【清水利彦コラム】「フットボールにおける黒人選手起用の歴史」&「ローザ・パークス物語」2026.05.14

清水利彦(S52年卒)
shimizu.toshihiko2@gmail.com

 

前回コラム「カレッジフットボールの南北戦争」の続編になります。

※現在では黒人という言葉が差別用語であり、アフリカ系アメリカ人と呼ぶべきであることは承知していますが、白人たちに搾取され迫害され差別された彼らの歴史を述べるにあたり、人種差別に怒りを覚える私は、あえて当時のNegro(黒人)という言葉をそのまま用いています。ご了承ください。

フットボールにおける黒人選手起用の歴史

アラバマ大伝説の名コーチ、ポール・ベア・ブライアントは全部で6回全米王座に就いていますが、前半の3回1961年、1964年、1965年)は「全員白人だけのチームで、チャンピオンとなっていた」のです。

南北戦争における北軍の勝利によって、アメリカ合衆国憲法に奴隷制度の廃止や黒人に市民権・選挙権を与えることが盛り込まれたのは、古く1870年のことですが、南部の白人たちにとっては、今まで「雇い主と奴隷」の関係でいたのが、連邦政府から突然「白人と黒人は平等だから仲良くしろ」などと命じられても、到底承服できることではありませんでした。

そのために南部の白人たちが考えた方策が、「segregation(分離・隔離)」という概念です。「差別はしませんが、分離します」という考え方のもとに、バスの座席、公共のトイレや水飲み場など至る所が「白人用」と「colored(有色人種用)」とに分離され、黒人が白人用の場所に入ることは許されなかったのです。

実質的には明らかな人種差別であり、Segregationは、連邦発令から逃れて人種差別を続けるための便法でした。

1956年、アラバマ州のスーパーマーケットの前に立つ、黒人の母娘。上に「Colored Entrance」(黒人専用入口)の赤いサインが見えます。店の正門は別の場所にあり、そちらは白人しか出入りが出来ませんでした。

北部の各州が次第に黒人を受け入れるようになった後も、南部の各州においては強い人種差別意識が存在しており、特にアラバマ・ジョージア・ミシシッピ州などではその傾向が顕著でした。強烈な人種差別推進派として知られるジョージ・ウォーラスがアラバマ州知事に当選したのが1962年のことです。

公民権法が成立したのは1964年であり、南北戦争以来なんと94年間の長きに渡って「segregation(隔離)」と言う二重構造が南部には存在しており、実質的な人種差別が続いていたのです。

カレッジフットボールにおいても、1960年代の後半まで、SECリーグ全校において、黒人選手の入部を認めないという紳士協定が存在していました。それどころか、ミシシッピ大に至っては、非常に強力なチームであったにもかかわらず、「黒人選手が混ざっているチームとは試合をしない」という方針により、北部の大学と戦うことを拒否し、ボウルゲームへの出場を辞退しています。

ポール・ベア・ブライアントは決して人種差別推進主義者ではありませんでしたが、彼が率いる白人だけのチームが幾度も全米チャンピオンになったことで、白人純血主義者がその正当性を主張する根拠とされ、彼らのシンボル的存在に祭り上げられていました。

1950年代はアラバマ州法により、黒人の居るチームをアラバマ州に招待して試合をすることが禁じられていたため、ブライアントはそれに従っていましたが、他の州に出かけて試合をすることは違反ではありませんでした。そこで彼は1959年リバティボウルへの招待を受け、黒人5名が入部していたペンシルベニア州立大と対戦しました。これはアラバマ大が黒人選手の居るチームと戦った最初の試合になりました。この試合を組むことに反対したアラバマ大学理事が抗議の辞任をする騒動まで起こりましたが、その後もブライアントは、黒人が混ざっているチームとのボウルゲームに積極的に参加しています。

南部では人種差別が根強く残りましたが、全米の他の地域では次第に人種平等が一般的となっていきました。1966年はアラバマ大が11戦全勝していながら、9勝1分のノートルダム大とミシガン州立大よりもランキングが下(3位)に置かれた異常な事態が起こりましたが、これはランキングの投票をする人達の多くが北部の人種平等主義者であり、黒人選手を入部させないアラバマ大への批判があったためと言われています。

SECリーグ内でも、ついにフロリダ・ケンタッキー・バンダービルトの各校が黒人選手の採用に踏み切りました。1969年にはアラバマ大にとって最大のライバルであるオーバーン大が黒人を入部させています。ちょうどその年に6勝5敗の大不振にあえいでいたアラバマ大は、シーズン終了後、ついに黒人選手の入部にゴーサインを出し、同大にとって初の黒人奨学金部員として、RBウィルバー・ジャクソンを獲得しました。

ジャクソンはアラバマ大で活躍したあと、NFLドラフト第1巡第9位で49ersから指名され、計7年間プレーしました。彼のプレーぶりは下記サイトでご覧ください。

Wilbur Jackson Alabama Career Highlights | Star Tailback 1971-1973

 

1971年、アラバマ大初の黒人選手、RBウィルバー・ジャクソン

1970年もアラバマ大は不振でした。シーズン初戦、アラバマ州に遠征してきたUSCと戦い、21-42で完敗しました。この試合でUSCの黒人エースRBサム・カニンガムは3TDをあげ212ヤード走る活躍をみせ、もう一人の黒人RBクラレンス・デービスも2TDをあげましたが、デービスはなんと地元アラバマ州バーミンガムの出身者でした。南部の大学が黒人選手を受け入れないため、南部生まれの有力黒人高校選手が、皆、北部や太平洋岸の大学に流れていたのです。

この手痛い敗戦は、アラバマ大ファンの認識を覆すに充分でした。試合の後、誰もが「我々も黒人選手を起用しなければ、二度と全米チャンピオンにはなれない。」と悟ったのです。ポール・ベア・ブライアントは後年、「マーチン・ルター・キング牧師(公民権運動家)が20年間掛かっておこなったことを、サム・カニンガムはわずか60分でやってのけた。」と回想しています。結局1970年は6勝5敗1分に終わりました。この年の全米チャンピオンはテキサス大でしたが、これが白人だけで全米王座に着いた最後のチームとなりました。言い換えれば、1970年(わずか56年前)には白人だけでプレーするチームが全米チャンピオンになることが出来たのです。

アラバマ大は1971年には、短期大学から黒人RBジョン・ミッチェルを編入させ、ウィルバー・ジャクソンとコンビを組ませたため、得点力は飛躍的に上がりました。レギュラーシーズンを全勝で乗り切り、5年ぶりのSECリーグ優勝を果たしたのです。

アラバマ大の黒人選手獲得はめざましいスピードで進み、3年後の1973年に全米チャンピオンに復活したときには、全部員の3分の1が黒人選手となっていました。

 

1937年、オーナーのジョージ・プレストン・マーシャル(中央)とNFLレッドスキンズの選手たち。1960年まで白人だけのチームを維持しました。 出典:Wikipedia

NFLにおいては、カレッジフットボールよりも少し早く黒人選手起用が始まりました。とは言っても、一つのチームに1~3名程度の黒人選手しか雇わないケースが多くみられました。「うちのチームには、ちゃんと黒人選手が居ますよ」というポーズを、連邦政府に対して取るために黒人を採用する球団があったわけです。NFLで最後まで黒人起用に逆らったのがワシントン・レッドスキンズでした。レッドスキンズのオーナー、ジョージ・プレストン・マーシャルは極端な「人種隔離主義者」として知られ、最後まで白人だけのチームにこだわりましたが、1961年ついに黒人選手と契約しました。

1961年、レッドスキンズの試合中、白人のファン達により掲げられたプラカード。「マーシャル・オーナーに告ぐ。レッドスキンズは白人だけのチームを維持せよ!!」とあります。

グリーンベイ・パッカーズのコーチ、ビンス・ロンバルディは人種差別主義を持たない人物として知られています。1959年にパッカーズを率いて、はじめに2名の黒人選手と契約しましたが、当時ダラスなど、南部のチームへの遠征ではチーム全体がいろいろな差別を受けました。

遠征先のレストランで、チーム全員で食事をした時のことです。レストラン支配人から「先ほど入店なさる際に黒人選手が正面玄関から白人と共に入って来られましたが、こういうことをなさっては困ります。退出なさる時は黒人だけ裏の通用口から出て行ってくださるようお願いします。」と言われました。

これを聞いたロンバルディは腹を立て、直ちにチーム全員を裏の通用口から退出させ、レストランを立ち去っています。

このようなロンバルディ・コーチの毅然とした態度により、パッカーズは「黒人選手にとって居心地の良いチーム」となりました。そしてDLウィリー・デービス、DBハーブ・アダレィー、LBデイブ・ロビンソン、TEマーブ・フレミング等、珠玉の黒人名選手たちがビンス・ロンバルディによって育てられ、のちにパッカーズの黄金期を築き上げたのです。

「1960年まで、NFLには白人だけで戦うチーム(ワシントン・レッドスキンズ)が存在した。」

「1960年代後半まで、SECリーグには一人の黒人選手も存在しなかった。」

「1970年、テキサス大は全員白人のチームで全米チャンピオンとなった。」

等々、特に若手卒業生には驚かれることばかりだと思います。そんなに大昔の話ではありません。わずか60年ほど前の話なのです。

コラム後半は、南部アラバマ州における人種差別撤廃への大きな足掛かりとなった、「ローザ・パークス事件」についてお知らせします。

 

ローザ・パークス事件(人種差別に一人敢然と立ち向かった女性の物語)

南北戦争終了(1876年)から1964年まで、南部諸州にはジム・クロウ法と呼ばれる人種隔離の法律が存在しました。レストラン・公共バス・トイレなどあらゆる場所が「白人専用(White)」と「黒人専用(Colored)」に分けられたのです。純粋な黒人だけでなく、1/16でも黒人の血が入っている人間は黒人と見做されました。また日本人も南部においてはColoredに分類されていました。

当時公共バスにおいては、前半分が白人専用席、後方半分が黒人専用席となっており、更に「その境界線は運転手が自由に変更できる」というルールがありました。つまり、白人席が混雑してきて、座席に座れない白人が出ると、運転手は「境界線を後ろにずらす」とアナウンスします。これにより黒人が席を譲り、白人が席に座り、黒人は狭くなった後方部分に立つことになります。

ローザ・パークス 1956年撮影

1955121日夕方、アラバマ州モンゴメリーでのことです。42歳の黒人女性ローザ・パークスは百貨店での勤務を終え、市営バスで自宅に向かっていました。ローザは後部黒人席の最前列に座っていました。しだいに車内が混雑し白人で座れない乗客が出たため、運転手は「境界線を一列(4名分)後方にずらす」と指示します。3名の黒人が命令に従い、席を譲って後方に立ちましたが、ローザは頑として動きませんでした。

運転手がローザのところにやってきて「何故立たないのか」と詰問し、座席を譲るよう命じましたが、ローザは「立ちません」と拒否しました。運転手が「立たないのであれば、警察を呼んで逮捕させるぞ」と脅しましたが、ローザは「どうぞ、そうなさい」と返答しました。

ローザは終始、静かで威厳に満ち、毅然たる態度を貫きました。

運転手が警察に通報し、ローザ・パークスは市条例違反で逮捕されました。いったん市の拘置所に入れられましたが保釈され、後日簡易裁判所で罰金刑を受けました。

ローザ・パークス逮捕の知らせは、同じアラバマ州モンゴメリーに着任したばかりの牧師マーチン・ルター・キングJr.(”I have a dream”の演説で知られる公民権運動家)に届きました。キング牧師は仲間とともに「モンゴメリー市営バスのボイコット」をおこなうよう呼びかけ、黒人の多くが追従しました。

市営バス利用者の75%は黒人であったため、ボイコットにより、モンゴメリー市は経済的打撃を被りました。ローザはキング牧師たちと共に、バス車内での人種分離は違憲であるとして控訴し、195611月、連邦最高裁判所は違憲判決を出し、公共交通機関における人種差別・人種分離は禁止されました。

キング牧師は、「ローザ・パークス事件の勝利」を契機として、全米各地に公民権運動を展開し、これに呼応するように、当時のケネディ大統領は、南部諸州における様々な人種差別を禁止する法律を立法しました。ケネディ大統領は1963年11月に南部テキサス州ダラスで暗殺されましたが、1964年、後を引き継いだリンドン・B・ジョンソン大統領により、公民権法(Civil Rights Act)が制定され、すべての人種差別・人種分離は禁止されました。勝利を収めたキング牧師も1968年4月に南部テネシー州メンフィスにて銃弾により死去しています。

ローザ・パークスが移動を拒否したバスは、今もヘンリー・フォード博物館に保存・展示されています。2012年、そのバスに彼女と同様に座ってみせるバラク・オバマ大統領。 出典:Wikipedia

ローザ・パークスはキング牧師らと共に参加した公民権運動の象徴的存在となり、「公民権運動の母」と呼ばれるようになりました。一人の一般民間女性が起こした勇気ある行動が全米に広がり、アメリカ合衆国の歴史を変えた、貴重な例として、学校の教科書にも記載されるようになりました。

1999年には、アメリカ連邦議会が「もっとも偉大なアメリカ市民に贈る賞」として知られる議会名誉黄金勲章を彼女に授与しています。

ローザ・パークスは2005年に92歳で亡くなりましたが、カリフォルニア州とミズーリ州では彼女の誕生日を、オハイオ州とオレゴン州では彼女が逮捕された日を、それぞれ「ローザ・パークスの日」として州の祝日と定めています。

(インタビューで「あなたがバスの席を譲らなかったのは
あなたの身体が疲れていたからですか?」と訊かれて)

「私は、身体が疲れていたのではありません。
『屈服すること、服従すること』に疲れていたのです。」

    公民権運動の母、ローザ・パークス

 

「清水利彦のアメフト名言・迷言集」
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