンはマイアミ・ドルフィンズのHCに就任し、「2つのNFLチームでスーパーボウル優勝」という新たな目標に挑戦しましたが、4年間で優勝には及ばず、夢果たせずに終わりTVコメンテーターに転進しました。これで「ジミー・ジョンソンとバリー・スィッツアーの戦争」は終結したことになります。
ジミー・ジョンソンとバリー・スィッツアーの戦争の結果をまとめますと、「はじめはスィッツアーが圧倒的にリードしており、ジョンソンは足元にも及ばなかったが、次第に追い付いて一気に形勢逆転となり、ジョンソンの勝利と思われた。しかし、最後にスィッツアーが起死回生の一撃を放ち、勝負は引き分けに終わった」というところではないでしょうか?
この二人は周囲の人々から嫌われることも多かったようです。二人に関する爆笑迷言をご紹介します。
(ジミー・ジョンソン・コーチ率いるマイアミ大が、圧倒的攻撃力でいつも高得点を取っていることについて)
「ジミー・ジョンソンが低い得点しかできなかったのは、今から27年前、
彼が大学の試験を受けたとき以来ありません。」
ジム・ナンツ(ブロードキャスター)
(ダラス・カウボーイズのバリー・スィッツアー・コーチを毛嫌いして)
「あいつはフットボールのコーチなんかしていない。
奴のしていることは、試合を見ていて、反則をするべき時と、
するべきでない時の指示をするだけだ。」
バディ・ライアン(フィラデルフィア・イーグルス・コーチ)
「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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